Print Friendly, PDF & Email

■「わたくしの公共性」――これからの演劇とは?

【内田】「運動の演劇」と言われた佐藤さんはさまざまな形で闘ってこられたと思いますが、現在は、最終第4コーナーを回ったぐらいなのでしょうか?

【佐藤】「闘い」の比喩で語ってはいけないんです。昔、新左翼の周辺でうろちょろしていた時に、機関誌の編集部に文句を言いに行ったことがあって――「ベトナム反戦運動に勝利するぞ」って書いてある。何考えているんだ? 戦争をやっているつもり? 敵だれ? ということになる。敵を作るということは、敵の論理に入るということなんですよね。

【内田】敵を作って敵の論理に入ってしまうという論理構造から逃げるということですね。

【佐藤】そうですね。そのことに慎重になった方がいいと思う。

【内田】そうすると若葉町ウォーフのこれも闘いではなく、言葉をいま探しているのかもしれませんね。いわゆる従来の「闘う○○」とは違う形の何かを。

【佐藤】COVID-19以前は「終活」と言ってました。それはいろんな意味でピッタリしていたんですよ。COVID-19が起きて、ただ単に施設を開放しただけで湧き上がってきたことと、周囲の人々が何かを起こしてくれた、そうなってくると個人的な「終活」ということではなくなりました。

【内田】まだまだやるぞ、という感じですね。この後はどういうふうになっていきますか? 若葉町ウォーフが中心となってくるのでしょうか?

【佐藤】芝居を書かないと駄目だと思ってます。今日こうやっておしゃべりさせていただいていますが、そこで言えないことは芝居で書くのが一番いいと思います。できれば、天皇制を真正面に扱うかはわからないですけど、5年くらい前に黒テントに書いた『亡国のダンサー』――このときにはまだ不完全燃焼だったんですよ。天皇制に触れようと思ったんだけど、ちょっと重くやり過ぎていた。それをもう一回、疫病篇として、二の替わりを書きたいと思っているのと、もう一つ『演劇島』、シェイクスピアが最後に書いた『テンペスト』と世阿弥の『金島書』という佐渡へ流された時の詩のような作品、追放された老境というかその二つを併せてエンターテイメントの芝居を書きたいと思っています。何とか書き上げられてけたらいいなと思う。

【内田】梅山さん、今後の佐藤さんはどうなっていくと思いますか?

【佐藤】もう梅山さんの言う通りに行きますから(笑)。

【梅山】いま『亡国のダンサー』の話が出たので、今日のまとめに代えると、第一に信さんには黒テントが必要だということです。昭和三部作で天皇制をめぐる課題は、一度、決着がつけられたんですけど、『亡国のダンサー』でもう一度取り上げています。今日お話を伺っていてなるほどと思ったのが、三部作では近代天皇制だったのを、『亡国のダンサー』では乙巳の変を扱った。近代天皇制以前のところまで遡って天皇制について考えていこうとしているのだと私は理解しています。三部作もそうですが、信さんは何度も書き換えていく作家ですから、『亡国のダンサー』もこれ1回では終わらないと思っていたので、黒テントという場で作を重ねていかれるんだろうと期待しています。
 若葉町ウォーフは、「アートセンター」と名付けて、3本の杭を立てて活動しています。1本目が「シェア」、2本目が「ネットワーキング」、3本目が「トランス・ボーダリング(越境)」。当初はアジアの若手とのネットワーキングの形成ということだったわけですけど、それが図らずも昨年のコロナの影響を受けて、世間一般ではつながるということがどれほど困難なのかということが目の当たりになりました。その中で、一番近いところで強固な関係をつないでいったというのが、若葉町ウォーフのユニークな取り組みだと思うんですよね。実はアートセンターの名前の由来というのも、68年まで遡る話で、演劇センターを結成した68年のときの構想も、先ほどおっしゃっていたように、一つには労演に代わる観客ネット―ワークを全国的に作っていく願望と同時に、それを黒テントという一つの団体だけで使っていくのではなくて、複数の演劇集団がシェアして使っていけば、結果的に、いろいろなものが全国に散らばっていくということでの「演劇センター」なので、だから劇団ではなく、あくまでもハブ的な集団でありたいということをその時も謳っている。その点も実はまったくブレていなくて、若葉町ウォーフで、またアートセンターということをおっしゃるというところには、おそらく半世紀前に掲げたことを、また違う形でやっておられるのかなと理解しておりますので……終活どころではないと思います。何も変わっておられないのではないでしょうか。

