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「思考の種まき講座 演劇フォーラム」

新国立劇場演劇部門芸術監督・小川絵梨子さんに聞く

小川絵梨子
撮影=加藤孝

【日時】2022年1月30日(日)
【会場】座・高円寺 けいこ場2(地下3階)

トーク:小川絵梨子(演出家・翻訳家)
聞き手:内田洋一(演劇評論家・新聞記者・国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会員)


■ネットの言葉、演劇の言葉             

【内田】まず最初にお祝いを申し上げたいと思います。目白にあるシアター風姿花伝で上演された小川さん演出の『ダウト〜疑いについての寓話』が、演劇雑誌『悲劇喜劇』(早川書房)の第9回ハヤカワ「悲劇喜劇」賞を受賞されました。おめでとうございます。

【小川】ありがとうございます。

【内田】新国立劇場の芸術監督になって今年で5年目、加えてその前の2年間は芸術参与という形で企画を練る立場でしたから、実際に関わり始めてからは7年目になるのでしょう。芸術監督の任期は1期4年。2期で交代するそうですから、最後の総仕上げに入ったところでしょうか。まずは2021 / 2022シーズンの新シリーズ「声 議論, 正論, 極論, 批判, 対話…の物語」ですが、このタイトルにどういう意味合いを込めましたか。

【小川】ちょうどコロナが始まった頃に考えていた企画です。そのときにいろいろな発言というものがSNSなどにあがっていました。いろいろ人が声を上げられるのはとても素晴らしいことですが、それと同時に、その声というのがいったいどのようなものなのかということを改めてみんなで考えてみよう――声を上げるということだったり、埋もれてしまった声でもいいんです。コロナで少し時間もあったので、そのようなテーマの本やいろいろな戯曲を読んで、三つの作品を選びました。それぞれの作品の特徴を考えて、できる限り若い演出家の方、そして新国立にまだご登場いただけていない方にもぜひ演出していただきたいと思い、桑原裕子さん、五戸真理枝さんのお二人にお声をかけさせていただきました。

 基本的に新国立での私の作品というのは、他の作品が埋まったときに「あ、ここは空いちゃうので私がやらせていただきます」というのが多いんです。なので、僭越ながらここの隙間を私も1本やらせていただいて。たまたま同世代の女性演出家3人でできたのは、とても嬉しいと思っています。

【内田】テーマ設定はSNS時代の問題意識によるものなのですか。

【小川】そうですね。私自身はSNSはやっていないんですが、ネット人間ではあります。ネットの情報って、どんどんコンピューターが弾いてくれるから、偏った情報ばかりが自分に集まってきますよね。私は、元々すごくネガティブな方に考えてしまう人間なので、そういうことで自分が気持ち的に追い詰められてしまいがちなときに、ネットの情報やいろいろな人の声の一部だけが、まるで全部のように聞こえてしまうというのは結構怖いと思いました。しかし、それは自分もやってしまうことだと思ったし、多様性ということは本当に大事なんだけれども、その多様性を得るためには自分たちが能動的に意識していかないと、自然と集まってくるものでもないんだろうとコロナの時に感じてたんです。どの意見が上ということではなく、意見を言ってもらえる空気を作ることや、言ってもらったことをジャッジするのではなく、まず聞いてみること――もちろん誹謗中傷は論外ですけど――やはり人間同士の会話や意思の疎通が、ツールや情報になってきているからこそ、改めてもう一度みんなで考えてみようというのをテーマにして選んだという感じです。

【内田】僕は1984年に演劇記者になったから今年で38年目。現役でこんなに長くやっているのは自分だけで、ま、我ながらうんざりするんですけどね(笑)。新国立劇場はできる前から取材をしています。最初の藤田洋さんが開場前に辞めてしまい、事実上の初代芸術監督は渡辺浩子さん、その後に栗山民也さん、鵜山仁さん、宮田慶子さんと続き、小川さんになった。小川さんの就任は30代で最年少、ぐっと若返った印象がありました。小川さんは「新聞は読みません」と言ったことがあるけれど、いよいよ新聞を読まない芸術監督が出てきたんだと驚いた記憶があります。

 新シーズンのテーマも発表時は「正論≒極論≒批判≠議論」とかで妙な記号が入っていたでしょう。発表資料を見たとき「新聞にどうやって書くんだ」と違和感がありました。活字で育った世代とは、言葉に対する感覚が違うのかな。

