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■逆転スペクトラムの懐疑

 今年もまた夏が来た。例年よりも暑い夏、それでも夕焼けは変わらずに空を染める。夏ならではの赤い夕焼け。

 誰かと一緒にこの夕焼けを見る。「夏の夕焼けは赤くきれいですね」と語りかけ、「そうですね」と同意を得る。しかしここでふと疑問がよぎる。私が「赤」と呼んだその色は、その人も本当に「赤」に見えているのだろうか? もしかしたらその人にはその「赤」が、私が通常「緑」と呼んでいる色に見えていたとして、しかしその人は通常その「緑」を「赤」と呼んでいたとしたら、言葉の上では「赤くきれい」で一致する。が、視覚上では、私とその人は異なる色の夕焼けを見ていることになる。だがその不一致を確認する術はない。

 このような疑問を、哲学では逆転スペクトラムの懐疑というらしい。すなわち、私の見ている風景と、誰かの見ている風景が同じであるかどうかは、永遠にわからないのではないか? という疑いである。だとしたら私たちは、他の誰とも風景を共感することはできないのだろうか?

SPAC『弱法師』
作=三島由紀夫『近代能楽集』より
演出=石神夏希
2022年9月17日(土)~19日(月)/岡県舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」

 SPAC-静岡県舞台芸術センターの『弱法師(よろぼし)』(演出=石神夏希、作=三島由紀夫(『近代能楽集』より)、2022年9月17~19日、静岡県舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」)は、この逆転スペクトラムの懐疑に対する一つの答えであった1)本作は、SCOTの鈴木忠志(富山県南砺市)、平田オリザ(兵庫県豊岡市)、鳥の劇場の中島諒人(鳥取県鳥取市)、そしてSPAC-静岡舞台芸術センタ―の宮城聰(静岡県静岡市)が、それぞれの拠点で次世代の演劇人と共同で作品を創造する「桃太郎の会」プロジェクトの作品の一つ。本作はSPACでの上演に先立ち、富山県利賀芸術公園・創造交流館(2022年9月9~10日)にて上演。

 三島由紀夫が、俊徳丸(しゅんとくまる)伝説を下敷きに描いた本作の主人公は、戦争により5歳で盲目の孤児となった俊徳(としのり)。家庭裁判所の一室を舞台とし、調停員・桜間級子(しなこ)により、俊徳の親権者を「生みの親」とするか「育ての親」とするかの調停が行われる。俊徳を引き取り育てた養父母・川島夫妻は、戦争で死んだと思っていた我が子との15年ぶりの再会に胸躍らせる高安夫妻に対して、俊徳の特異性を語る。そのうえで川島夫人は「はっきり申せば、あの子は一種の狂人です。あの子の狂気に堪えてきた私どもには、あなた方の甘い感傷を嘲る資格があるわけですよ。とにかく私どもは堪えに堪え、それで一心同体にまでなったのです」2)台詞はすべて、三島由紀夫『近代能楽集』(新潮文庫、昭和43年3月)による。と、俊徳と自分たちがいかに一体であるかを主張する。

 その場に現れた俊徳は、高圧的な態度で親たちを翻弄する。級子はいったん親たちを下がらせ、俊徳と二人で話をし始める。そこで俊徳が語ったのは、空から火の粉が降り、家も人も、ついに俊徳の目も燃やした戦火の風景――「この世のおわりの景色」だった。

 石神演出は、なんとこの物語を2回繰り返した。

 舞台は正方形で、舞台を囲むように客席が置かれている。上部には1つだけ窓のように四角く穴のあいた帯状のリングがある。正方形の舞台は、その一角を正面として、正面の対角となる一角の両辺にそれぞれの両親が座るイスが並べられ、中央には脚立が立っている。このリング(円)と正方形という組み合わせは、円のもつ(無方位的)全方向性と、四方という一定の方位性を兼ね備えているようだ。そしてこの舞台においては、この方位性が重要な意味をもつことになる。なぜならこの舞台が描くのは「景色」そのものであるからだ。

