きょうを生きる演劇/地域から演劇をつくること――「SPAC秋のシーズン2025-2026」アーティスティック・ディレクター 石神夏希の仕事:『お艶の恋』からの一考察

演出=石神夏希
原作=谷崎潤一郎『お艶殺し』
2023年12月2日(土)~10日(日)/静岡芸術劇場(グランシップ内)
©SPAC photo by K.Miura
SPAC-静岡県舞台芸術センターの「SPAC秋→春のシーズン」は今年から「SPAC秋のシーズン2025-2026」と名前を変え、新たにアーティスティック・ディレクターとして、劇作家の石神夏希を迎えた。中高生鑑賞事業公演を兼ねているこの秋のシーズンについて、これまでSPAC芸術総監督の宮城聰は、仮に「演劇の教科書」を作るとしたら、という基準で世界の古典戯曲を中心にさまざまな作品を選び、国内外の演出家を招いて公演を行ってきた。今回アーティスティック・ディレクターに就任した石神は、シーズンのテーマとして〈きょうを生きるあなたとわたしのための演劇〉を掲げ、石神自身の演出による『弱法師』(三島由紀夫作)の再演および、上田久美子演出『ハムレット』(シェイクスピア作)、多田淳之介演出『ガリレオ』(ブレヒト作)の三作を上演する。
この〈きょうを生きるあなたとわたしのための演劇〉というテーマから、思い浮かんだ作品がある。それは「SPAC秋→春のシーズン2023-2024」で石神が演出した『お艶の恋』だ。なぜなら、この作品を観て最初に感じたのは「演劇では人が死なない」だったからである。(2023年12月12日、静岡芸術劇場にて観劇)

photo by Natsumi Makita(F4,5)
■南米――揺らぎと遊戯性
当然ながら、演劇で人は死なない。どれほどすぐれてその役になり切ったとしても死ぬことはない。それは演劇に限らず、映画でも写真でも同じだ。「死」は演じられるけれども、俳優が実際に死ぬことはない。ではなぜ、石神夏希演出の『お艶の恋』を観て「演劇では人が死なない」と感じたのだろうか?
『お艶の恋』の原作は、谷崎潤一郎が1915年に発表した小説『お艶殺し』。江戸を舞台とし、色と欲が交錯する世話物の作品である。『お艶の恋』は、静岡芸術劇場での上演に先立ち、2023年9月に「SCOTサマー・シーズン2023」のプログラムとして、富山県利賀芸術公園の新利賀山房で、原作同様『お艶殺し』のタイトルで上演された。
『お艶の恋』では、原作の登場人物をカットするなど、戯曲化するためのテキストレジを行っているが、大筋において谷崎の小説と大きな変更はない。駿河屋の一人娘・お艶と奉公人・新助は駆け落ちの末に騙され、新助は人を殺してしまい身を隠し、お艶は売られて人気芸者となる。再会した二人は、なし崩し的に二人をだました男たちを殺し、金を奪い、しばらくは贅沢に暮らす。しかしお艶の心が他の男に移っていることに気づいた新助がお艶を殺す――「お艶殺し」を実行する、という物語だ。
石神は原作について、「演出ノート」で次のように書いている。
もしも小説の登場人物に魂というものがあったなら、お艶の魂は殺されたことを、そして“物語によって”永遠に殺され続けることを、どう思っているのだろう。私はもっと彼女の声が聴きたい、と思った。
(石神夏希「演出ノート」『劇場文化』3頁)
石神演出の面白さは、2022年に初演した『弱法師』にも共通するが、三島や谷崎作品において従来語られている言説、たとえば三島における「美学」や谷崎作品における「妖婦」像などとは異なる視点から舞台表象を構想することにある。そして本作における独自性は「南米」だ。
中高生鑑賞事業「SPACeSHIP(スペースシップシップ)げきとも!」 のパンフレットに書かれた「舞台設定」によると、日本から地球の反対側にある熱帯雨林の川に、百年かけて船がたどり着き、船の中で眠っていたお艶たちの魂が目を覚まし、その魂が役者となって、百年前の出来事、『お艶の恋』の芝居をはじめる、ということである。だから舞台が「南米」であり、谷崎が執筆してから実際の百年の時間の流れを、南米という地理的な帰着によって表現していると言ってもいいだろう(「百年」と「南米」という組み合わせは、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』も連想させる)。ただ仮にこの設定を知らなかったとしても問題はない。この「南米」的な設定で注目すべきなのは「遊戯性」と「揺らぎ」であるからだ。
まず舞台の冒頭では、紗幕が下りており、原作では最後の場面となる「お艶殺し」の場面の語りから始まる。
「「お艶殺し」はそれから二三日目に決行された。〔中略〕彼女は斬りかけられつゝ逃げ廻って、「人殺し人殺し」と叫んだ。息の根の止まる迄新しい恋人の芹沢の名を呼び続けた。」
そして一度暗転し紗幕が上がると、見えてくるのは、真夜中の月明りに照らされたアマゾンのジャングルだ。舞台上は熱帯植物が覆い、全体の照明のトーンは暗く、月明りに照らされた夜の川面のごとく床面が光る。中央に一本の丸木をくりぬいて作ったような小さな舟。その後ろには蓄音機と椅子が置いてあり、下手側の手前には絨毯が敷かれ、いまにもマンボを踊り出しそうなフリフリの袖に帽子をかぶった男(阿部一徳)がいる。パンフレットの「登場人物」表によるとフリフリ袖の男は、「座長=鸚鵡(オウム)」である(すべての人物は「看板女優=お艶の魂」というように劇団内での役割と、劇中での役柄が平行に書かれている)。が、設定を知らなくとも、鳥の鳴き声や、オウムのような口ぶりが混じるその語りから、この男が全体の狂言回しであることは明らかで、冒頭の語りを語るのもフリフリ袖のこの男である。言うなれば、フリフリ袖の男はオウムと人間のハイブリッドな存在だ。語りの達人である阿部一徳ならではの、オウム語と人間語が違和感なく混じりあう語りは遊戯そのものであり、そこはかとないユーモアを漂わせる。

