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橋本ロマンス『饗宴 SYMPOSION』 撮影:大洞博靖

 橋本ロマンスの『饗宴/SYMPOSION』が上演されたのは、2024年の7月、世田谷パブリックシアター1)企画制作=世田谷パブリックシアター、演出・振付=橋本ロマンス、音楽=篠田ミル/世田谷パブリックシアター、2024年7月3日~7日、6回公演。このうち、6日と7日に観ることができた。。今、この前書きのようなものを記しているのが2025年の晩夏ですから、あの作品を観たのは1年も前になります。忘れかけているひともいるかもしれませんが、ここ数年の中でとてつもなく重要な作品だと思います。狂い始めていた世界を少しでもまともなものにしたいという願いを、ひしひしと感じさせる作品でした。世界を変えようと大上段に構えるわけでも、国家とか宗教とか領土とか、そういう個人を超越したシステムの暴走を直接批判するわけでもなく、もっと単純に、もっと身近なこととして、人と人とのよい関係性を拡大することで世界はいくらでも修復可能なはずだ、という希望を示そうとしていた、と私には思えました。楽観的すぎるといわれるかもしれませんが、そこに人がいて、その傍らにも人がいて、そのまわりにも人がいて、互いの実存を搾取することなく穏やかにそこにいるだけの関係性を実現することはそんなに難しいことではないはずです。橋本ロマンスの『饗宴/SYMPOSION』は、そういう大切な希望をしっかりと思い出させてくれました。その希望を可能にするひとつの運動体としての始まりを示そうという意欲をもった作品に見えたのです。
 少しずつ書いては消して、消しては書き足しているうちに1年経ってしまいました。1年前にこの作品を観ることができた人でしたら、あの感激を思い出しながら読んでいたただければ幸いです。
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 事前の情報によれば、プラトンの『饗宴』を読んだ際に抱いた「強い違和感」からこの作品が生まれたという。当日パンフレットにも書かれているが、朝日新聞のインタビュー記事でも、橋本ロマンスはそのように答えている2)「ダンサーが見せる「透明な人々」の存在 振付家・橋本ロマンス『饗宴/SYMPOSION』」2024年6月13日朝日新聞夕刊。さらに、鷲田清一が、7月1日の朝日新聞「折々のことば」で、この記事の中の、「変わるために闘わねばならないのは、常に多数派(マジョリティ)の側であるべきです。」という言葉を取りあげている。。そうかプラトンか、確かに古代アテネのおっさんたちの語る愛の議論は胡乱なものだ、いったいどういう形でプラトンに対抗するのだろうか、と少しばかり身構えて観に行ったのだが、そんな必要はまったくなかった。2000年前に行われたという愛の形而上学の痕跡はほぼなくて、むしろそこには、今私たちがかかえている問題の様々なかけらが散らばっていた。愛することがどれだけ妨げられているのか、生きることがどれだけ妨げられているのか。そして、この作品を作っているまっただなかで起きてしまったとてつもない暴力、パレスチナの地で起きてしまったイスラエルによる大虐殺に黙っているわけには行かないだろう。遠い地で起きている暴力も、身近な暴力も、同じ人間が行っているのだ。愛することを暴力から切り離すこと、そこにプラトンの『饗宴』のテーマである愛と恋が浮かび上がってくる。こうしてここに、暴力と愛、平和と愛を射程とするこの素晴らしい作品が生まれた。
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橋本ロマンス『饗宴 SYMPOSION』 撮影:大洞博靖

 世田谷パブリックシアターの舞台はこんなに広かったのだろうかと、めまいを感じるほどの広がりがそこにあった。舞台は水平な線で上下に分断されている。何もない下段のスペースの背後は3メートルほどの高さの壁になっていて、壁の上にもスペースが広がっている。上段にはピアノやテーブルやイスなどが置かれていて、天井から大きなスクリーンが降りている。下段と上段を区切る高い壁は、びっしりと落書き、あるいはグラフィティで埋め尽くされている。東京ではあまり見かけないが、ロンドンやベルリンなどにはありそうな落書きだ。少しかすれた FREE GAZA や、LIBERATION!!! 、PACBI 等が読みとれる3)PACBIとは、The Palestinian Campaign for the Academic & Cultural Boycott of Israel 「イスラエルの学術・文化ボイコットのためのパレスチナ・キャンペーン」。第2次インティファーダのさなか、2004年に組織された運動であり、イスラエルの学術的機関に圧力をかけて、パレスチナに対する抑圧政策を止めさせることを目的とする。そして今、ガザへのジェノサイドをやめようとしないイスラエルに対して、世界中で呼びかけられている。他にも壁の落書きには、VOTE とか ACAB 等も読めた。
