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新国立劇場主催公演『斬られの仙太』

作=三好十郎
演出=上村聡史
2021年4月6日~24日@新国立劇場小劇場

出席者=嶋田直哉(司会・シアターアーツ編集長)、今井克佳(国際演劇評論家協会日本センター会員)、野田学(シアターアーツ編集部)、小田幸子(国際演劇評論家協会日本センター事務局長)/発言順

新国立劇場 2020/2021シーズン演劇公演 『斬られの仙太』2021年4月 撮影=宮川舞子、公益財団法人 新国立劇場運営財団
(左から)伊達 暁、小泉将臣

■フルオーディション

嶋田(司会) 今回座談会で取り上げる『斬られの仙太』は、新国立劇場が近年取り組んでいるフルオーディションでの上演です。上演時間が休憩2回を含んで、4時間20分という長丁場です。上村聡史の演出も注目でした。

今井 『斬られの仙太』は、三好十郎の初期作品です。1934年5月、中央劇場での初演です。この中央劇場は左翼劇場(東京左翼劇場)という団体が改名したもので、その改名披露の公演として、この『斬られの仙太』が上演されました。西村博子「「斬られの仙太」掌論」[1]によると、観客動員もまずまずで、一度は評価されたものの、村山知義など元のプロット(日本プロレタリア演劇同盟)指導者から「政治運動の指導者たちを悪く描きすぎている」というような批判が出たようです。戦後は平野謙など「近代文学」派の人たちが「転向文学」として再評価しました。
 今回の新国立劇場の公演ははフルオーディションを敢行し、16名の俳優での上演です。この作品は、戯曲通りに上演すると7時間くらいかかる長大な作品です。しかし今回は戯曲を改訂し、休憩を2回含んで4時間20分に仕上げています。また、劇中の登場人物も総計80名ほどになりますが、こちらも全て先ほど述べた16名の俳優で何役か兼ねることでこなしています。もとの戯曲に大胆な改訂が施されたことがわかります。
 私は非常に優れた公演だと思いました。劇場に貼り出された上演スケジュールを最初に見たときには驚きましたが、それほど疲労困憊することなく、最後まで集中力を保ちながら見ることができました。公演に集中することは観客にとってあたりまえのことかもしれませんが、ここまで上演時間が長いと実はかなり困難な作業です。それがそこそこすんなりとできてしまったのは、公演が素晴らしかった証拠だと思います。
 よかった点は、まず何より俳優のバランスでしょうね。フルオーディションだけあって、見ていて安心できました。殺陣も含めて素晴らしく、飽きませんでした。演出の上村聡史が、ひとりの俳優に何役も割り当てたり、戯曲を短く改訂していると考えられますが、こうした配合が絶妙で、戯曲のあらすじやメッセージが明確に浮かび上がりました。
 しかし一方で、戯曲を短く改訂したことにより、ダイジェスト感が出てきてしまいました。「この場面に至るまでに、本当はもっといろいろなことがあったはず」と感じる場面が少なからずありました。あとは戯曲がもともと持っていると思われる「熱苦しさ」が少なかった気がします。『斬られの仙太』は今回が私も初見なのですが、他の三好作品の上演からはいつも主人公の台詞の「熱苦しさ」を感じます。また物語自体の濃度が非常に高く、こう言ってよければ、かなりしつこい。観客は疲れますが、この「熱苦しさ」と「しつこさ」が、三好十郎作品の魅力でもあります。今回の公演では、戯曲の改訂によって、このような「熱さ」と「しつこさ」が、薄まっていたように感じました。
 現代の観客と演劇状況を考えると、長大な作品を短くまとめて見やすくするという作業は非常に重要です。今回の上演は「上村聡史が上手にまとめているなあ」と感心すると同時に、「やはりもともとの長大な『斬られの仙太』でなければ、三好十郎作品の本質が出てこないのでは」という正反対の印象も持ちながら見ていました。新国立劇場としての公演はどうあるべきか。名作を伝えやすい形で提示していくのか、それとも他の劇場ではできない、とっつきにくい長大複雑な公演をあえて行うのか。島村抱月の「二元の道」にまで思いを馳せるような問題意識も抱えました。