©SPAC photo by K.Miura
舟の中にお艶(葉山陽代)と新助(たきいみき)が入り、時間と空間を仕切り直すように『お艶の恋』の上演がはじまる。二人の場面はほぼこの小さな舟の中で演じられるため、この舟そのものが「舞台」であるという印象を受ける。それにより実際の劇場の舞台(南米のジャングル)と、その内にある舟の舞台(魂たちが演じる舞台)という二重の空間構造となっているが、鬱蒼としたジャングルの植物と、そこに浮かび漂う舟、その前後にある椅子や絨毯などの室内道具という不可思議な要素の組み合わせが、二重性をはらみながらも、それらの境界を不確定なものとする。そのため「劇中劇」のような単純な内外の入れ子構造にならず、複数の空間性が曖昧に重なり合って見えるのだ。波のように空間の境界がゆるやかなことで、多重的・多層的な空間となっているのである。
さて、駆け落ちをした二人だが、お艶を自分のものにしたい船宿の清次(大内米治)の命令により、三太(bable)が新助を殺そうとする。この場面も出色で、三太は舟の中で、刀の替わりにマラカスをもって新助に襲いかかる。殺しの場面はマンボのリズムで明るく進んでいき、結局、三太は新助に返り討ちにあってしまい、図らずも人を殺してしまったことで、新助は身を隠すことになる。この場面以外でも、舟の両脇でダンスが踊られるなど、一般にイメージされる南米のラテン的なノリのよさによる遊戯性が随所で発揮され、この舞台に軽妙なテンポを生み出すのである。
遊戯(play)は演技(play)に通じ、本作ではさまざまな仕掛けにより遊びの要素が増幅される。それにより観客は、リアリズム演劇のように登場人物になりきるのではなく、登場人物たちが常に演技(play)をしているということを意識することとなる。つまり石神の演出は、『お艶殺し』という物語を、原作を「忠実」にパッケージ化した舞台にするのではなく、「南米」という地理的要素とラテンのイメージを使うことで、「百年」前の原作の時代性と場所性から浮遊するのだ。揺らぎの感覚と、遊戯性により、時間と空間性をあえて舞台に定着させないこと。これにより一方向的ではない、時間・空間感覚が舞台から流れ出てくるのである。

©SPAC photo by K.Miura