【会場から】佐藤さんの最初期からの明確な関心事として、公有地をどのように取り戻すかという問題があったと思います。それは日本の近代を考えると、天皇制や植民地と切り離せない。現在、パブリックな公共性が、一見バーチャルな世界の中にあるようでいて、実は狭められていると思います。演劇を中心として公共空間をどのように取り戻すことができるとお考えですか?

【佐藤】まず具体的なことで言うと、二つに分裂していくと思っています。コロナが経過した後で格差が広がる。いまそれに対して、僕は機会あるごとに、公共施設の役割を分担しようと言っているんです。公共施設を劇場化するという方向にみんな一直線に動いていて、程度の差はあれ、それもひとつの選択肢ではあるけれども基礎自治体の方は必ずしもそうではないんじゃないかという想いがある。もう一つ前まで戻らないと演劇まで戻れないぞということをいまは考えています。
 僕が公共性で影響を受けたのは、建築家の大村虔一さん。世田谷パブリックシアターを作る時に、あそこは再開発地域だったので、一緒にお仕事させていただいた。大村さんは新国立劇場の周囲の土地計画をやられた方でもあり、同時に、「プレーパーク」という実践をやられていた。プレーパークはイギリスから入った方法論で、公共の公園を開放してもらい、そこを民間で運営して自由なことをやらせる。大村さんは、それを世田谷で実践されて――公園に段ボールの遊具を作るとか、公園の中で火を焚いてご飯を食べるとか――、その時に重要なのは民間がまず発想することで、それで公共に呼び掛け、公共と手を組むということが大事なんだ、と。敵対関係に立たないという方法論を考えなくてはいけないわけです。僕もそのやり方でずっとやってきましたが、そのときに心がけたのは、トップダウンは絶対駄目だということ。大村さんは、まず現場の人間から入るということをおっしゃったので、僕もいつもそれは心がけています。例えば、公園で何かをやる時には、まず公園課の窓口に行き説得する。どこかの市長さんと話をして下ろしていくというのでは上手くいかない。文化村の時も、オーナーはもちろんいらっしゃいますが、現場の人とまずどういうネットワーク・組み方が出来るかが大事だと思った。
 僕は「わたくしの公共性」ということを言っているんですけど、そもそも自分の中にあるプライベートな面と、公共的な存在としての自分という面がある、と思う。公共的な自分というのは分配を要求する権利がある。公的なものの分配を受ける権利があるということをもっと頑張らないと駄目だと思うんです、当然の要求なんでね。いまあらゆる公共施設がもっている一番よくないところは、民間のプロデューサーみたいに、自分でものを作ろうと思っているところ。公共ホールの運営者というのは、アーティストにどうやって分配をするかというのが役割。発想がぜんぜん違うと思うので、そういう切り替えをこれから丁寧にやっていく必要があると思います。それから基礎自治体の方は、もっと広く、演劇をやるんだったら演劇にこだわらない方がいい。一時代、日本でも演劇をやる良い素材が大道芸に流れていったこともあるし、いまで言えば、演劇以外のところに演劇的な若い人が散っていると思う。それを吸収するために、むしろ演劇という入り口を作らない方がいいんじゃないか。公共性という考え方を、向こうから何かやるものではなく、こちらが要求していくものである、ということ徹底していくということと、それを基礎自治体単位で考えていく必要があるんと思う。実際に少し変化は起きてきていると思いますが、そのことが公共性を考える時には重要なことかと思います。
 それ以前の、僕も含めて、世田谷パブリックシアターなどのバブル期までは、大きな構想の中で、大きな事業がトップダウンでも上手くいった。例えば、芸術に金を出そうという大きな決断はトップがやってくれないと仕方がないという話になる。今後それは無理になると思います。世田谷はバブル期の建物であったために、あそこでやることは出来たんだけれども、オンリーワンの存在になってしまったと思っているんです。あれは世田谷だから出来るんですよね、という話になってしまい、プロトタイプになっていない。でも座・高円寺の時はプロトタイプを作ることを意識していたので、劇場情報を出す紙の作り方とか、上演作品と関連しなくてもいい事業ということで市場(マルシェ)をやったり――何もいきなり劇場作品とつなげる必要はない。