 サングラスとヘッドフォンのオーバーオールがその壁にさらに書き足している(唐沢絵美里)。長い耳の帽子に白いミニスカートが、床にぺったりと座ってそれを見ている(今村春陽)。まったりとした2人と、壁の文字が訴えかけるメッセージに目をこらしていると、教会の鐘が鳴り渡るような重厚な音楽とともに、上段に次々と人が現れてきた(音楽は篠田ミル)。下段のゆるっとした2人とは違い、スーツやワンピースでキビキビと歩いて中央のテーブルに集まる。何かの作戦会議だろうか。そのうちに会議に飽きたのか、あるいは会議が盛り上がったのか、赤いパントンチェア(裳裾を広げたようなオシャレな北欧のイス)に座っていた赤のワンピースと黄色のワンピースが、座りながら踊り出す(湯浅永麻とChikako Takemoto)。会議中のためか足ばかりがメカニカルにせわしなく動くが、最後はイスに乗って踊ってしまう。盆踊りのリズムを洗練させまくったような音楽で踊るふたりは、取り澄ました優雅さと尊大さを見せつけるかのようだった4)この2人の動きは、ローザスの『Rosas danst Rosas』の2曲目、イスのシーンへのオマージュなのかもしれない。歯車装置を思わせるローザスの動きと比べると、湯浅たちの動きはせわしなく、ざわざわした感じが出ていた。
 下段のふたりは上段の人たちを見上げていた。オーバーオールの唐沢がビデオカメラを手にして上段の人たちを撮影すると、その映像は上段中央の大きなスクリーンに映し出される。上段の高雅な人たちの行動は衆目の監視下にあるのだろうか。まったりとした時間が流れている下段の人たちからしたら、時計仕掛けのようにきっちりとせわしなく進む上段の人たちは異様に見えるのかもしれない。上段は権力に近いのだろうか、あるいは権力と結託した大衆が上段で、そこからあぶれたマイノリティやアウトサイダーが下段なのだろうか。とはいえ、上段と下段は閉ざされているわけではなくて、行き来は可能なようだ。下段にいたオーバーオールの唐沢がいつの間にか上段に現れて何やら人々を動かしたりもする。さっきまで上段にいた男、野坂弘(ひろむ)が、下段にひょこっと現れて、「笑いについて話しましょう」と、スタンダップコメディアンのように観客に話しかけたりもする。
 その野坂弘は笑えないギャグで客席をしらじらとさせてしまうのだが、そのうちに、「苦しんでいる人を無関係なこととしてしまうような笑い」、「ノイズをなかったことにしてしまうような笑い」、と語るうちに目つきも口調も変わってくる。彼が言いたいのは、イスラエルによる長年にわたるパレスチナの占領と民族浄化なのだ。野坂は語り続ける、イスラエル政府に対する文化的ボイコットをある劇場に訴えた …… まったく話を聞いてくれなかった …… 劇場前で抗議活動をしても …… 劇場に集まる人たちには自分が見えていないのかと思うほど無視された …… まるで自分が透明人間になってしまったかのようだ……と、少々おどけて話す野坂の声には、私を含め多くの観客の無関心さや無行動を非難する思いが混ざっていたかもしれない。野坂がさらに核心を語ろうとするそぶりを見せたところで、爆音でかき消されてしまった。上段の人々の怒りを買ったのだろうか、大きな爆弾が下段でたゆたう人たちの上に落ちたかのように、野坂はのたうちまわる5)野坂は2024年のゴールデンウィーク中、イスラエルに対する文化的ボイコットを訴えて、ひとりで抗議運動を続けていた。イスラエル政府が何らかの助成をしているであろうアーティストの上演をボイコットすることで、少しでもジェノサイドを阻止しようとする活動であり、先に触れたPACBIに連動するものだ。野坂の行動に対して、ダンスファンやダンス界隈からの反応は概して冷たかった。アートに政治を持ち込むなというよくある単純な反発から、PACBI自体への懐疑的な発言もあった。私としても、野坂への賛同を表明することもできずにいた。ところで、この野坂の語りが字幕付き(日本語と英語)だったのは単に外国人への配慮というだけではないのかもしれない。字幕があるということは、台詞はすべて事前に決定されているのだから、彼の語る政治的な発言は既に検閲済みであり、ゲリラ的に語っているのではない、ということを示す意図なのだろうか。
