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ピーピング・トム『トリプティック』撮影:片岡陽太

 『トリプティック』つまり「三幅対」ないしは「三部作」という名のこの作品は、ピーピング・トム1)ピーピング・トムは、アルゼンチン出身のガブリエラ・カリーソとフランス出身のフランク・シャルティエが2000年に立ち上げたベルギーのダンスカンパニー。その頃2人はアラン・プラテルの les ballets de C de la B のメンバーでもあり、プラテルの『バッハと憂き世』で1998年の来日公演に参加している。ピーピング・トムとしての来日は今回で6回目。の作品としては珍しく抽象的なタイトルをもっている。元々はオランダのネザーランド・ダンス・シアター(NDT)の委嘱を受けて作られたそれぞれ30分ほどの3作品であり、自分たちのカンパニー作品としてひとつにまとめて再制作した際にこのタイトルがつけられた。3つの作品とは、『ミッシング・ドア』、『ロスト・ルーム』、『ヒドゥン・フロア』2)NDTで制作された際の構成・演出は、『ミッシング・ドア』(2013年)がカリーソ、『ロスト・ルーム』(2015年)と『ヒドゥン・フロア』(2017年)がシャルティエ。ピーピング・トムの作品として再制作されたのは2020年。そのときはコロナのパンデミックのただ中であったために、2021年のアムステルダム公演はライブ配信という形をとり、日本からも見ることができた。その後、2年前の『マザー』来日公演の際に座・高円寺で行われたフィルム鑑賞会でビデオを見ることができた。私としては、今回3度目にしてようやく本物を見る機会となった。これほどの大作を極東の日本にまで送ってくれたピーピング・トムと、数々の困難を超えて招聘してくれた世田谷パブリックシアターには感謝しかない。。欠けている、失われている、隠されている、という不穏な形容詞があらかじめ指し示しているのは、現れることのないはずのものがいたるところから現れることなのかもしれない。「トリプティック」とはそもそも、霊性の上昇を顕現する三連の祭壇画を指し示すものであり、霊的なものとはおしなべて目に見えないものであることを思い起こせば、霊的なものの顕れがこの『トリプティック』でも見られるのではないかと期待するのも不思議ではない3)祭壇画としてのトリプティック=三幅対は中世やルネサンスに多く描かれるが、実はtriptychという単語自体は中世では使われていない。OEDの用例を見る限り、19世紀中頃に美術史の文脈でそうした祭壇画を指す呼び名として定着したらしい。もちろん中世にトリプティックという言葉はなかったとはいえ、三段階で霊性の上昇を表す理念は存在していたのは確かだ。近代でこの理念を借用した三幅対としては、ピート・モンドリアンの『進化』(1911)が有名だ。。霊的なものとは、隠れていて見えないものであり、それは隠れている真理でもある。隠れている真理は必ずしも心地よいものとは限らない。崩壊へと至る真理もあるだろう。

 2020年のコロナ渦の最中に作られたこの大作をようやく日本で見ることができた。2025年9月27日〜30日、世田谷パブリックシアターにて上演。ピーピング・トムの来日は今回で6度目。すべて世田谷パブリックシアターで行われている。

ピーピング・トム『トリプティック』撮影:片岡陽太

 第1部は「ミッシング・ドア」という。がらんとした部屋に、血だらけのシャツの男がイスにもたれている。床にはうつ伏せの女。ハウスキーパーらしいベストの男がその女を部屋から引きずり出して、床の血を大急ぎで拭く。白いエプロンのハウスキーパーがバタバタと出てきて部屋を整える4)NDTでのクリエイションに参加した湯浅永麻は、このエプロン姿のハウスキーパー役を行ったという。『トリプティック』では、この作品から参加した、台湾出身のワンルン・ユーがこの役を演じている。いずれもハウスキーパー役が東洋人であることを気にする人もいるかもしれないが、バラバラになりそうな個々のエピソードをつなぎ止めている重要な役である。。ゴダールの映画のようにあわただしく殺人が起きていた。

