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 戦後80年の節目となった今夏、さまざまな催し物が開催された。

 演劇でも多くの公演があったが、とくに、トラッシュマスターズ『廃墟』『そぞろの民』と杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』が印象に残った。1945年の敗戦を小市民の立場から描いた『廃墟』、2015年の安全保障関連法案可決の衝撃を扱った『そぞろの民』、A級戦犯として処刑された板垣征四郎の霊が現れる『巣鴨塚 ハルの便り』。ジャンルも客層もおよそ異なる公演は、さまざまな事柄を考えさせた。

 ここでは、まず、7月末から8月にかけて上演されたトラッシュマスターズ『廃墟』『そぞろの民』について、記したい。

 

1.『廃墟』:敗戦直後のゼロ地点を生きる

 『廃墟』は、敗戦直後の日本人が立たされた、いわばゼロ地点を描いている。1946年に脱稿され、翌年発表された。

 のちに、『廃墟』が河出書房版作品集第4巻に所収された際、解題は作者三好十郎自身が執筆した。三好は敗戦当時を振り返り、玉音放送を聞いて「自分にも思いがけず、急に泣き出した」と書いている。そして彼は、なぜ自分が泣いたのか、ずっと考え続けて、その後一年ばかりを過ごした。それは戦争と敗戦についての自己反省といったような、意識の表面で操作できる思惟ではなく、「もっと深い、言葉や概念だけでは掴めないような隠微な瞑想と言ったような種類の追求であった。そしてその結果、一つの作品を書こうと思った」(『「廃墟」について』)という。

 こうして、作家自身によって、言葉や概念だけでは掴めないものを、作品の形で追求したとされた戯曲が、『廃墟』である。戦争と敗戦をめぐる、三好自身の複雑な思いが、登場人物の姿を借りて、語りだされている。ある家族の日常を丁寧に描くリアリズムを基調としながらも、登場人物たちは戦争に負けたことをめぐって長い議論を繰り広げ、リアリズムを逸脱する。「自分もその中で生きている同時代者全部に対して責任を負う」(『恐怖の季節』)と考えていた三好十郎が、敗戦の体験を表現者の倫理と責任において引き受けて描いた力作であろうと思う。

TRASHMASTERS『廃墟』
作=三好十郎 
演出=中津留章仁
2025年7月25日(金)~8月3日(日)/下北沢 駅前劇場
撮影=ノザワトシアキ

 中津留章仁演出の『廃墟』は、下北沢駅前劇場の狭い空間に組まれた装置で演じられた(舞台美術=原田愛)。客席から見て左手には煮炊きをする土間があり、中央から右手にかけては板の間の洋室がある。奥には廊下、ガラス戸、狭い庭が設えられ、三方の壁にはベニヤ板が応急的に張られており、壊れかけた木造家屋が再現されている。防空壕は廊下の右手にあり、客席から直接見ることはできない。戦災で損傷し、かろうじて残った家の中が再現されている。

 ここで今、ギリギリの借家生活をしている柴田家の人々は、戦前は知識人階級に属していた。父の欣一郎(北直樹)は高等教育機関(おそらく旧制高校であろう)で歴史を担当する愛国者だったが、戦争を遂行する指導者たちに批判的だったため、同僚から反戦論者だと中傷を受けたこともある。とはいえ、始まってしまった戦争には負けたくないとの考えから、戦時体制に協力した。戦争に負け、多くの教員が手のひらを反すように民主主義を礼賛し始めた今、教え子で、戦場で片腕を失った清水八郎(星野卓誠)が訪ねてくる。彼は欣一郎に、学校に戻って欲しいというクラス全員の要望を伝えるのだ。しかし、若い命を戦場で散らした皇国教育の一端を担ったことの責任を痛感する欣一郎は、清水の願いを拒む。

 柴田家の長男である誠(長谷川景)は、印刷会社に勤めている。戦前には反政府活動で逮捕され、長期間勾留されたことがある誠は、今、出版社勤めと党活動との二重の負担から体を病み、居間で横になっていることが多い。

 戯曲『廃墟』の魅力は、登場人物同士が徹底的に議論しあうところにある。敗戦のダメージを受けた人々が、民族とはなにか、敗戦を引き受けるとはどういうことかという重いテーマを議論する。

