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シアター・クリティック・ナウ 2021
第26回 国際演劇評論家協会(AICT)演劇評論賞
受賞記念シンポジウム

「佐藤信と「運動」の演劇」

【日時】2021年7月25日(日)
【会場】座・高円寺 2F カフェ・アンリ・ファーブル

《パネリスト》
梅山いつき(演劇研究者、近畿大学准教授)
佐藤信(演出家、劇作家、座・高円寺芸術監督、若葉町ウォーフ代表理事)
内田洋一(演劇評論家、新聞記者/司会)


■『佐藤信と「運動」の演劇』が生まれるまで

【内田】梅山いつきさんの『佐藤信と「運動」の演劇――黒テントとともに歩んだ50年』(作品社)が第26回AICT演劇評論賞を受賞しました。本日はその記念シンポジウムです。この本は、佐藤信さんの演劇人生の全貌を明らかにするという内容で、本日は梅山さんと、佐藤さんご本人にも来ていただいて、佐藤信の昨日・今日・明日という三本立てでやっていきたいと思います。それぞれの時代の中で、いまもまさに現役の演劇人である佐藤信という演劇人が、何を考え、どう行動したか。過去からの演劇の大きな流れというものが、現在だけではなく、未来にどうつながっているのかというところまでお話をいただけたらと思います。
 この本の一番大きな特徴は、梅山さんが同時代を体験していない、60年代の演劇の状況の時にはまだ生まれてもいないということで、資料や佐藤信さんや関係者へのインタビューで補いながら書かれたという点ですね。これは前作『アングラ演劇論―叛乱する言葉、偽りの肉体、運動する躰―』(作品社、2012年)と同様に、同時代を体験していないからこそ書けるという積極的な面もあったと思います。
 演劇評論は、生の舞台をその場で体験し、その感覚を基に書くのが基本で、そういう本はたくさんあります。証言を掘り起こして書いていくという作業はより難しいところがあると思います。しかも梅山さんは、佐藤さんの教え子でもある。それも独特です。佐藤信さん世代でいえば、太田省吾さんが京都造形芸術大学で教授をしていた時の教え子に杉原邦生さんや木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さんがいます。多摩美術大学で教えていた清水邦夫さんの教え子には快快 -FAIFAI-をやっている野上絹代さん、唐十郎さんが横浜国立大で教えていた学生が劇団唐ゼミ☆という劇団をつくったりなど、大学という場でつながって演劇を始めた新しい世代が存在し、さまざまに活躍している。新しい時代を感じさせますよね。
 梅山さんと佐藤さんの出会いは2000年、大学でした。そこからこの本が出来上がるまでを振り返っていただけますか?

梅山いつき

【梅山】こちらの本は全体で8章立てになっており、佐藤信さんの幼少期から、近年の座・高円寺と若葉町ウォーフでの取り組みまでを追いかけるという、ある意味無謀なことを一冊にまとめようとしてみたんです。本書後半の、近年の活動の部分についてはまだまだ論じ足りていない部分があると感じています。
 私は2000年に大学に入学しまして、先ほど名前が挙がっていた唐ゼミ☆の中野(敦之)君や杉原さんとは同世代になります。つまり今40代前半ぐらいの演劇人たちのある一定の割合というのは、信さん世代から何らかの形で影響を受けているということです。リアルタイムで60・70年代の演劇作品を観ているわけではないので、活字を中心として言葉と出会っていく。私自身、まず入学をして、その当時、練馬にあった黒テントの作業場に行き、作業場の壁に飾られていた平野甲賀さんを中心にデザインされていた大きなポスターに圧倒され、すごくかっこいいと魅せられました。それを入り口にして、信さん経由で、演劇センター、今の黒テントでは、活字の活動、言語活動がとても活発で、当時の機関誌やマニフェストなど、そのときどきの問題意識というものをつぶさに綴った冊子類をたくさんもらって、そういった活字からものすごく影響を受けたんです。おそらくそれは私に留まらず、私と同世代の、太田さんや唐さんから影響を受け継いだ世代は、そういった形で何かを受け継ぎ、何かを得ているはずなんですね。
 大学院に進学し、研究者として信さんたちの世代を研究対象としようとした時に、形を留めず、失われてしまう俳優の身体や舞台上のさまざまな表現に対してどう切り込んでいくか。これは後々になって一つの課題として浮上するのですが、いま言ったように、私にとっては黒テントや信さんは、さまざまな機関誌上でのマニフェストなどの言葉のインパクトが強く、それをもっと読み解きたいというモチベーションが第一にありました。
 2010年代に入ってからだと思うのですが、信さんが保管されていた演劇関係の資料や、今回の書籍でも取り上げた幼少期のアルバムなどの資料を、すべて整理して早稲田大学の演劇博物館に寄贈したいという申し出を受けました。その資料を整理するという機会をいただいて、その作業と連動しながら――さまざまな上演の最中に産み落とされていった、舞台と並走していた活字を中心としたこの残された資料と向き合いながら、そこから何がわかるのか、ということでまとめたのが今回の本です。

【内田】佐藤さん、お読みになった感想は?