 殺人の痕跡が消された部屋にはカップルがいる。この部屋を借りた客だろうか。そもそもここがどこなのかもわからないまま、ふたりのまわりで異様なことが次々と起きる。ずらりと並んだドアが開いたり閉まったりするのは、お化け屋敷のようでもある。それはトビー・フーバーの『ポルターガイスト』でも見たことがある。突然入ってきた男がなぜかそこにいる女の肩と股を両手でガシッとはさみ、まるで大きなカバンのように部屋中を振り回す。激しい動きにもかかわらず無表情のその女は、人形か死体のように恐ろしい。現実とは思えない別次元にいるようなカップルと、客のカップルは、時々すれ違ったり、入れ替わったりもするようだ。

 ドアから突然吹き込む強風が、部屋の中の人たち——現実と夢の2組のカップル、ふたりのハウスキーパー、他にもいただろうか——をなぎ倒した。観客にはまったく感じられない風なのだが、風にあらがうひとたちの身体のひどいねじれが風の威力を示している。荒れ狂う風に吹き飛ばされてボロボロになり、ひとりまたひとりと倒れていく部屋は、惨憺たるありさまだ。

 よろよろと起き上がったハウスキーパーのふたりが、乱れた部屋を整え、倒れていた女を引きずり出す。この仕草は冒頭とまったく同じだ。ということは、第1部は、永遠に繰り返される時間の円環に閉じ込められているのだろうか、ちょうど『不思議の国のアリス』の「気狂いお茶会」のように。タイトルの失われたドアは、この円環を抜け出すためのドアなのかもしれない。

 こうして第2部への準備が始まった。ドアだらけの壁が取り除かれ、リノリウムが巻き取られるのを、観客は休憩をはさまずに見ていた5)ピナ・バウシュの『バンドネオン』でも、まだ踊っているのにリノリウムがどんどん巻き取られていくのを見させられて驚いたことがあった。『バンドネオン』には、スーツの男性がワンピースの女性の股に片腕を通して、片腕だけで女性を持ち上げるダンスがあった。そのまま上体を別の腕で支えて女性を振り回せば、先ほど触れたピーピング・トムのダンスになる。

ピーピング・トム『トリプティック』撮影:片岡陽太

 第2部は「ロスト・ルーム」という。ハウスキーパーが懸命に床を拭き、バタバタと調度を整えるのは第1部と同じだが、部屋は立派な客室。ベッドがあり、クローゼットがあり、ベランダに開かれた窓があり、これらがいずれも異界との通路となる。ベッドからは夢魔(インクブス)の如き女が現れて、客の男性は濃厚な交合のダンスを踊らされる。ベランダの外は突然の吹雪となり、扉の外に追い出された白いエプロンのハウスキーパーが凍りついてしまう。クローゼットを開けるとわらわらとわけのわからない人があふれ出て部屋いっぱいに広がる。客の女性は、まるで狐に憑かれたかのように、つれの男性のことなど忘れて部屋中を跳びまわる。ベッドの上にぽつねんと現れた女性の首は、キイキイキイキイと鳥のように鳴き、『アルゴナウティカ』に出てくるハルピュイアのように愛らしくも恐ろしい。

 この部屋自体が、楳図かずおの『漂流教室』のように異次元にただよっているのかもしれない。現実とは思えない動きや、想像の先へと逃げて行く動きが収拾がつかないほど次々と積み重なって行く。あいかわらず床を拭いているハウスキーパーの手の少し先を逃げて行く雑巾は、『鏡の国のアリス』でアリスの手の少し先を逃げて行く灯心草のようだ。そのベストの男の前に、年老いたもう一人のベストの男が忽然と現れる。老いた彼自身か、あるいは父親だろうか。年老いた男は悄然として泣き崩れる。その涙は、『不思議の国のアリス』でアリスが自分の涙の池に落ちてしまったように、やがて床一面を覆っていく。

 第3部への改修工事は、その涙をためる堰を作ることから始まった。工事の間、舞台の片隅には即席のカウンターバーが作られてダンサーたちもくつろいでいた。『トリプティック』の中で唯一といえる穏やかな時間だった。でもそれは終わりの前のいっときの静寂あるいは茫然自失の時間だった。

