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 不正を弾劾する行動の正しさは誰が保証し得るのか。シアター風姿花伝で上演された『ダウト 〜疑いをめぐる寓話』(小川絵梨子演出)は、真実を求めるサスペンス性よりも正義を追究する者の態度に焦点を当てることで、現代社会において正義が抱える葛藤を映し出した。

 物語は1960年代のニューヨークにあるとあるカトリック学校で展開される。保守的な校長であるシスター・アロイシスは、上司にあたるフリン神父の進歩的な考えに抵抗を感じている。ある日校長は、若い教員であるシスター・ジェームスに聞いた話から、フリン神父がある男子生徒に対する性的行為を行った疑いを持つ。神父はその疑いを否定するが校長は信じず、追及をやめないと宣言する校長と校長を辞めさせようとする神父の対決となる。

風姿花伝プロデュースvol.8『ダウト 〜疑いについての寓話』
作=ジョン・パトリック・シャンリィ、翻訳・演出=小川絵梨子
2021年12月3日(金)~12月19日(日)/シアター風姿花伝
撮影=沖 美帆

 本公演では、この対決に至る過程で校長と神父の衝突が苛烈に演じられた。那須佐代子演じる校長は極めて露骨に神父への敵意を見せている。対する神父も、校長に嫌疑をかけられているとわかってからはかなり交戦態勢である。説教では当て付けとして噂を広めた女性の話を観客に向かってするのだが、大声を出して演技も交え「ドラマチック」に再現する。そして二人が最後に対決するシーンでは両者共に声を荒げ、相手を激しく追及する(校長はその前のシーンで、感情的になったシスター・ジェームスを「古代スパルタでは大声を出した者の意見が通ったらしいが、ここではそうではない」と叱っているが、神父との対決では校長も負けず劣らずの大声である)。

 実は、このようなぶつかり合いの激しさによって、作品の印象は戯曲や映画版(Doubt、2008。邦題は『ダウト〜あるカトリック学校で〜』、原作のジョン・パトリック・シャンリー自らが脚本、監督を務めている)とはかなり異なっていた。というのも、戯曲および映画では不在の真実の追求に重きが置かれており、特に映画では校長(メリル・ストリープ)と神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は感情を抑えており奥にまだ何かが隠されているという印象を受けるために、一層真実がわからないという迷いが強くなる。

 それは観客が「疑い」を持つよう促すドラマトゥルギーであり、これにより作品の肝であるサスペンス性は高まる。当事者の男子生徒は登場せず、物語の中心となっている出来事は直接的に描かれず、疑いをかけられている神父の弁明という形でしか提示されないために、観客自身も神父を疑うか信じるかの選択を迫られる。事実として語られるのは、神父と生徒が密室に二人きりでおり、帰ってきたときに生徒の様子がおかしく、アルコールの匂いがしたということだけである(しかしそれもシスター・ジェームスの報告なので客観的と言えるかどうかは微妙である。事実、生徒の様子についての彼女の説明はひどく頼りない)。神父は、アルコールは儀式用のぶどう酒を生徒が隠れて飲んでしまい、彼が処罰されないように黙っていたと弁明する。

 この話を信じるか否か。信じて胸を撫で下ろすシスター・ジェームスと一切信じない校長の明らかな態度の違いが提示されることで、観客も容易に信じていい話ではないと気づかされる。また、校長も神父もシスター・ジェームスに自身の主張を語り、それを聞く観客は両者の間で激しく葛藤することになる。さらに山場では校長と神父の凄まじい追及の応酬があり、その中で神父は次々と勤務校を変え「前歴」があったらしいことを含め多くの新たな情報が提示されることで、観客は一層迷うことになる。最終的に神父が他校へ「栄転」し、校長が在任のままとなった後でも、実は神父の前歴を暴いたというのは校長の嘘であったことがわかり、結局真実不在の宙吊り状態に観客は置かれる。

 このように本作では、キリスト教の根本原理である「信じること」と重ね合わされながら、観客は「信」と「疑」の間を激しく動揺することとなる。だが、シアター風姿花伝の『ダウト』では神父も校長もかなり感情を露わにしており、それによりいずれの話もある程度信用度が高いと観客には受け取られるだろう。すなわち、神父の話は真実であるのに校長がそれを信じられず、不当な嫌疑をかけてしまっているという構造に見えるのである。

撮影=沖 美帆

 これには多かれ少なかれ他の登場人物も寄与している。観客の立場に最も近いシスター・ジェームスは、自身の報告が事の発端であり真実がわからないという中で苦しむが、最終的にフリン神父を信じると決断している。伊勢佳代が演じるシスター・ジェームスは重苦しい空気が漂う本作の中でコミカルな部分を担っており、その愛らしさが観客の親近感とそれによる感情移入を強めていただろう。すると、観客はシスター・ジェームスの見解が適当な気がしてくる。加えて問題の焦点となっている男子生徒の母親であるミラー夫人も神父を信頼しており、津田真澄の誠実そうで温かみを感じる演技が観客の立場を神父側に引き寄せている。