 舞台が始まりまず驚くのは、最初に舞台に登場する調停員・級子(八木光太郎)の姿だろう。級子は、頭と足にテディ・ベアのような被り物とレッグウォーマーを着けた、派手な花柄シャツと半ズボン姿で、扇風機をいじったり、スタンドマイクを置いたり、せわしなく動く。男性が演じているが、特に「女性らしさ」を作るわけでもなく、一般的に想像する「調停員の女性」のイメージとはまるで隔たっている。しかしこの奇妙な姿は、この作品が知覚をめぐる物語であるということを教えてくれる。

 物語の後半、俊徳と級子二人だけの場面で、次のような会話がなされる――俊徳「僕にはあなたの形が見えない。不公平だな。川島の母は、あなたがきれいな方だって言っていましたよ」、級子「とんでもない。それに私はもうおばあさんですもの」。見えないがゆえに俊徳にとって「形」は何の意味もなさない。つまり「見える」観客にとって級子の姿はユニークに映るが、俊徳にとってはワンピースだろうと着ぐるみだろうと同じであるわけだ。この奇妙な級子の造形によって、俊徳と他の人物(あるいは観客)との知覚的認識の違いが露呈されるのである。

 さらに言えば、ぬいぐるみのようにモコモコした素材感が際立つ被り物とレッグウォーマーは、この衣裳の視覚性だけではなく触覚性も強調する。そして触覚とは、俊徳が外部の造形を認識するための方法であるのだ。

 級子に続いて登場する俊徳の両親たちは、まさに視覚の見本といえよう。川島(大道無門優也)が青、川島夫人(中西星羅)が赤、高安(大内米治)が緑、高安夫人(布施安寿香)が黄色というように、衣裳がはっきり4色に色分けされている。それはこの世界の〈色〉の基となる原色、光の三原色(赤・青・緑)にして色の三原色(シアン・マゼンダ・イエロー)だ。

 それぞれのビジュアルは特徴的であるが、俳優たちの演技はとても安定しており、論理的で硬質な三島の台詞を力むことなく一語一語丁寧に語っていく。級子に至っては、クマの被り物をした人物がふざけることのない真摯な演技で「~ですわ。」と語るため、その姿と台詞には大きなギャップがあるのだが、実はこのズレにより、三島の台詞が昔ながらの「女言葉」として消化されることなく、むしろその文語性を逆手にとって、新劇風でも、翻訳調でもない、新たな台詞のスタイルとして刷新する作用さえ生まれていたといえるだろう。

 

■非‐視覚的パノプティコン

 物語の冒頭部分の、もう一つ印象的な場面を紹介したい。それは養父・川島と生母・高安夫人が顔を合わせる最初の場面で、川島は高安夫人を無言のままじっと見つめる。一般に、最初に発せられる言葉もしくは声を意味する「第一声」という表現があるが、見ることについて同様の表現はなく、「第一視」とは言わない。おそらく発声や発語は明らかに声や音が外部に現われているが、見ることについては、眼球の向きは確認できても、その目が見ているのか、見えているのか、ということは他人には判断できないからであろう。それでもなお、川島が高安夫人を見た彼のまなざしは、この舞台における「第一視」と言いたくなるほど、この作品を象徴していた。何を見るか、という対象との関係ではなく、純粋視覚行為とでも言えばいいのだろうか。見えていることは、通常、言葉によって表現されるものだが、川島のこの目は言語性を伴わずに可視性を表していた。そしてこの視覚のあり方は、俊徳と正反対のものである。

 後から登場してきた俊徳(山本美幸)は、黒いサングラスをかけ、黒い背広に身を包み、脚立の上にまたがる。俊徳を演じる山本は、脚立の上でも身体がブレることなく、歯切れよく話し、神経質さとカリスマ性を兼ね備え、脚立の上から親たちを圧倒する。足にすがりつくように脚立にすがり、俊徳を仰ぎ見る親たち。この舞台の中心に据えられた脚立は、俊徳と親たちの上下関係だけではなく、俊徳が親たちを支配する構造を効果的に表していた。そこにあるのはパノプティコンの構造だ。