 この野坂のスピーチから、『饗宴/SYMPOSION』は外部の現実との繋がりを突如得ることになった。それを快く思わないダンスファンもいたことだろう。劇場は現実の憂さを忘れる夢の場所であってほしい、とりわけダンス公演は、という気持ちはわからないでもないが、そんな悠長なことを言っていられないほど現実は狂ってきている。劇場もこの現実の一部でしかありえないのだとしたら、現実と無関係ではいられないのは当然だろう。2022年2月にウクライナへの侵略を始めたロシアが、1ヶ月後にはマリウポリの劇場を破壊したことを思い出さなくてはならない6)ドネツク州立アカデミー劇場、ないしは、マリウポリ劇場。3月の爆撃で完全に破壊された。https://www.theguardian.com/world/2022/mar/16/mariupol-ukraine-russia-seized-hospital。そのとき劇場は子どもたちのシェルターになっていて、前庭には「子ども」と大きく書かれていたのだが、子どもたちを殺すのはジェノサイドの鉄則であり、ガザで行われているのもそれだ。劇場を含めアートといわれるものが特権的なシェルターになり得ないのは当然である一方、逆に言えば、劇場を含むアートを破壊することは何らかの政治的力を持ちうるはずだ。破壊とはいわずとも、拒否することはできるだろう。
 野坂を突然に襲った爆撃も、そうした攻撃だったのかもしれないが、野坂がどれだけのたうち回ろうと、上段の世界はあくまで優雅だ。バッハの無伴奏チェロ1番ト長調のプレリュードが、いかにも安っぽいアプリで演奏するような平板な音で流れてくる。それは上段にいる人たちの空虚さを表しているのではないかと思えてしまうのもしかたないだろう。真摯な戦略会議がテーブルを挟んで行われているのかと思っていると、突然、皆が殴り合いを始めるのも、かれらの行為が空虚だからこそ、容易に暴力を引き起こすとでもいうのだろうか。
 それに比べて下段では、人々は穏やかに暮らしていられるようだ。少なくとも突然の爆撃がなければ。上段では皆、軍隊のようにきっちりまっすぐ歩くことが多いが、下段では皆が気ままに歩いていられる。ミラーボールの下で輪をなして盆踊りのように踊り騒いだりするのも、その騒ぎの中でアジテーションすることもできる。そしてもしかすると、戦争を始めるのは上段の人々で、戦争で死ぬのは下段の人たちなのかもしれない。踊っているのか逃げ惑っているのか、わからなくなる。ミラーボールの光なのか爆撃の閃光なのかわからなくなる。そして皆、爆煙の中に倒れていった。
 しばらくして、なにごともなかったかのように、オーバーオールの唐沢絵美里が歩いてくる。ごそごそと床を剥がすと2メートルほどの溝が生まれ、火がついた。その前には、最初は上段にあったオシャレなイスが置かれていて、唐沢はイスの上に医療器具らしきものを広げる。左足を少々無理のある体勢でイスの上に上げ、くるぶしの下あたりを消毒し、その柔らかな皮膚を針のようなもので削っているようだ。その行為は、ビデオカメラで写されて後方のスクリーンに大きく映されている。タトゥーだろうか、皮膚を刻み血がにじむような行為が大きくスクリーンに映される。唐沢の後ろで燃えている小さな火は、スクリーンの中では唐沢を襲う巨大な炎に見える。ガザやウクライナの人たちは、こうした炎を背にして日常を生きているのだろうか。くるぶしの下あたりの皮膚を痛めつける唐沢の行為は、燃えさかる戦火へのかすかな抵抗だろうか。それとも怒りだろうか。近くに置かれたCDプレイヤーでは、リンダ・ペリーが歌っていた、 “what’s going on” 「いったいどうなってるんだ?」。 
 そして、皆が去って行く。オーバーオールもオレンジのワンピースも消えた。残されたひとり、長い耳のミニスカートが、名残惜しそうに会場を幾度も振り返りながら、去ろうかどうかためらっていた。その先には私たちの世界が広がっている。

橋本ロマンス『饗宴 SYMPOSION』 撮影:大洞博靖

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 この作品は広い意味で愛をめぐる対話篇をなしていると思う。遠いパレスチナの人たちを思う愛であり、すぐ隣にいる人を思う愛であり、暴力や搾取という形とは無縁な愛だ。言葉による対話はなくても、人と人がそこにいて、ときにはダンスになり、ときにはダンスにもならずに交わされる動きのひとつひとつが積み重なっていく。
