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02.改めて『リチャード三世』

 ということで改めての今回の公演。『リチャード三世』の再演。2025年12月6日(土) 長津田の音楽館セレレムでの公演。音楽発表用の小空間である。筆者は、本公演に先駆けて当日に行われた公開ゲネプロを鑑賞した。初演と同じく構成・ドラマトゥルクが、演者でもある宮川麻理子、演出はいつもの通り、主宰の中込遊里である。

 筆者としては、配信で観た『リチャード三世』の面白さと昨年の『すってんテンペスト』の消化不良感との折り合いをつけたいという思いもあって会場まで足を運んだ。そこで目にしたのは、坪内逍遥訳のポストドラマ的な解体(あるいは構築を志向しない拡散)とも言うべき実験であった。物語はだから全然わからなくなっていた。しかしなぜかある種の清々しささえ覚えたのだった.

 

 初演でもリチャードの役が複数の俳優に演じられたりなど(コロナ禍で誰かが体調不良になっても公演を成立させるための工夫だったという)主体の解体は随所に見られたが、それがここではさらに徹底されていた。セリフと劇行動(動作・視覚情報)とが、ほぼ全編にわたって一致しておらず、セリフは意味へと着地しない(あるいは、させない)。唯一の例外が、リチャードが兄クラレンスを暗殺するために派遣した暗殺者たち(宮川と西島永恵)で、彼らはしっかりと発話と演技とが一致した形で演じられ、それ故にコミックリリーフにもなっていた(第一幕第四場)。

 リチャードの冒頭の未亡人アンの口説き(第一幕第二場)も、アン役の俳優は複数の俳優に分散され、特にセリフの心理を再現したようでもなさそうな動作で舞台中を動き回っている。その合間を縫うように、宮川麻理子が、本筋とは全く関係ないと思われるダンスでアンを演じる俳優たちの合間を動き回る。初演時は、キャラクターを複数の俳優で分散させることは同じだったが、上記の動きはやっていなかったはずで(アン役たちは不動だった)、焦点を定めやすかった分、物語は何とか追えていた。だが再演では、こうした趣向ゆえ、アンの心が憎むべきはずのリチャードに徐々に傾いてく、その心理的な過程が一切追えない。こちらの、何とかセリフから意味を統合していこうという意欲をことごとくつぶしていった形となった。

 

複数の俳優たちがアンとなってリチャードに対峙する。
その間を宮川麻理子(中央)が踊りながら通り過ぎていく。
撮影=和知明

 これはここだけの話ではなく、ほぼ全編にわたって展開していく。ストーリーラインを追うことが困難な状況下で、ならば我々は何を見せられたのか。

 一言でいうと、それは坪内逍遥の訳文の音楽性への挑戦である。

 初演時は録音だった音源だが、今回は直接演奏者が演者と対峙しての伴奏があった。ヴァイオリンとクレジットされている中條日菜子も、尺八の酒井酣山も、パーカッションもやっていたし、演出の中込遊里とともにウタイとクレジットされている太田収紀は、ホーミーもどきの発声を披露したり、蛇腹ホース(くるくる回して音が鳴るあれ)でやはりパーカッション的な役もこなす。多種多様な音楽が聞こえてくる。

 そして俳優の口から聞こえてくる“音”も多彩である。謡あり、ラップあり、ゴスペルあり、祭囃子あり。ほかにもまだまだあったかもしれない。坪内逍遥の言葉に、どんな音楽的要素なら“載せられる”のかという実験でもあり、どの音楽ジャンルも“載せてやる”という心意気でもあった。

 

 先王ヘンリー六世の未亡人マーガレットがリチャードへの恨み節を述べる場面(第四幕第四場)はゴスペル“ごっこ”。アカペラのコーラス隊のように指揮者が各コーラスパートの音程を取り、俳優たちはその指揮棒に合わせて(セリフを)歌い出す。リズムをとりながら、でもどこか違和感を醸し出しつつ。最後の最後、本来のゴスペルなら圧倒的なハモリの迫力で聞かせるところを、だみ声の張り合いで締めくくる。カオスである。それでも、それは、やはり逍遥のセリフだった。