【小川】そうですね。もちろんネットだけではないですけど。圧倒的に発言や表現の機会というものの幅が広がったんだろうと思います。私自身も小さいときにはまだカセットテープで、インターネットもない、という時代で、テレビが一極で強い。もちろん家庭では新聞を取っていました。なので、いわゆる生粋のネット世代――たとえば5歳の姪がいますが、もちろんスマホもiPadも普通に使いこなしている――とは少し違う。特に私の場合は、一時海外に行っていたということもあるので、帰ってきて日本の社会にもう一回馴染まなくちゃいけないから、いろんな意見を聞こうと思っていると、どんどんネットの発言だったり――ネットのことがニュースになったり、こんなにすごいんだとは思いました。

 アメリカにいたときには――アメリカはケーブルテレビが主流なんです――お金がないからケーブルテレビに入れない。だからテレビを見なくなっちゃったんですね。帰ってきてからもあまりテレビを見るという習慣がなくなってしまったし、もともと新聞は取ってはない。そうするとネットの記事を読む。いろいろ新聞社の記事も読みますし、いわゆる掲示板的なものも読む。ただやはり自分が興味のあるものだけを選択しているというのは、すごく狭窄になっていって……「これはいかん!」と思って。

 特にコロナで、人と会って話したり、違う意見を聞いたり、「そんな出来事があったんだね」というちょっとした共感だったり、ちょっとした発見だったりがすごく少なくて、自分の世界だけに入り込んでいってしまう。それが良い方向に行く方もいるでしょうけれど、私は自分で自分をどんどん責めていったり、罪悪感などがものすごく大きくなったりして、これは社会に貢献しなくてはいけないという思いの中でマイナスでしかないと思ったりしました。

【内田】演劇はその場に出かけて観るのが基本ですが、コロナでそのことが危機的になった。このネット時代に演劇という回路でどうやってその部分とつながっていきますか。

【小川】それは大きな課題で、多面的に考えなくてはいけないと思っています。もちろん配信という面白さもあります。でもやはり劇場に来て観ていただく。共有体験として一緒に体感していただく。限られた人たちと一緒に体感していただくということの大きさなど、生じゃないと体感できないものがどうしてもあると思う。いろいろな演劇があるので一概には言えないと思いますが、私の目指している演劇の方向は、人間を理解していきたい。稽古場での話ですけど、役を深める、物語をひもとくというときに、常に人間というものに向き合う作業になっていく。これは全般的な話じゃないと思うんですが、私は自分自身が稽古をするときに、その一人一人がどのようなキャラクター、どのような登場人物であろうと、やはりその人を大事にしていきたいと思うんですね。

 以前に、演劇をやると自己肯定感が高まる、という論文が出たという記事を読んだときに、それはどうだろうと思いました。それを目指したいんですけど、実際には稽古しているときやリーディングに参加してくださったりするときも、皆さんは苦しい思いをしなきゃいけないから。今の私たちの文化で、自己肯定感が高まると直接的に言えるかな? というところはありますが、人間を許容していく――ああいうこともあるよね、こういうこともあるよね――ジャッジや整理をしたり、もちろん大事なことですが論文ではないので、何か社会的なメッセージだけを強く伝えるのではなくて、その人間というものを――「許容」という言葉は少し上からですけど――許容していくものなのだろうとは、ずっと思っているんです。今の日本の文化でも、もっとそうなってくれたらいいと思っているし、本当は授業で演劇教育があるといいと思っています。

【内田】ネット空間にある言葉はワンフレーズで、短く断定的なものが多い。良いか悪いか、好きか嫌いか。入る情報も自分の関心のあるものに偏る。ところが演劇の場合はそうではないですね。グレーゾーンの、さまざまな色合いの感情や表現や言葉が実はたくさんあるということがわかるわけです。演劇は言葉の多様性を直接的に示してくれますよね。

【小川】そうだと思います。明日から稽古に入る新国での新シリーズ『アンチポデス』は、書いている言葉では大した話はしていなくて、書かれていない言葉でのコミュニケーションがものすごく重要。実はとっても優しい人なのに、いわゆる社会的に強い人たちの間にいるとこの人が浮いて見えちゃうのは何故かとか、言葉にしにくい人間のコミュニケーションにある力学――といったら言い方がよくないのかもしれませんが――そういう言っている言葉よりも、そこで起こっている出来事が、いろいろな発言や表現になっている作品なんですね。それは映画でもできるとは思いますが、演劇だとその空気感が一番わかる。「ある、ある、ある!」とか「ちょっときついなぁ」ということが『アンチポデス』でできないかなと思っています。

