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■三好十郎の転向

嶋田 あと私が気になるのは、先ほど今井さんが指摘していたこの作品の本質的なこと、つまり三好十郎の転向問題です。今話題になった上演台本の改訂と関係すると思いますが、省略することなく全て上演していたら、もしかしたらこの作品の全く違う側面である三好十郎の転向についても見えてきたかもしれません。

今井 私は、当時のプロレタリア演劇の流れから考えると、この作品はやはり従来の近代文学研究、評論が捉えてきたように、三好十郎の転向を表現していると思います。
 理想に燃えてある組織に入っていくけれども、そこでセクト争いに巻き込まれていいように使われて、最後は殺されそうになる。しかしそこから逃げて農民という生活の場に再び戻る--というイメージです。わかりやすく言えば「もうそんなの嫌だ」という感じですね。この作品以後、三好十郎はプロレタリア陣営から離れていくことになります。ですから三好十郎の転向問題を読みとるのに十分な作品だと私は考えています。少なくとも今回の上演ではそう読み取れるように構成されていたのではないでしょうか。

野田 4月15日朝日新聞(夕刊)で大笹吉雄氏の劇評が初演時の事情について解説しています。初演は「左翼劇場が当局の弾圧に抗しがたく、中央劇場と改称しての記念公演」であったとあります。左翼劇場の指導者であった村山知義が「政治的な前衛と大衆との離反を策した『チャンバラ劇』だと批判」したことにも触れていますね。確かに初演1年前(1933年)には小林多喜二獄死と共産党員の相次ぐ転向があり、初演年には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解散している。そういう意味でも『斬られの仙太』は大衆化することで三好が転向作家として歩み出した作品であると言えるでしょうね。
 今井さんからご教示いただいた田中單之氏の論考[1]で私も詳しく知ることができたのですが、「運動」に翻弄されたあとの仙太が農民に戻っている第十場を演出の宇野重吉は劇団民藝による1968年の再演の際にカットしているんですね。「革命運動」に幻滅した仙太が、無理矢理供出を迫る自由党員に対して啖呵を切る場面です。翌69年の映画化でも、やはりこの場面はない。セクト争いに堕した「運動」の悲惨さの後に、運動の犠牲となった仙太の悲惨な結末だけが残るという結末です。1968年という時期を考えると、これは新左翼運動に対する幻滅を強調することになったでしょうね。

今井 そうですね。私もこの作品からは、三好十郎の、左翼運動への幻滅を強く感じることができると思います。

野田 ただ、1934年の段階でどこまでいわゆる左翼運動に対してどこまでの幻滅を三好十郎が感じていたかというのは、少し難しいところです。この頃は昭和恐慌(1930-31年)後の不況の中、小作争議の数が急増している時期でもありました。『斬られの仙太』冒頭場面における農民からの直訴への処罰は、これを反映していると考えるのが当然でしょう。ですから、三好は当時進行中であった喫緊の問題を扱っている点で、現代の視点から言えば十分に「社会派演劇」しているわけです。

   グラフ作成=野田、データ参照元:
   帝国書院「統計資料・歴史統計:労働組合数および労働争議件数」
   帝国書院「統計資料・歴史統計:小作人組合数および小作争議件数」

 初演時の状況、そして1968年の再演時の状況を見てきたわけですが、そうなると『斬られの仙太』の上演が現代において持つ意味の話をしなければならなくなります。今回は大幅カットの上での上演でしたが、それでも第十場は残していた。「そのココロは?」というところでしょうか。このご時世で革命を標榜する党と民衆意識との乖離を問題にする人はいないでしょう。そうなると、やはり新型コロナ対策をめぐる政策の右往左往と、オリンピック開催の是非をめぐる議論に照らし合わせて考えてみる必要があるのかなと思います。
 「結局は五輪やるんでしょ」というあきらめに世論がまだ抵抗していたのが4月の頃かなと思います。4月12日の朝日新聞による世論調査では「「今年の夏に開催する」は28%(前回3月は27%)、「再び延期する」が34%(同36%)、「中止する」が35%(同33%)で、いずれも3月から横ばいだった」とあります。東京都では3月21日に緊急事態宣言解除になりますが、4月25日にはまた4都府県に再発令される。今回の新国立劇場での上演は、ちょうど緊急事態宣言の狭間に行われた格好になるわけですね。4月下旬の再発令後「緊急事態宣言は五輪開催強行のため」という印象が拡がったのか、5月には今夏開催を指示する率が世論調査においてがくんと下がっています。結局国はやりたいことをやり、国民はそのために我慢するという不信感をここにみることは可能でしょう。もちろん断言はできませんが、政争に巻き込まれて自滅していく若い仙太、そして最後の第十場で不信を表明する年老いた仙太に、この絵を重ね合わせてみたくもなります。政権が送るメッセージを素直に受けとめられていない人々の感覚は少なくとも反映されていたとみるべきでしょう。伊達暁の仙太のやさぐれた無鉄砲さ、そして控えめな佇まいに、現代の若い世代が時局に抱く違和感を見たような気がします。

[1] 田中單之「『斬られの仙太』第十場の問題」、『日本文学』1988年5月。