ハッピーなハイブリッド型、令和の「おとぎ話」――第22回 明治大学シェイクスピアプロジェクト『冬物語』/田村真弓
はじめに
2025年秋、日本のシェイクスピア劇は新たな進化を遂げた。第22回 明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)によるシェイクスピアの『冬物語』(原作=W. シェイクスピア/翻訳=コラプターズ(学生翻訳チーム)/演出=村上水彩(文学部4年)/監修=西沢栄治(JAM SESSION)/2025年11月7日~9日)は、総勢206人の学生が創り上げた、令和という時代を映し出す新しいシェイクスピア劇であった。
悲劇の前半―厳かな宮廷
劇が始まると、舞台上にギリシア神殿風の柱が立ち並び、中央にカーテンのついた出入口がある。これがクライマックスの「彫像の場」で用いられるのは言うまでもない。舞台の下手には10名ほどの演奏者席がしつらえてあり、彼らは場面に応じて、宮廷楽師にも村祭りの楽隊にもなる。

作=W.シェイクスピア、訳=コラプターズ(学生翻訳チーム)
プロデューサー=佐藤穂佳(文学部2年)
演出=村上水彩(文学部4年)
監修=西沢栄治(JAM SESSION)
2025年11月7日(金)~9日(日)/明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン 3階アカデミーホール
ウィリアム・シェイクスピアの『冬物語』は、「喪失」と「再生」をテーマとする「おとぎ話」のような物語である。そもそも『冬物語』というタイトルそのものが、妖精や小鬼の出てくる日本で言うところの怪談のような「冬の夜語り」を意味し、劇中でマミリアス王子がハーマイオニ王妃の傍らで侍女たちに語って聞かせるたわいもない話を指す。ちなみに、2025年12月のシェイクスピアシアターの『冬物語』(原作=W. シェイクスピア/翻訳=小田島雄志/原案=出口典夫/演出=高山健太/2025年12月3日~6日/早稲田小劇場どらま館)は、マミリアス王子が絵本を持って登場し、上演されている『冬物語』自体が絵本の中の「おとぎ話」だった、という入れ子構造を上手く利用していた。
「喪失」を描く前半は、悲劇に向かって突き進む。シチリア王レオンティーズは、親友のボヘミア王ポリクシニーズと、妻のハーマイオニ王妃との不貞を疑って嫉妬の炎に身を焦がす。その誤解から、臨月の王妃を投獄し、生まれたばかりの王女パーディタを追放する。すると、マミリアス王子は悲しみで命を落とし、王妃も絶命したと伝えられ、絶望の淵に追い込まれることになる。
こうした悲劇的なストーリーに合わせて、前半のボヘミア宮廷の人々は、暗い色調の衣装を身にまとっている。レオンティーズのマント、ハーマイオニのドレス、カミローの上着は深紅で統一され、ボヘミアの廷臣アンティゴナスとポーライナ夫妻はおそろいの紫の衣装である。一方、ボヘミア王ポリクシニーズは、あえて場違いなエメラルドグリーンの衣装を身につけている。演技に関して言えば、宮廷人たちは、確かな演技力によって、嫉妬による猜疑やアポロンの神託、突然の改心といった荒唐無稽なストーリーに信憑性を与える。彼らの真実味あふれる演技は、劇に緊迫感を与え、息つく間もなく物語を後半へと進めていく。
転換点―クマの不在
場面は移って、ボヘミアの海岸である。内陸国であるボヘミアに海岸があるはずがない、という批評家たちの指摘はさておいて、『冬物語』において、通常、悲劇の前半と喜劇の後半の転換点となるのは、アンティゴナスが「クマに追われて退場」(“Exit pursued by a bear”)する第3幕第3場である。ちなみに、シェイクスピア時代の上演で、生きた本物のクマが使われたかどうかは議論の分かれるところであり、いまだに結論は出ていない。
このクマの場面の後、16年の時を経て、改悛したレオンティーズは死んだと思われたハーマイオニとパーディタの「再生」を目撃し、再会の喜びのうちに劇は幕を閉じる。それゆえ、悲劇の前半から喜劇の後半への「転換」と「対比」が作品の重要な課題となる。その死から生への転換を司るべきなのが、大自然の恐ろしさを象徴する「クマ」である。
こうした「再生」のテーマにより、『冬物語』という作品は、近年、とりわけ日本において「災害からの復興」という文脈で捉えられてきた。2024年にシェイクスピア・カンパニーにより上演された、東北シェイクスピア・シリーズ、『冬物語』の翻案作品、『The Winter’s Tale―みちのおくの国の冬物語』(脚本・演出・芸術監督=下館和巳/2024年11月22日~24日/多賀城市民会館 小ホール)は、舞台を近世、東北の多賀城に移し、津波被害から立ち上がる人々の姿を感動的に描いた。また、2011年のMSP第8回公演の『冬物語』も、東日本大震災後の上演となり、少なからぬ影響を受けたと言う。
ところが、今回の『冬物語』では、人々を打ちのめす災害の描写が見られなかった。強いて言えば、昨今の甚大な「クマ害」をフィーチャーしても良かったのではないだろうか。本作でクマは吠え声のみで表され、「猛獣」という間接的な表現が多用されていた。アンティゴナスを食らいつくすクマの恐ろしさを描くことは、この劇に悲劇の深みを与え、悲劇から喜劇の転換点として機能したはずである。




