鮭スペアレ版の『リチャード三世』がめざすものとは? ── 鮭スペアレ版『リチャード三世』/井上優

作=ウィリアム・シェイクスピア、訳=坪内逍遥
構成・ドラマトゥルク=宮川麻理子
演出=中込遊里
2025年 12月 6日(土)/音楽館セレレム
撮影=和知明
0.はじめに
鮭スペアレ――奇妙な名前のこの劇団を初めて見たのは2018年末、『マクベス』だった。題して『鮭スペアレ版マクベス』。
正直この公演について十分に咀嚼できたわけではなかったが、強烈なインパクトがあったので、この時の印象を書き綴った劇評を『シアターアーツ』の本誌に載せてもらった。(「2018年末に古い日本のシェイクスピアを楽しむ──益田太郎冠者作『新オセロ』と坪内逍遥訳『マクベス』」、『シアターアーツ』63号(2019春)、2019年)
ただし、坪内逍遥の訳文でシェイクスピアを上演するというこの劇団の方針とその実践に面白味を感じたものの、どこか未完成な部分を感じたので正直にその印象を書いた。逍遥訳の「重さ」に俳優の身体がついていけてないと。砕いていえば、逍遥訳が「言えてない」なと思ったのだ。この劇団が「未成熟」を売りとしていたわけでもなさそうなので(成熟を志向しているようだったので)、あえてそこを課題と指摘した。
以降、断続的にこの劇団を見せてもらう機会はあったのだが、当然、最初に感じた「未完成感」がどのように解消されていくかに、関心が向いていた。2020年に観たのは『リア王』(「物狂い音楽劇『リヤ王』』と題されていた。2020年2月、銕仙会能楽研修所)。印象としてはあまり『マクベス』の時と変わりなかった。
けれど、コロナ禍で配信でしか見られなかった『リチャード三世』(「鮭スペアレ版『リチャード三世』」2021年4月)で驚いた。「あれ? 言えてるじゃん!」という上から目線のような感想。「何が起こったのだろう? ――いや役者がうまくなったんでしょ? ――そりゃそうだ」。だが、単純にうまい下手ではなく、役者が活きる趣向が十分に機能していたのだと後で気づいた。でもその話はとりあえず後で。
そして昨年(2024年)、久しぶりの対面観劇(2022年にも海外凱旋版であった『マクベス』が再演されていたがこれは都合がつかず見送っていた)。「鮭スペアレの持たざる演劇『すってんテンペスト』」。“持たざる演劇”というのは、コンパクトで簡素な舞台を用いた、どこでも上演可能な公演形態を称してのものという。グロトフスキーを想起させる言葉の選び方だがそこまでの先鋭性は意識していなさそうだ。で、『リチャード三世』で感じた“成長”(なんかこれもエラそうな言い方で申し訳ない)を確認できたのか。
01.持たざる演劇が持てなかったもの?
私が見たのは2024年12月15日、会場となったのは武蔵小杉の東福寺。寺の境内を使うという時点で、劇場ならざる場所での公演を前提とした”持たざる演劇”にも適したロケーションである。
実際、『テンペスト』はシェイクスピアの作品の中でも登場人物は少ない方で、場面の移動もほとんどない。古典主義に近い作品とさえ言われている。その意味では“持たざる”という方向性にも合致している。
その公演のプレトークで、演出の中込が興味深いことを言った。たしか、何故逍遥訳にこだわるのかという問いに対する答えだった。逍遥の音楽性(音楽劇になりうる点、という言い方だったかもしれない)に惹かれるのだと。
それを聞いて、「なるほど!」と思った。『リチャード三世』が面白かったのはそこだ。言葉を音楽として響かせることに成功していたのだ。
確かに逍遥の訳文はもっぱら旧劇の香りを残しており(それを逍遥が本当によしとしたかどうかは別として)、音楽性が強く刻印されている。その訳文の音楽性は外的な音楽的要素との相性が高い。歌舞伎や人形浄瑠璃が、常に、楽の音と付け板と拍子木のリズムがついてまわるのと同じだ。
鮭スペアレの『リチャード三世』も、音の遊びに満ちていた。もともとそれはこの劇団の大きな特色だったのだが、それが耳に心地よく響く形で完成に近づいたということだったのか。
それなら『テンペスト』も期待できるかもしれない。ウェブサイトにもこうある。
鮭スペアレの『すってんテンペスト』では、(ここ数年の演出とは異なり)俳優のみで上演する。俳優は特定の役を演じない。『テンペスト』の主人公であるプロスペローと彼を取り巻くキャラクターたちの言葉が、複数の俳優によって「語られる」。それらの仕掛けによって、演劇の場に集まった人たちの想像力をフル活用する状況を作り、なにも持たない“すってんてん”の状態で、「魔法を捨てた」プロスペローと一緒に遊ぼうというのである。(劇団公式ウェブサイト「【2年ぶりの公演!】鮭スペアレの持たざる演劇 『すってんテンペスト』」より)
確かにここでは、常に伴奏が鳴っていたこの劇団のこれまでの上演と異なり、俳優たちが語る言葉を頼みとしていた。俳優の身体のみで、坪内逍遥訳の“音楽性”に、遊びを仕掛けていったということなのであろう。
そして、実際、遊び心は随所にあった。例えばミランダとファーディナントのカップルの表現。俳優が正面を向いているときはミランダ、色違いの服の背中を向けるときはファーディナンドという一人二役だった。いずれにしてもテキストにはない遊びである。もしかしたら、これは、“持たざる”を標榜した以上、そこで何ができるか? という試みだったかもしれない。
ただ一方で、こうした遊びが、逆にノイズになった印象も受けた。身一つで音楽性を確保しようとの試みの中での“遊び”の探求なのだろうが、その身体に、こうした負荷を引き受ける開き直りと覚悟が感じられなかった。けれん味に満ちた逍遥のレトリックが醸し出す音楽性に対抗する身体の体現までは行けていなかったという印象を受けたのだ。そうなると遊び心の部分がちょっと浮いてしまう。
いや役者のせいではない。そもそも“持たざる”ことを標榜した時点で、逍遥の音楽性が完結することないまま空中浮遊してしまっていた。繰り返すが、逍遥の音楽性は、ガンガンいろいろな音色が鳴り響く“伴奏”があって完結するというのが前作で得た感触だった。それがないときにどうするか、いかに“何も持たなくてもその音楽性を発揮するか”に踏み込めていないなぁというのが実感だった。その意味ではこの”持たざる”試みはまだ道半ばなのかもしれない。