 たとえば欣一郎と誠の父子は、正反対の立場に立っている。勝者からも敗者からも同時に認め得る普遍妥当性を見出し、敗戦により否定された戦前の生から真理を救い出そうと苦悶する父欣一郎に対して、自分もその一部だった戦前をファッショと見なして切断し、勤労階級を再建して再出発を目指すのが、共産主義者である長男の誠である。ともに病んだ体であるにもかかわらず、譲らず、徹底的に議論しようとする点で、よく似た父子だ。

 しかし、議論するだけでは一家は生きていけない。体を壊した父と長男の働きが十分ではない一家は、困窮する。思想的潔癖症がある欣一郎は、闇で食料を手に入れることを拒む。誠が家計に入れる給料は家族を養うには足りない。困窮する一家に、ときおり缶詰やウイスキーなどの贅沢品を差し入れるのは、水雷兵器の特攻帰りで、人間不信から虚無的になり、片足を闇社会に突っ込んで自暴自棄の派手な生活を送る次男の欣二(倉貫匡弘)である。中学から高等学校までほとんど首席で通した優等生で、将来を嘱望されていた欣二。敗戦によりアウトローになった彼を好演する倉貫は、舞台に闇市の風を運んでくる。欣二は父と兄の真摯な議論をあざ笑い、ウイスキーをがぶ飲みし、酔った勢いでわざと醜態をさらして、騒ぎを大きくする。

撮影=ノザワトシアキ

 一家には、欣一郎の死んだ妻の弟で、ハイカラな生活に慣れた引揚者の三平(吉田祐健)も同居している。良心的歴史学者の立場から「日本」を救い出そうとする欣一郎。共産主義者として父が代表する「日本」を否定する誠。二人の議論に意味を見出せないニヒリストの欣二。世間ずれした場当たり主義をいかんなく発揮する三平。

 こうして男たちが議論ばかりしているのとは対照的に、日常生活を支えるのは、女たちである。一家の日常の一切は、三平が連れてきたせい子(川﨑初夏)と、欣一郎の末娘の双葉(小崎実希子)が担っている。二人は客席から見て左手の土間に場所をとり、薪を割り、かまどに火を入れ、湯を沸かし、食事の用意をし、食器を片付けた後も、布切れのかがり縫いをしている。双葉は戦時中に顔に負った傷が痛々しい。

 せい子も双葉も、当初は、男たちの議論に直接は参加しないが、聞いていないのではない。とくに双葉は、議論に熱中する男たちに向かって、憤懣やる方ない思いをぶつける:

「兄さんやお父さんなどのような、いくら議論したって私たちになんの役に立つんですの? こうしてメチャメチャになってしまって、なんとかして立直ろうと一所懸命になっている、たくさんの人達とは、そんなの、離れてしまっているんだわ! (……)」。(『廃墟』、『三好十郎の仕事』第3巻より)

 議論ばかりして、敗戦直後の現実から離れてしまった、と父、二人の兄、叔父を批判する双葉の言葉は、80年ちかく経った今日、トラッシュマスターズの舞台から立ち上がってくるのを聞いても、古びてしまったとは感じられない。男性中心社会の構図は、現在にいたるまで継続している。彼女の姿は、印象に残った。

 

 豊かな社会に育った現代の俳優たちの身体は、敗戦直後のバラック生活にはなじまないが、作者三好十郎が登場人物に仮託した語りが虚構の力を得て舞台に立ち上がると、不思議と落差は気にならなくなる。普請の代金を請求する抜け目ない大工の妻お光(小谷佳加)、自殺した長女信子の女学校時代の同級生で今はダンスホールで踊って身銭を稼ぐ圭子(下池沙知)、食べ物を盗んでいるところを捕まった浮浪者(寺中寿之、7/30以降は千賀功嗣)の好演もあり、敗戦直後の世相が多面的に示された。

 結局、だれ一人、他人を議論で打ち負かして、場を支配することはない。三好が描く「廃墟」では、民族主義も左翼思想も虚無主義も生活者視線も、いずれか一つの立場が他を圧して勝利を収めるということはない。いわばゼロ地点から出発した人々の、これからの行先を手探りする姿を戯曲としてとらえたところに、『廃墟』の魅力があり、現在上演する意義もそこにあると思えた。

 敗戦直後、どこに向かって歩みだせばよいか、必死で見出そうと精一杯生きる人物を演じる俳優たちの姿に、国際秩序が揺らぎ、社会環境が大きく変わろうとする中、戦後とはなんだったのかと考えざるを得ない現在の私たち自身が重なった。