野田 『斬られの仙太』を三好「転向」後の戯曲とみなすこともできますが、今回の上演は私にとって1934年という初演時期におけるプロレタリア演劇のあり方を見て取ることができるものでした。プロレタリア演劇というとゴリゴリのアジプロ演劇を想像しがちですが、実はエンターテイメント性に富んだ「股旅モノ」もそこに入りうるということですね。
 主人公である仙太は農民に対する圧政に耐えかねて渡世人となり、その後水戸の攘夷運動に巻き込まれ、志士たちに体よく利用されるも、水戸藩武士たちのセクト争いの果てに斬られてしまう。しぶとく生き延びた仙太は農民に戻り、最後の第十場で自由党の政治家を面罵する--というのが粗筋でしょうか。
 戦後1968年に民藝が宇野重吉の演出で再演していますが、この時点では恐らく全く違う意味をこの作品は持ったでしょうね。水戸藩の攘夷志士たちの運動がセクト争いの内ゲバに堕してしまったことに嫌気が差す仙太の姿は、68年においてとてもタイムリーなトピックだったはずです。本当の正義はどこにあるのだろうかという問い掛けも切迫したものだったでしょう。
 上演史がそれぞれの時代を写し取ったこういう作品は、再演の際にかならず「イマ=ココにおいてどういう意味を持ちうるか」を問わざるを得なくなります。上村演出では股旅モノのイディオムを前面に押し出さず、かなり極端な傾斜舞台を使うことで、舞台上でうごめいている登場人物たちの切羽詰まった緊張感を身体的に反映させていたようでした。ただ三部作のうちで、仙太が渡世人から「革命家」へとのし上がっていく第1部がどうしても印象が強くなりますね。悪を孕む主人公の一代記では、のし上がっていく前半の方が落ちていく後半よりも面白くなってしまうのは、シェイクスピアの『リチャード三世』やクリストファー・マーロウの『タンバレン大王』と同じです。とはいっても4時間超の三部構成、私も集中を切らさず観劇できました。

 ■特徴的な舞台装置

小田 確かに、かなり急な傾斜のある黒い舞台が印象的でした。これだけ傾斜がキツイと、俳優は腹にぐっと力を入れておかないと滑り落ちてしまいますね。それから舞台の前面に深い溝があって、そこから俳優がはけたり入ってきたりと、出入りが単調にならない工夫がなされていたのも特色でした。殺陣などでは、斬られて、そのまま溝に落ちていったりもします。舞台の外側に観客には見えないもうひとつの世界が広がっているような印象を持ちました。
 この急な傾斜舞台は、『斬られの仙太』の時代設定である幕末維新にかけての歴史的・社会的な変動を象徴していると思います。また、主人公である仙太の波瀾万丈な生涯とも重なります。仙太という個人の人生が歴史や社会の動向に翻弄されていく姿が目に見える形として捉えられている--といったらよいでしょうか。先ほども言いましたが、役者の身体は不安定で、常にバランスをとりながら動かねばならず、この運動が人物の入れ替えが激しい物語の内容とリンクしていく感じですね。特に何度も出てくる殺陣の場面は非常に強いインパクトがありました。
 また舞台上には装置がほとんどなくて、家の内部を示すときには障子やついたてのようなものが置かれるだけです。舞台が正方形に近いこともあって、能舞台を連想させました。それから黒衣が出てくる点は文楽の手法に通じます。
 第九場で仙太が最上段に立っていて斬られてしまう場面は、紙吹雪が盛大に舞って大変印象的でした。内容的にも「信頼していた仲間の裏切りにあって殺される」というこの場面で終わってもいいんじゃないかと思えるほどでした。その後、暗転して最後の第十場になると、初めて前面の溝だったところが開かれ、背景が明るくなります。時代は明治へと移り、20年後の仙太と段六が水田の泥かきをしている場面になります。
 このように、多くの人を殺してきた仙太が再び農民に戻るまでの境遇や心の変化が舞台上の物理的変化と対応しており、あたかも舞台そのものが演技しているような点が一番の見どころです。ただそれと同時に、舞台装置や転換が一番の見どころでいいのかとも思いました。

嶋田 舞台の傾斜があり、前に溝があることによって殺陣をしたときの人の流れが非常にスムーズだったり、溝から子役に相当する人形が出てきたりといった工夫が感じられた舞台装置だったと思います。
 しかし小田さんが最後に留保付けしていたように、この舞台装置が作品中で最も印象的というのはいかがなものかという点は同意見です。これは今回の公演がフルオーディションであったということと大きく関係してくると思います。一人一人の役者としてのキャラがそれほど際立っていないんですね。もう少し分かりやすく言うと、役者全員がひとしなみに平板化してしまっているような印象を受けました。
 仙太役の伊達暁は、長塚圭史が主催する阿佐ヶ谷スパイダースの中心的な俳優です。長塚作品では主役を演じることが多く、大きな存在感があります。しかし今回の公演では、この伊達暁ですらそれほど目立っているという印象を与えないた。これはフルオーディションだったからなのか、それともこれをこそねらったのか、いまいち判然としませんでした。伊達暁が出演しながら、これは演劇的な効果として少々疑問を感じました。
 フルオーディションでをもし全面的に評価するならば、今井さんはこのあたりのことをどのように考えられますか?

今井 フルオーディションで上演したことの良さは、全体のバランスという点では効果的だったと思います。特にこのような登場人物が多い作品は、このバランスが大切だと思っています。もちろん主役級の人をもっと目立たせるという方向もあったと思います。しかしそれは、この作品の上演に関して台本を大幅にカットしたために、登場人物の造詣が深く書き込めなかったことと関係すると思います。この削除した部分、上演台本の改訂が気になりますね。

[1]『実存への旅立ち 三好十郎のドラマトゥルギー』所収、而立書房、1989年10月。