 以上のように、原作および映画に感じられたような抑圧されたヒリヒリとするやりとりの代わりに、舞台版では俳優たちの演技によって、感情的で熱く衝突する印象が提示されていたと言える。

 では、本公演はサスペンス性の代わりに何を提示していたのだろうか。真実の追求という目的が比較的弱まっていたことは、結果として、校長の正義を貫こうとする信念の強さを照射していた。彼女はシスター・ジェームスから何も聞かない内からフリン神父に不信感を持っており、それは恐らくシスター・ジェームスが指摘したように神父と校長の思考がことごとく合わないからだろう。フリン神父の弁明が共感あるいは理解できるものになればなるほど、校長の信念と神父への嫌疑は堅く揺るぎないものになる。そしてそれは最終的に、神父を「栄転」という形で他校へ転属させる結末を招いた。校長の正義は、フリン神父の弁明の排除という形で達成されたのである。

 だが、話はそれで終わりではない、重要なのはその後の校長が漏らしたたった一言である。真実は明らかにならないまましかし一件が落着したかのように思えた最後のシーンで、校長はシスター・ジェームスに「疑いが…」とポツリと漏らす。強い信念に基づいて正義を追究し続けた校長が最後の最後で少しだけ見せた弱さは、自らの正義に対する「疑い」であり、彼女の戦いはこの「疑い」に対するものであったのではないかと思わされる吐露である。

 当然正義は追究されるべきであるし、不正は正されるべきである。だが、その不正を糾弾する者の正しさは誰が保証するのだろうか。

 校長は彼女の信じる真実を自分自身に吐かせるために嘘を吐いてしまう。そのようにして得られた結果は逆に彼女を追い詰める。神父は校長への当てつけとして行った説教の中で、空から指差す巨大な手の話をする。他人の汚れた噂を広めたとある女性は、巨大な手が自らを指差す夢を見るようになるという話である。その巨大な手は彼女の過ちを指摘するものであり、宗教的にはそれは正に神の手として、心理学的には自責の念が見せたものとして理解できるだろう。そして校長の「疑いが…」という吐露はいわばこの巨大な手が言わせた言葉である。正義を追究するものがその正義に逆に指弾されているのだ。

 この作品が話題となっているのは、中心となっているキリスト教における児童への性的虐待だけではなく多くの問題提起を含んでいるからだろう。例えば、カトリック学校のシステムは完全な序列型であり男性優位の構造であるため、校長と神父の対立は不利な女性と有利な男性の対立でもある。また、問題の中心となる生徒は学校唯一の黒人であり、加えて父親から家庭内暴力を受けている。フリン神父は孤立する彼に味方しようとしたと主張しているが、事が明るみに出た以上、公平を期すために彼を支援できないという結論になる。生徒の母親は息子がホモセクシュアルである可能性を考えており、仮に神父が性的行為を行っていたとしても問題がないのではないかと問う。このように、女性の社会的地位の低さ、BLM、家庭内暴力、アファーマティヴ・アクションの正当性、性的マイノリティに対する無理解など、現代において加速する議論のテーマが本作には巧みに織り込まれている事がわかる。

 挙げた問題は全て、正義を求める声と共に現在も議論されている。繰り返すが、正義は求められるべきだしそれが不正な行為であるというつもりは毛頭ない。だが、正義と信じるものを求めて行動している時、その行動の正しさを保証するものが欲しいと思うことがある。不正であった場合、天から大きな手が指してくれないかと望むこともある。不正を糾弾する声が大きくなりがちな昨今、特にそう感じることがある。

 正義を信じる者にとってこの結末は呪いであろう。たとえ正義と信じるもののために行動したとしても、その行動が正義であるかどうかを保証してくれるものはない。自身に対する「疑い」を持ち続けなければならないからである。作品の中で正義を代表する者がそのような「疑い」を自身に持っていたことは、正義が絶対的ではないこと、正義は他者だけではなく自身をも攻撃し得ることを観客に明示していた。

 以上のように、本公演では心理サスペンス的な側面を抑えることで、正義を求める行動をとる者が自身に向ける「疑い」を前景化していた。不正を断固として許さず、徹底的に排除しようとする向きが強い現代社会に対する痛烈な批評であろう。筆者である私もその思考傾向がないとは言い切れない。校長のように、自身を指弾する大きな手を見出せれば良いのにという祈りが虚しく呟かれるばかりである。(2021年12月3日19時鑑賞)