ピーピング・トム『トリプティック』撮影:片岡陽太

 第3部は「ヒドゥン・フロア」という。いったいどれだけ時間が経ったのか、既に朽ちかけている水浸しのラウンジの床に、ひとりの女性が転がり込んできた。カップルの女性だろうか、今までずっとなにかに取り憑かれていたが、ようやく目が覚めて、まわりの異常さに驚愕している。あたりのひとたちは裸で、魂が抜けたかのように呆然としている。彼女が声をかけても答はない。感情も消えてただ回り続けるばかりの男と女もいる。異界から襲いかかる風は激しさを増し、竜巻のように皆を吹き飛ばす。残されたのは、水浸しの床でエビのようにのたうちまわる者たちや、ひたすら食べたり飲んだりする者たち。刻み続ける時計の音が、終わりの近いことを示し、混沌と憂鬱に覆われていく。ひとり目覚めている彼女は、奥の部屋にガソリンをまいて火をつけ、終わりにけりをつけた。残された数人は、部屋の隅に寄り添って震えながら終わりを待つばかり。裸で抱き合うふたりは、もう決して離れないようにとひとつの塊となって回り続けるしかない。

 こう言葉にしてみると、なんて悲惨な終わりなのかと思えてしまうが、それほど悲痛な思いで見ていたわけではなかった。火の手が迫る水浸しの舞台は逃げ場のない終わりがそこまで来ていることを思わせるものの、どこか穏やかな感じもした。ようやく終えることができるという絶望の極みの安堵だろうか。

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 ピーピング・トムの多くの作品がそうであるように、いったい何が起きたのか、起きているのか、終わりはあっけにとられるしかなかった。たとえば2年前に見た『マザー』(2016年初演、2023年来日)では、あらゆる母なるものを象徴する如きユルディケ・デ・ブールが幼子を抱きかかえて裸で叫びながら森に消えていった(なぜ裸? なにを叫んでる? 2人はどういう関係? どこに行く?)。『ヴァンデンブランデン通り32番地』(2009年初演、2010年来日)では、異物としてやってきた韓国人の男(ソルジン・キム)が、叫びも凍りつくような雪の中で揺らめきながらくずおれていった(彼は結局受け入れられなかったのか? そもそもここはどこだ?)。『ディドとエネアス』(2021年初演)では、流れ込む大量の土砂と降りしきる砂の中で、世界の終わりがやってきたかのようなまばゆい光に包まれた(ここは家の中ではなかったのか? この光はなんだ? なにがどうなったんだ?)。「ヒドゥン・フロア」の終わりは、この『ディドとエネアス』の終わりと似ている。裸で抱き合うふたりの果てないダンスを、『ディドとエネアス』では降りしきるキラキラした光がつつみ、「ヒドゥン・フロア」ではキラキラした水のきらめきが美しく彩っていた。爽快なまでに絶望を突き抜けた終末だ。

 この世界の終末が近付くと、この世のものならぬものがあちらこちらに現れてくるという。あちらの世界との通路や扉がいくつか開き始めるからだ。もちろんそれは、物語での設定、あるいは宗教的教義を支える世界観での話だが、『トリプティック』でもそれが起きているのかもしれない。この世のものならぬものはダンサーたちの身体の上に顕著に現れる。人間の可能性を逸脱しているかの如き動きが、人間を超えた存在が、その身体の向こうにいることを端的に示してくれるのだ。

 これまでのピーピング・トムの作品では、現実のどこかにありそうな一室で、あるいはどこかの村の片隅で、親子の葛藤や、異質な参入者との軋轢など、どこにでもありそうなささやかな出来事や心理状態を、特異な身体であらぬ方向へと増幅させてみせた。それは見たことのないような心理表現でもあった。心の中という閉ざされた圏域を超えて、さらには身体という囲いをも超えて、ところかまわずあたりに心が漂い始めるかのような情動の表現であった。その異様な表現は、フンモク・チョンやイーチュン・リューという東洋から来たダンサーたちの超常的な身体能力への信頼に基づいていた。

 この『トリプティック』は、もともとNDTの委嘱作品であっただけでなく、ピーピング・トムでの再制作にあたっては新メンバーだけで固められているという点で、異質の作品となっている。これまで中核をなしていた異形のメンバーたち ―― どっしりとした体躯と豊かな声で万物を包摂するユルディケ・デ・ブール、暗鬱な表情であたりを凍りつかせるマリー・ジーゼルブレヒト、そしてフンモク・チョンとイーチュン・リューのふたり ―― は出演していない。しかしながらダンサーたちの技術が均質に高くなり、それにより個の異様さではなく集団の超越さが際立つようになったと言えるだろう。人間の理解を超えたなにものかが集団の中に現れるのだ。霊的なものの顕現だ。