 2000年前、「愛は欠如に由来するのか」と問うたソクラテスに、ディオティーマという名の女性が答えてくれたとプラトンは書いている。無知であるからこそ智慧を希求するのが愛知(フィロソフィー)であるのと同じで、美しいものを欠いているからといって醜いわけではない。美しいものを欠いているからこそ美しいものを希求するという中間状態が愛であり、愛の神エロース自身が他ならぬそうした中間状態を体現しているダイモーン的存在(神と人との中間的存在)なのだ。この議論はわからないではないが、そもそも愛と知を同じ構造で捉えようとすることが形而上学の傲慢のような気もする。知は欠如することはいくらでもあるだろうが、美は欠如するようなものなのだろうか。ましてや愛は欠如に由来するのではないだろう。醜さや憎しみは、美や愛の欠如ではなくて、別のカテゴリーに属するものと考えたほうがいい。愛と支配の区別がつかない事態もままあるかもしれないが、それは愛ではなく支配欲や独占欲だろう。それにまた、無知ゆえに知を愛するのであれば勝手に愛していればいいのだが、何らかの欠如や必要から人を愛するのだとしたら、愛される人はその欠如を埋めるために利用されかねないことになり、それはひそかな搾取にもなりうる。理由も意味もなく、あるいはわからずに、人を愛することはいくらでもあるだろうし、むしろそれが普通だろう。後付けで理由はいくらでも語ることはできるけれど、最初に理由や意味があるわけではないはずだ。搾取や抑圧や専横的な欲望に決して至らない愛、なにか特別な意味もなくただ愛することの肯定がそこにある。
 ダムタイプの『S/N』を模して、上下2段に分かれた舞台装置をしつらえたのも、愛について語る『S/N』から力を得たいという思いからなのかもしれない。かつて道徳とか医学の名において排斥されようとしていた愛の存在を、古橋悌二たちは痛切に訴えていた。言いたいことを声高に振りかざしたり押しつけたりはせずに、いわば、あるべき共同体の姿を作品そのもので先取りしてみせようとするところも、『S/N』に通じるところがある。社会や世界から隔離された特権的な場としての舞台で成り立つだけの作品ではなくて、舞台上にいるダンサーや役者や裏方たち、その存在自体が、居心地のよい愛と平和を体現した共同体の様相を呈しているように見えるのだ。橋本ロマンスは当日パンフレットに次のように書いている。「抑圧や排除のシステムが内在化されている劇場という場所で私が試みたことは、自由と解放を求める人々の姿、自分の特権性を手放して変化を選ぶ人々の姿、そしてその人々の持つ交差性を描くこと」であり、そのためには、「プロジェクトに関わる全ての人が安心して対話や議論をすることが出来るセーファースペースとしての機能を創作現場につくること」が最も重要なことであったと。
 愛はうっすらと霧のようにただよいながらこの作品のすべてを包んでいる、といったらいいだろうか。たとえばミニスカートの今村春陽は、ぼうっとたたずんでばかりいるけれど、そこにいることを誰もがじゃませずに、好きなかっこうで、好きなようにそこにいる。オーバーオールの唐沢絵美里は、今村と違って積極的に動いたりけしかけたり、少し離れた場所から皆を見詰めていることも多いのだけれど、誰かを支配するわけでも斜に構えるわけでもない。オレンジのワンピースの湯浅永麻も自然に、そして巧みに、みなを動きへと誘っていく。そうした居心地の良さがこの作品を覆っている。
 おそらく私たちは、何の意味も持たない他者にはそう簡単に暴力は振るわないだろう。「女」であったり、「トランス」であったり、「テロリスト」であったり、そこにいる人に、その人自身には責任のない勝手な意味を与えないと暴力は振るえない。日常にあふれる暴力も、劇場にはびこる暴力も、ガザにふりかかる圧倒的な暴力も、理不尽な意味を振りかけられた人たちが被害者になるばかりだ。そんな理不尽な関係をやめて、もっと居心地のよい場所を作ろうではないか。橋本ロマンスがこの作品で実践しているのが、その思いだと思う。長い耳にミニスカートの今村春陽は、この舞台の時間がとても居心地がいいのか、終わってしまうのを名残惜しそうにいつまでもためらっていた。
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橋本ロマンス『饗宴 SYMPOSION』 撮影:大洞博靖

  1年たってふと、熊がいたことを思い出した。大きな熊だった。人を襲うわけでもなくそこにいた。もちろん着ぐるみの熊。何か意味があってときどき現れるのだろうが、その意味はわからなかった。最近、里にまでおりてきた熊が射殺されることが多いが、この舞台の熊は人を襲うでもなく、人が熊を恐れるでもなく、ただそこにいた。熊であることの意味を何も持たずに、持たれずに、そこにいた。誰にとってもの他者として、無意味な他者として、そこにいた。