佐藤信

【佐藤】今日はどういう顔をしてここに座っていればいいのか難しいと思って座らせていただいているんです(笑)。何はともあれ、演劇というのは人々の記憶に残るだけ――芝居の仕事を始めた時、最初は自由劇場という小さな劇場で始めたんですけど、何日間かの芝居の上演が終わってセットを壊していくのをずっと見てて、何もかもが跡形もなく消えて元の劇場に戻るその瞬間が一番好きで、この瞬間のためにやっているのではないかと思ってたんです。あとは芝居を見た人びとの記憶の中にだけ残る。今でも旅先で、当時の芝居を観た方とお会いすると、「テントが開くと火の馬に乗った斉藤晴彦さんが空に昇っていくんですよね、あそこは忘れられないな」なんて言ってくださるんだけど、実際にはそんな場面はなかった(笑)。でもそう見えたというか、見たことがそういうふうに総合されて残っていく。
 半世紀あまり芝居の世界に身をおいてきて、この先動き続けるためにどういうレールを引こうかといままで溜めていた資料を整理しようと思って、そうしたら演劇博物館がたまたま引き受けてくださるというので。いつか誰か使いたい人がいたら、とは思っていたんですけど、それがこういう形でまとめられたというのは、ぼくにとっては思ってもいないありがたいことでした。内容については――僕はいつも、批評というのは文章なので、いくら褒めている内容でも文章がつまらない批評は多分その舞台が良くなかったんだろうと思ったりしてるんですよね。どんなにけなしていても文章がいい劇評というのは、その舞台が良かったんだと思う。表現というのは、そんなふうに呼応するものだと思うんです。で、前の本のときは本当に梅山さんが泣き出すくらい……。

【梅山】泣くどころか、ストレスで声が出なくなりました(笑)。

【佐藤】もともとは博士論文で書いた文章で、僕は指導教官ではなかったんですけど、読ませてもらって――ほとんどが文章へのダメ出しだったんだけど、出版はやめた方がいいんじゃないかっていうくらいに……。ところが本になるときに、ちゃんと読める文章になっていて、これは編集者の方に大分お世話になったなと思ったんです。今回も前作と同じ作品社からの出版でしたので、きっと大丈夫だろうと思って(笑)。
 すべての活字の仕事は編集の方との共同作業なんですけど、梅山さんにはいい共同作業者がいて、客観性をもった一つの記録を残していただいたというのは、僕にとっても黒テントにとっても幸せなことでした。本の前書きに拙い文章を書かせていただいたんですけど、これは何かの役に立てばいいので、別に僕がどうだとか、黒テントがどうだとかという形ではなく、壮大な失敗の記録ということで他山の石としていただいてもいいし、こいつはこうやろうとしたけれど、ここが出来ていなかったから、この先を自分が行こうという方がいてくださったら嬉しいなという気がしました。

【内田】泣いたんですか?

【梅山】泣くどころか……。このひどい文章を本にすると梅山さんのためにならなから止めた方がいいと怒られたんですよね。今回もですが、その時も出版助成をいただいていたので、いろんな事情からそういうわけにはいかないんですと返したら、余計に火に油をそそいでしまい、ますます怒らせた。でもその時のやり取りはすごく大きなものを残していて、あの時もやれる限りで精一杯書き直しをしたんですけど――前作は、唐十郎さん、別役実さん、鈴木忠志さん、そして信さんは演劇センターの旗揚げのときの話という5章立てだったんです。その折に谷川道子先生をはじめ何人かの方から、やっぱり信さんがやったことを考えると、演劇センターという括りの1章で終わってしまうのはもったいないと、次の課題を出していただいた。ということもあって、その時のことをきっかけにしてここまできたというのはあります。

【内田】僕もものを書く側の人間なので今のお話はなかなかドキッとします。

【佐藤】梅山さんと一緒に大学にいた時のことが残っていると思うんです。僕はなぜか卒論と修論指導の数が多かった。研究範囲をどこにとっても、それを論文にするまでは面倒を見るという姿勢でいたもので、毎年、年末になるとかなりの数の論文指導をしていたんですけど、その時に、とにかく読める文章が書いてあればいいという姿勢だったんです。文章というのは、読み進める意欲を読み手にもたせつづけるのが大事で、いくら正確なことが書いてあったって最後まで読み切れなきゃしょうがない。文章が読めなければ何を書いていてもだめだと思っていて、ついその癖が出ちゃったということろはあるかもしれない。
 僕が最初に文章を書かせてもらったのは六月劇場のパンフレットです。佐伯隆幸ともうひとり津野海太郎が編集していて、まだ二十歳そこそこの書き手にとってその出会いは大きかった。それからもう一人、三一書房に畠山さんという編集者がいらっしゃって、福田善之さんの『魔女伝説』(三一書房、1969年)が出版された時に僕は長い解説文を書いたんです。読んでいただいて、編集の方だから僕みたいに罵詈罵倒はしないんですけど、首をちょっとひねられたり、その表情を盗み見しながら文章が鍛えられたような思い出があって、文章を書くということは単に枚数が揃っていればいいということではない、というのがいつでも頭にあった。でも、梅山さんにはひどいことをしたな(笑)。