 監視システムとしてのパノプティコンは、監視室を中心に放射状に収容施設を設置し、監視者は中央の1ヵ所から効率よく全体を監視できるというものだ。中心にある監視室と収容施設の間をマジックミラーにしてしまえば、収容者は、監視室に本当に監視者がいるのか、実際に監視されているのかという確認ができないために、ある意味では不在の存在に常に見張られ続けるという心理状態に陥る。パノプティコンとは、まさに人間の心理効果を使った効率的な監視システムである。

 俊徳の場合、彼は盲目なので見ることはできない。だが逆説的に、物理的に見ることができないという状況をして、親たちはそれがゆえに常に(見えないはずの)内面を見透かされているという、より強力なパノプティコンの収容者となっているのである。

 この俊徳における視覚の逆転は、次の台詞からもうかがえる。背広姿の俊徳は「紳士らしい」装いをしているが、自身にはもちろん見えない。そこで俊徳は「しかしね、桜間さん、僕にはそんな見かけはどうでもいいんですよ。僕にわかるのはこの首をしめる感覚と、汗だらけのぴったりした下着の感覚しかないんだから。僕には絹の首枷と、木綿の狭窄衣がはめられている。そうでしょう? 僕は裸の囚人ですね」。この「僕は裸の囚人ですね」という言葉に対して、川島夫妻はすぐに反応し、同意するが、高安夫人は「あたなの着ているのは立派な背広よ」と俊徳の言い分を否定する。しかし、川島夫妻への対抗心と俊徳に親として承認されたいという欲求から、慌てて高安夫妻も「裸の囚人」ということに同意を示すのである。

 アンデルセン童話の『裸の王様』は、自分は愚か者ではないと思いたいがために、愚か者には見えない服という嘘に騙され、その服を着て(だから実際には裸で)町に出た王様と、王様と同様に見えていない服を見えているという家臣や市民の中で、子どもが「王様は裸だ」と叫ぶ、という話である。これは見えるはずのものが見えていないという、視覚に対する疑義だが、俊徳の場合は、見えていないという絶対的な非‐視覚性をもって親に視覚性の同調を求めるのである。

 俊徳の非‐視覚性は、触覚性さえも否定する――「僕の中心から光りが四方に放射している。それが見えますか?」と尋ねる俊徳に、両夫妻は「見えますとも。」と同意する。俊徳は「よろしい。あなた方の目がついているのはひとえにこのためです。」と、「僕が見ろと要求したものを見るように義務づけられているんです。」と言う。だが、この俊徳が親たちに「見ろ」と要求するものは、現実にその場で目に映るであろうものではなく、俊徳のイメージの風景だ。つまり俊徳は親たちの視覚を否定することで、親たちから、自分には見えない実存する〈風景〉を奪い、自分の認識世界に引きずり込むのである。「ああ、僕には形というものがない。こうして体を撫でまわしてみても、顔を撫でまわしてみても、どこもただの凸凹なんだもの。これが僕の形でなんかありはしない」。そして、「でも僕には形はないけど、僕は光りなんだ。」と、自分の外部の風景を完全に否認し、さらに自分自身の実在的存在も否認し、自身を現象と化していく。

 さらに俊徳は自分が「もう星になっているかもしれない」と続け、親たちは全員で「星ですとも、お前は」と承認する。この親たちの俊徳への承認は、結局のところ、俊徳の実在的存在の否定に加担しているのではないだろうか? 光の三原色が混ざると色のない光となり、色の三原色が混ざると無彩色の黒となるように、親たちの承認こそが、俊徳から〈色〉――風景を奪っているのではないだろうか。盲目であるがゆえに外部が見えない俊徳には、新たな風景の可能性はないのだろうか?

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1. 本作は、SCOTの鈴木忠志(富山県南砺市)、平田オリザ(兵庫県豊岡市)、鳥の劇場の中島諒人(鳥取県鳥取市)、そしてSPAC-静岡舞台芸術センタ―の宮城聰(静岡県静岡市)が、それぞれの拠点で次世代の演劇人と共同で作品を創造する「桃太郎の会」プロジェクトの作品の一つ。本作はSPACでの上演に先立ち、富山県利賀芸術公園・創造交流館(2022年9月9~10日)にて上演。
2. 台詞はすべて、三島由紀夫『近代能楽集』(新潮文庫、昭和43年3月)による。