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2.『そぞろの民』:戦後民主主義の死

 10年ぶりの再演である。新しい俳優たちが加わり、戯曲にも少し変更があるが、大筋は変わらない。2015年9月の初演時には、国会前に安全保障関連法に反対する人々が集まり、日によっては数万人もの人々が車道にまであふれて抗議の声を挙げていた。

 『そぞろの民』は、こうした国会前デモの興奮をたくみに取り入れていた。登場人物たちは戦後日本の民主主義をめぐって議論する。人物の設定や会話の内容には、やや強引に思えるところもあったが、連日万単位の人々が抗議の声を上げている最中、舞台上で戦後民主主義をめぐる議論が繰り広げられるのを体験するのは同時進行的な現実感があり、その臨場感に圧倒された。あれから10年、舞台は今どのように見えるだろう。

TRASHMASTERS『そぞろの民』
作・演出=中津留章仁
2025年7月25日(金)~8月3日(日)/下北沢駅前劇場
撮影=ノザワトシアキ

 戦後の民主主義を言論活動で支えた沖縄出身の元大学教授豊島恭三(中嶋ベン)の自殺から舞台は始まる。東京の彼の自宅は通夜の会場となり、次男慶吾(星野卓誠)の再従兄弟である我那覇翔(長谷川景)をはじめ、沖縄からも近親者が集まる。平和主義者だった恭三を悼んで集まった人々は、民主主義への希望と、それを否定しかねない保守政治への危機感を話し合う。

 昼夜で『廃墟』と交互に公演される日も少なくないことから、空間配置はおおむね両者共通している。とはいえ、『そぞろの民』の室内は、敗戦直後のバラックではない。左手には流し台や冷蔵庫、食器棚のある台所、中央から右手にかけてはリビング、奥には廊下、廊下のガラス戸越しに狭い庭が見え、台所の奥には二階に通ずる階段もある。通夜の席に必要な酒や料理を出したり、着替えや風呂をすすめたりするのは、おもに慶吾の妻香織(川﨑初夏)と三男勇樹の恋人智美(杉本有美)だ。『廃墟』から80年近く経過した21世紀の話とはいえ、切り盛りはやはり女性たちが行っている。

 集まった人々は、リベラル派と現実派に分かれる。リベラル派にはジャーナリストが多い。慶吾は大手新聞社記者、妻の香織は週刊誌編集者、慶吾の従兄弟の宮里銀次(みやざこ夏穂)は放送局勤務のドキュメンタリー制作者、知人の甲斐宣久(寺中寿之、8月1日以降は中津留章仁)は週刊誌記者という設定である。三男の豊島勇樹(倉貫匡弘)はジャーナリストではないが、システムエンジニアとして開発したAIが武器に転用されたことに抗議したため、社内で理不尽な扱いを受けた経験を持つ。やはりリベラル派といえよう。

 一方、外交官で海外勤務の長男孝太郎(千賀功嗣)は現実派である。通夜の席で彼は、日本が再び戦争に参加する可能性を考察するように生前の父恭三に迫ったことがあったと打ち明ける。居合わせた家族は、父の自殺の遠因は、孝太郎にあったのではないかと熱くなるが、孝太郎は押し返し、戦後民主主義は、協調性には長けているが自ら考える主体性と勇気を欠いた大衆を生み出したにすぎない、父も同意見であり、とくに次男慶吾の協調性は戦後社会の最大の欠陥を体現していると慶吾を批判し、一同を黙らせる。孝太郎を演ずる千賀の冷静な演技は、場面を引き締める効果があるとともに、現実派がリベラル派を圧倒する状況を示していた。恭三が入所していた介護施設の副施設長郷田絢香(小崎実希子)がもたらした施設内での父の振る舞いも、孝太郎の判断を支える。

 結局、父の恭三も戦後民主主義に限界を感じていたことが明らかになる。「協調性」と言えば聞こえは良いが、戦後民主主義は、空気を読むことに長けた、腐りきった日和見主義者を大量に生み出したに過ぎないというのである。一方、主体性と勇気を欠いた大衆の一人であると父から見られていたことを知った慶吾は衝撃を受け、翌朝、驚くべき行動に出る。慶吾の行動は戦後民主主義の終わりを示す。ここで舞台は終わる。

 2015年夏の初演時には、安保関連法反対運動に大衆社会批判を重ね合わせ、沖縄出身のリベラル派の学者の自殺をめぐる対話劇に仕上げた作家の力量に感銘を受けた。民主主義の実践に必要な他者との対決や徹底した議論を避けて協調的に振る舞う人々を「そぞろ」と呼び、協調的な人々を生み出した戦後民主主義への批判を登場人物に語らせ、国会前デモで揺れる世相にぶつけた力業に驚いたのである。

 これに対して今回は、国会前デモの熱気の代わりに、三好十郎の『廃墟』と対になっての上演である。『廃墟』のテーマが生であるならば、『そぞろの民』のテーマは死であろう。『そぞろの民』の最後で、父(恭三)と次男(慶吾)が同じ弧を描く展開は、自主性の喪失という観点から行われる戦後民主主義批判に、一人の登場人物の運命を左右する重みをもたせた点で気にはなったが、『廃墟』と通しで観劇した際、敗戦直後のゼロ地点を生きた人々の力強さとは対比的に、現在の私たちの衰弱を示すエンディングとして納得がいった。

 現在は10年前とは異なる状況にある。参政党の選挙集会に黒山の人だかりができ、第二次トランプ政権の誕生が日本をとりまく国際秩序の再構築を強いる。そのためか、今回は外交官に設定されている長男孝太郎の平和主義批判に、初演時にもまして、強い印象を受けた。おりしも戦争を体験した世代が消えつつある。体験者の話を直接聞くことで受け継がれてきた平和教育は曲がり角に来ている。戦争はもうこりごりだ、平和が大事だ、という思いを受け継ぐだけでは、平和は実現しない。では軍備増強の道をひた走ればよいのだろうか。

 漠然とした不安感が広がる2025年の夏、劇中で自殺した豊島恭三が書き残した、協調性と沈黙よりも他者との真剣な対話を通して現実を切り開く姿勢は、これまでにも増して重要になると思った。


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