【内田】トップダウンではなく、より小さい単位から始めるということですね。最後に一言ずつお願いします。

【佐藤】まずは、梅山さんにおめでとうございます。そして本をありがとうございます。
 僕は小劇場演劇というのは、大きい意味で近代劇の範疇に入ると思ってる。近代劇自体が、日本だけではなく、壊れ始めていて、移り変わっていて、それに呼応するような作品も生まれてきて、新しいステップに時代の足がかかっていると思っています。現場的に言えば、今日お話しした、演出の問題や、役柄ではない表現者としてのジェンダーの問題などをどう考えるかという、観客の視線と向き合った時の大きな問題も含まれている。これを困難な時代と見るよりも、新しい時代を迎えるという活力でもってぜひ若い世代に――僕は演劇は続いていくものだと思うんですけど――取り組んでもらえると嬉しい。梅山さんにまとめていただいた僕のこれまでは、若い世代が踏む「段」として何かの役に立てばそれでよかったかなと思っています。

【梅山】今日のお話の中で、後半、特に問題となってきた、信さんの言葉で言う「わたくしの公共性」については、この本のなかでも十分に論じ切れているとは言えないので、そこは私自身の課題だろうと考えています。冒頭で申し上げた通り、今回の本は信さんが個人的に所有されていた資料を演劇博物館に引き取っていただく作業の最中に生まれた本です。ですが、私が個人的にその資料にアクセスできたからこの本が書けました、では問題だろうと思うんですよね。演劇博物館に寄贈されたことで、信さんの資料が外に公開されていき、研究だけではなく、次の創作につながっていく。一つの文化財として、次の創作につながるような展開につないでいくことが私自身の使命であろうと感じています。それが私自身の「わたくしの公共性」ではないかと、改めてミッションとして感じたところです。私としては信さんの戯曲がもっと再演されてほしい。信さんも演出家を廃業したそうですから(笑)、違う演出家の手でまた上演されると非常に嬉しいです――本日はありがとうございました。


梅山いつき(うめやま・いつき)
1981 年新潟県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、近畿大学准教授。アングラ演劇をめぐる研究や、野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。著書に『アングラ演劇論』(作品社、第 18 回 AICT 演劇評論賞受賞)、『60年代演劇再考』(岡室美奈子との共編著、水声社)、『佐藤信と「運動」の演劇 黒テントとともに歩んだ50年』(作品社、第 26回 AICT 演劇評論賞受賞)など。

佐藤信(さとう・まこと)
1943年、東京都生まれ。1966年、串田和美、斎藤憐、吉田日出子らとアンダーグラウンドシアター自由劇場を創立。1968年、六月劇場(津野海太郎、山元清多ら)、自由劇場、発見の会(瓜生良介ら)と協働して「演劇センター68」(現、劇団黒テント)設立。1990年個人劇団・鴎座を旗揚げ。世田谷パブリックシアター、座・高円寺、若葉町ウォーフなどのディレクターを務める。代表作に『阿部定の犬』『キネマと怪人』『ブランキ殺し・上海の春』『あたしのビートルズ』『鼠小僧次郎吉』『翼を燃やす天使たちの舞踏』『絶対飛行機』など。「アジア演劇」「演劇の公共性」「演劇と教育」といった実践を続けている。

内田洋一(うちだ・よういち)
1960年東京生まれ。文化ジャーナリスト。日本経済新聞編集委員。多摩美術大学非常勤講師。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。日本経済新聞の文化担当記者となり、演劇を中心に音楽、美術、文芸などを幅広く取材。著書『風の演劇 評伝別役実』、編著書『日本の演劇人 野田秀樹』(いずれも白水社)でAICT演劇評論賞。その他の著書に『あの日突然、遺族になった 阪神大震災の十年』(白水社)、『風の天主堂』(日本経済新聞出版社)、『現代演劇の地図』『危機と劇場』(いずれも晩成書房)など。