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 さて、現実に戻って、ピーピング・トムの今について少し書いておきたい。

 これまで、世田谷パブリックシアターでは、ピーピング・トムの作品を5作上演してきた。『Le Sous Sol/土の下』(2007年初演、2009年来日)、『ヴァンデンブランデン通り32番地』(2009年、2010年)、『A Louer/フォー・レント』(2011年、2014年)、『ファーザー』(2014年、2017年)、『マザー』(2016年、2023年)。創設以来四半世紀となるピーピング・トムは、初期のメンバーに加えて新しいメンバーを増やしながら、ほぼ1年に1作のペースで新作を作り続けている。できうるならば、2023年の作品、『南緯62度58分、西経60度39分』を次に見てみたい。この不思議なタイトルは、南極からアルゼンチンの方に伸びる南極半島の先端あたりを指し、google map で見るとデセプション島という円環状の島の内海にあたる6)google map で見るデセプション島。この最果ての海で座礁した船が舞台だというので、設定は『トリプティック』と似ている。アラン・プラテルの『Out of Context – for Pina』に出演していたロメウ・ルナが、『ディドとエネアス』に続いて参加しているのも、見てみたい大きな理由だ。ルナこそは、霊的なものの顕現を具現しているという意味でまるで天使のような身体を備えている。想像を超える怪物のような身体をもって天使は顕れる。

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1. ピーピング・トムは、アルゼンチン出身のガブリエラ・カリーソとフランス出身のフランク・シャルティエが2000年に立ち上げたベルギーのダンスカンパニー。その頃2人はアラン・プラテルの les ballets de C de la B のメンバーでもあり、プラテルの『バッハと憂き世』で1998年の来日公演に参加している。ピーピング・トムとしての来日は今回で6回目。
2. NDTで制作された際の構成・演出は、『ミッシング・ドア』(2013年)がカリーソ、『ロスト・ルーム』(2015年)と『ヒドゥン・フロア』(2017年)がシャルティエ。ピーピング・トムの作品として再制作されたのは2020年。そのときはコロナのパンデミックのただ中であったために、2021年のアムステルダム公演はライブ配信という形をとり、日本からも見ることができた。その後、2年前の『マザー』来日公演の際に座・高円寺で行われたフィルム鑑賞会でビデオを見ることができた。私としては、今回3度目にしてようやく本物を見る機会となった。これほどの大作を極東の日本にまで送ってくれたピーピング・トムと、数々の困難を超えて招聘してくれた世田谷パブリックシアターには感謝しかない。
3. 祭壇画としてのトリプティック=三幅対は中世やルネサンスに多く描かれるが、実はtriptychという単語自体は中世では使われていない。OEDの用例を見る限り、19世紀中頃に美術史の文脈でそうした祭壇画を指す呼び名として定着したらしい。もちろん中世にトリプティックという言葉はなかったとはいえ、三段階で霊性の上昇を表す理念は存在していたのは確かだ。近代でこの理念を借用した三幅対としては、ピート・モンドリアンの『進化』(1911)が有名だ。
4. NDTでのクリエイションに参加した湯浅永麻は、このエプロン姿のハウスキーパー役を行ったという。『トリプティック』では、この作品から参加した、台湾出身のワンルン・ユーがこの役を演じている。いずれもハウスキーパー役が東洋人であることを気にする人もいるかもしれないが、バラバラになりそうな個々のエピソードをつなぎ止めている重要な役である。
5. ピナ・バウシュの『バンドネオン』でも、まだ踊っているのにリノリウムがどんどん巻き取られていくのを見させられて驚いたことがあった。『バンドネオン』には、スーツの男性がワンピースの女性の股に片腕を通して、片腕だけで女性を持ち上げるダンスがあった。そのまま上体を別の腕で支えて女性を振り回せば、先ほど触れたピーピング・トムのダンスになる。
6. google map で見るデセプション島