 ガザでの虐殺は1年前よりもひどくなり、もはや狂っているとしか思えない。世界中で行われているPACBIの運動は期待されるほどの圧力にはならなかった。各地でさかんに行われているパレスチナ連帯デモにもネタニヤフはびくともしない。パレスチナの人たちを無意味な他者としてそっとしておくことは、彼らイスラエルの人たちにはできないのだろう。平穏に暮らすにはあまりにも目障りな隣人なのだ。同じ根を持つ一神教同士の隣人嫌悪という崇高な淵源からなのではなくて、ネタニヤフの周辺の少数の政治家や民衆の拗くれた思惑に支配されていることが原因なのだろうが、終息する姿をほとんど誰にも描けない。テルアビブのオハッド・ナハリンもガザの虐殺をやめるようにたびたび訴えているが、アーティストの声は今のイスラエルではほとんど力にならない。
 アートに倫理性を求めることは無粋だと言われるかもしれない。ダンスを踊ったり見たりする悦楽は倫理とは別次元にある楽しみだと言われれば、それはそうだろう。モーツァルトを愛し、ダンスを愛する非道な悪人はいくらでもいるだろうから。たしかにそうかもしれないが、それでも抵抗したい。倫理とは、必ずしも超越論的な規範というわけではなくて、もっと単純に、私たちがどういう社会に生きたいかという希望だとしたら、アートが限りなく倫理的になることを求めたい。橋本ロマンスの『饗宴/SYMPOSION』が遠くから指し示しているのも、倫理的に生きることの素晴らしさだと思う。

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1. 企画制作=世田谷パブリックシアター、演出・振付=橋本ロマンス、音楽=篠田ミル/世田谷パブリックシアター、2024年7月3日~7日、6回公演。このうち、6日と7日に観ることができた。
2. 「ダンサーが見せる「透明な人々」の存在 振付家・橋本ロマンス『饗宴/SYMPOSION』」2024年6月13日朝日新聞夕刊。さらに、鷲田清一が、7月1日の朝日新聞「折々のことば」で、この記事の中の、「変わるために闘わねばならないのは、常に多数派(マジョリティ)の側であるべきです。」という言葉を取りあげている。
3. PACBIとは、The Palestinian Campaign for the Academic & Cultural Boycott of Israel 「イスラエルの学術・文化ボイコットのためのパレスチナ・キャンペーン」。第2次インティファーダのさなか、2004年に組織された運動であり、イスラエルの学術的機関に圧力をかけて、パレスチナに対する抑圧政策を止めさせることを目的とする。そして今、ガザへのジェノサイドをやめようとしないイスラエルに対して、世界中で呼びかけられている。他にも壁の落書きには、VOTE とか ACAB 等も読めた。
4. この2人の動きは、ローザスの『Rosas danst Rosas』の2曲目、イスのシーンへのオマージュなのかもしれない。歯車装置を思わせるローザスの動きと比べると、湯浅たちの動きはせわしなく、ざわざわした感じが出ていた。
5. 野坂は2024年のゴールデンウィーク中、イスラエルに対する文化的ボイコットを訴えて、ひとりで抗議運動を続けていた。イスラエル政府が何らかの助成をしているであろうアーティストの上演をボイコットすることで、少しでもジェノサイドを阻止しようとする活動であり、先に触れたPACBIに連動するものだ。野坂の行動に対して、ダンスファンやダンス界隈からの反応は概して冷たかった。アートに政治を持ち込むなというよくある単純な反発から、PACBI自体への懐疑的な発言もあった。私としても、野坂への賛同を表明することもできずにいた。ところで、この野坂の語りが字幕付き(日本語と英語)だったのは単に外国人への配慮というだけではないのかもしれない。字幕があるということは、台詞はすべて事前に決定されているのだから、彼の語る政治的な発言は既に検閲済みであり、ゲリラ的に語っているのではない、ということを示す意図なのだろうか。
6. ドネツク州立アカデミー劇場、ないしは、マリウポリ劇場。3月の爆撃で完全に破壊された。https://www.theguardian.com/world/2022/mar/16/mariupol-ukraine-russia-seized-hospital