【内田】演出家にもいろいろなタイプがあります。理念や哲学に基づいてズバリと世界観を提示していくタイプ、俳優の仕草や身振りから細かく作り上げていくタイプ。たぶん小川さんの場合は、俳優の自由な演技の面白さをいかに現場で拾うかという観点が強いんじゃないか。「この作品はこういうテーマだ」とはじめに設定する感じではないですね。

【小川】そうではないですね。どんな物語になるのか、ということは考えますが。

【内田】たとえば役者にA、B、Cといて、どういうふうにその役者が魅力的になっていくか、どうジャッジしていくかという仕方なんですよね。

【小川】そうです。

【内田】ネット空間にある、パターン化した感情とは違うところを拾おうとしている。

【小川】そうです。

【内田】いままでやられた作品に即して、何か例を挙げていただけますか。

【小川】『ダウト』を例にお話しします。書いてあるけれど、言っていることではないこと、後ろに何が起きているのか、いま何が本当に起きているのかということを、すごく重要視して創っています。ただ、それが正しいというわけではなく、私が学んだのはそうだったと思っていただきたいです。

 『ダウト』は尊敬する役者さんたちばかりだったので、書かれている後ろに何があるのかというのは頭でわかる必要はなくて、感覚でわかっていくことがとても重要でした。登場人物たちの一義的な感情は結果なので、それでは書かない。感情を作るために芝居をしているのではないんですよね。感情という結果を扱うために何をしていくかというのをやっていくのが私の稽古なんです。こういう感情を作ろうと思って作ると、やはり悲しいとか嬉しいとかワンカラ―になってしまいがちなんですけど、何かを出来事として――たとえば誰かから石が投げられたら、悲しい・恐怖・怖い・わけわかんない……とかいろいろな感情がもくもくと生まれると思うんです。そういうふうに感情とは何かの結果で生まれることが多いので、何でそういうことが生まれるのかということを稽古で体感しながらやっています。

【内田】演出ノートをつけるというような事前準備はあまりしないと聞きました。

【小川】こういう物語にしよう、こういう絵を作ろうなどは、最低限は考えますけど、舞台上での役者の一つ一つの動きやビジュアルまでは正直思いつかないです。新国立の芸術監督になって面白かったのは、いろいろな演出家の方とお話しさせていただけるので、こんなに準備してる?、こういう考え方でやってるんだ? など、それぞれの演出家の方のアプローチと少し一緒にいさせてもらえるのは楽しかったですね。

【内田】現場で発見するタイプなんですね。

【小川】こういうストーリーを語ろうとか、こういう方向に持っていこうとはもちろん考えます。が、それがもっと深くなったり具体的にビジュアルとしてどう立ち上がってくるかというのはやはり現場でやってます。

【内田】コロナで演劇を巡る言葉が荒れたということがあります。野田秀樹さんがメッセージを発したらネットで炎上したし、演劇の現場に対しても意地悪な言葉が多かった。苦しんでいるとか、演劇の灯を絶やしてはいけないというような発言に対して、辛辣な言葉もありましたよね。そういうのをどう思われましたか。

【小川】もちろん最初は傷つきますよね。同時に、ネットの一義的な強い言葉がどうしても表に出ちゃうだけなのか、そういうことじゃないのか……、などと考えていました。私は演劇がずっと好きで、演劇はずっと自分の人生にありましたが、学校時代の友達でも演劇を観たことがない人はすごくたくさんいて、少し特殊なものだと思う人も中にはもちろんいるんだろうと思ったり。その辺の社会的な距離感が、たぶんネットになってから、逆につかみにくくなった。私自身のリサーチ能力の問題だとも思うんですけど、もう何が本当なのかなとか、その辺をすごく考えたり、そう思ってる人がこんなにいるのか、そういうふうに思われてるのか、そういう歴史を背負っているのか、などいろいろなことを考えました。

【内田】僕は逆に演劇の現場は張り切るべきだと考えます。貧困な言葉に対しては、やはり身体を通したリアルな言葉で向きあいたい。その言葉、面と向かって身体を通して言えるのか。そういう言葉にもう一回身体性を回復させるにはどうしたらいいか。演劇人としては、やはりそこで闘っていくべきでは、という気がしています。