“マーガレットたち”がゴスペル風にリチャードへの恨みを語る。
撮影=和知明

 視覚的には、後半、一度退場したメンバーたちがもう一度舞台に戻ってきたときに大きな変化が訪れる。最初に登場した俳優(水上亜弓)は歌舞伎の荒事の隈取りを真似たメイクを施していた。王冠まで上り詰めたリチャードの覚悟の表れか。しかし彼女だけがリチャードを語っていたわけではない。だから、案の定、後に続くメンバーも隈取りをしている。ただ色彩もパターンもかなり自由で、先住民の儀式のための文様のようにも見える者もいる。その自由さの分、歌舞伎からは遠ざかっている。

 

歌舞伎風の隈取りで再登場した俳優。(水上亜弓)
撮影=和知明

 これは――集団的な後ジテか? それ以前の退場は中入りか? そういえばこの劇団は“コンテンポラリー能”を標榜していたのだった! ただ、夢幻能の後ジテは死者の蘇りであったが、ここでは死に向かって転落していくリチャード(たち)ということになるが。

 劇は「かつてリチャードが死に追いやった者たちの亡霊が現れ、リチャードの敗北を言い渡す段」(パンフレットより)、つまり第五幕第三場から、一気に終盤へと流れ込む。悪夢のイメージに反して、ここでの語り口調は祭囃子で、亡霊たちがリチャードに「絶望して死んでしまへ」と告げる場面がなぜかコミカルになる。

他の俳優たちの“隈取り”は歌舞伎から離れて自由な文様であった。(写真は上埜すみれ)
撮影=和知明

 舞台にかかったドレープのような帯状のネットが伸びて、リチャードに呪いをかけた者たちをからめとり、ひとまとめにからげられた彼らはそのまま退場する。そして一人残されたリチャードの最後の台詞。「馬を持て、馬を! 此国でも何でも代わりに與(や)る!」

リチャードに呪いをかけた者たちがネット(?)にからめとられて退場していく。
撮影=和知明

 繰り返すが、ストーリーラインは普通に見ていては追えない。開演前、台本を作った宮川と演出の中込によって、歴史的背景と人物の紹介が、前説として行われてはいた。「歴史劇なので背景を知らないと難しい」という前提での前説だったが、正直ここまでセリフとアクションが一致していないと、これを聞いたところで理解の助けとなったとも思えない。ならばいっそ、元のストーリーはこうだったんですよ、でも、そこじゃないところで楽しんでくださいね、と開き直った方がよかったかもしれない。ストーリーを追うことばかりに気を取られてしまったお客さんがいたら、ちょっと気の毒だから。

(ちなみに、以前、やはり『シアターアーツ』本誌で、シェイクスピアの名前だけ借りて遊戯にふけるような試みについて少し批判的に描いたことがあったが、少なくとも現時点では、これは、それらとは異なる試みだとは言えるだろう。ここには坪内逍遥訳という一貫した基軸がはっきりとあるのだ。)

 

 全部で65分。『すってんテンペスト』で感じた、筆者の不完全燃焼感に応えてくれたかのように駆け抜けて過ぎていった今回の音楽的な悪ふざけ。先にも書いたが、これはこれで清々しかった。だが、これが今後どうなるのか。今回の(初演とは全然異なる)『リチャード』を見てもわかるように、この劇団、なかなか同じところにとどまってはいない。劇団がずっと続けていきたいと言っている『すってんテンペスト』も、おそらくひとところにとどまることなく変容していくのだろう。(実は筆者は未見だがこの作品も今年再演されていて、演出も少し変わっていたらしい。)その期待も含めて今後の試みを待ちたい。


※坪内逍遥訳の音楽性とそれを活かした上演ということでは名古屋の原智彦率いるハラプロジェクトが2010年代にパンク歌舞伎と称して『マクベス』と『リア王』を上演している(筆者は後者の映像を見ている)。将来的には鮭スペアレとの比較の論考を試みたいと考えている。