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■眺望の共有可能性と視覚の孤絶性

 野矢茂樹は『心という難問――空間・身体・意味――』1)野矢茂樹『心という難問 空間・身体・意味』(講談社、2016年5月)の中で、逆転スペクトラムの懐疑について論じている。本書の中で野矢は、素朴実在論の立場を取る。それは「風景」は近代以降の発明であるという言説に代表される、身体外部の世界は、知覚認識によって成立するという近代的概念に対する疑義である。「思弁的実在論」をはじめ、近年「私」を中心としたデカルト的二元論ではなく、他者やモノとの関係性から世界を捉え直す思想的潮流があるが、この『弱法師』が表すのも新たな実在論ではないか。

 さて野矢によれば、風景と対峙するとき、世界は無視点的(たとえば地図)だけではなく、有視点的にも把握されるという。

おおざっぱに言えば、視覚における視点とは、そこから見ればその風景が見える、その位置にほかならない。だが、位置だけではなく方向も考慮すべきだろう。同じ位置に立っていても、向いている方向が違えば異なる風景が見える。すなわち、その風景が見えるような位置および方向、これが視覚における視点にほかならない。(『心という難問』79頁)

 さらに野矢は、身体の他の知覚器官――聴覚・臭覚・触覚・味覚――での、この視覚における視点に対応するもの――触覚の場合には、皮膚が何と接触しているかが「視点」に対応しているという――を確認し、これら知覚様態を含む「視点」、すなわち有視点的(知覚的)な世界のあり方を「眺望」と呼ぶ。さらに、「視覚」における「視点」に対応するものを、「眺望点」を呼ぶ。つまり、具体的なある地点に立って、ある方向を向き、ある対象に触れることである。

 ここにあるのは、無視点的は客観的で、有視点的は主観的とみなすことへの疑念である。

「教室の窓からスカイツリーが見えるということを、どうして「主観的」と言わねばならないのか。私たちの日常的な実感に従うならば、その窓からスカイツリーが見えるということは、世界のあり方についての客観的なことがらではないだろうか。」(『心という難問』77頁)

「眺望とは、私の経験のあり方ではなく、有視点的に把握された世界のありあり方にほかならない。」(『心という難問』84頁)

 野矢の議論を参照すると、主観/客観というに二元論において、これまでは「風景」とは、それを見ている私自身の知覚的認識により「主観的」だとされてきた。しかしそうであるなら、私(身体)と世界(外部)の間には距離がない。そしてこれはまさしく俊徳の心性であろう。ところが風景には、その見られる対象Aと見ている眺望点Bとの間に必ず距離が生じる。ここでこの視覚距離に焦点を当てれば、逆転スペクトラムの懐疑からは免れることができるのである。すなわち逆転スペクトラムの懐疑は、私と他者においてAが同一であるかということ、言い換えるなら風景の共有に対する懐疑である。しかし眺望点Bという同じ地点に立ちAを眺めるという行為そのものの、この距離的な体験自体は疑われるものではない。つまり風景の認識の共有の可能性に関わらず、眺望点の共有は可能性に開かれているのだ2)『心という難問』の中で、知覚的眺望(空間)、感覚的眺望(身体)、さらには眺望論に意味の要素を加えた相貌論により、野矢は逆転スペクトラムの懐疑をはじめ、知覚因果論に落ち込むことのない存在論を展開し、それを他我の問題へと発展させている。本論で参照させていただいたのは、そのごく一部に過ぎない。

 ここで俊徳が圧倒的に「強者」になりえるのは、彼が最後に見た戦火の風景が瞼から離れないという、絶対的な視覚の孤絶性においてである。俊徳と二人になった級子が、そこから見える夕焼けについて語ると、それを受け俊徳は、「僕にも見えますよ。」「見えるんですよ、あの真赤な空が。」と語り始める。しかしそれは実際に夕焼けが見えていたのではなく、盲目になる前の俊徳が見た戦火の光景だ。俊徳は夕焼けの赤さと、戦火の赤さを重ねて、「あなたは入日と思っているんでしょう。夕映えだと思っているんでしょう。ちがいますよ。あれはね、この世のおわりの景色なんです。」「この世のおわりを見たね。ね、見ただろう、桜間さん」と、親たち同様に級子にも、実存する風景を否認し、自分が見たい風景――戦火の風景への同意を求める。ところが級子は「いいえ、見ないわ。」と俊徳の景色を否認する。「君は僕から奪おうとしているんだね。この世の終わりの景色を。」と俊徳は抵抗するが、級子は折れることなく、最後にはお腹が空いたと言う俊徳に食べる物を取りにいくために部屋を出て、この物語――1度目の物語は終わる。

 

■「1」と「1′」

 盲目の俊徳は新しい視点を持ちえないかもしれない。が、しかし戦火の風景の時点では、俊徳もその眺望点を持っていたはずだ。そして本作の演出の独自性は、この俊徳の眺望点を級子と共有可能にした点である。そのためにこの物語を繰り返す必要があったのではないか。

 2度目の『弱法師』では、脚立の上にいた俊徳(山本)は黒いノースリーブ姿になり、脚立の上に座ったままで級子役に入れ替わる。そして食べる物を取りに一度はけた級子(八木)は俊徳となって戻って来る。今度の俊徳は半ズボンの坊ちゃん風な背広を着て、落ち着きなく舞台上を動きまくる。2度目は、一部台詞もカットされ、親たちの動きも1度目とは異なるが、まったく演出を変えたとは言い難く、それは言うなれば「1」と「1′」の違いである。確かに俊徳と級子は役柄をスイッチし、造形は異なっているが、その一方で両者ともに元の役柄の性質と視点が共通していることに注目したい。

 運動性を見れば、1度目の俊徳は「静」で、1度目の級子は「動」であった。その性質はそのまま脚立の上にいる2度目の級子と多動的な2度目の俊徳に引き継がれている。同様に、1度目の俊徳と2度目の級子は、どちらも脚立にまたがっているため、同じ視点を共有している。1度目の級子と2度目の俊徳についても同様だ。

 このことにより俊徳の盲目がゆえの絶対的な風景の孤絶性が揺らぐのである。盲目になってしまった彼には新たな「眺望点」がないために、距離のない自身の心象風景にとどまっている。しかし、そこに級子を重ね(可視か不可視かはさておき)同じ視点を獲得することは、新たな眺望点獲得の試みともなろう。言い換えれば、風景そのものを同一化することができなくても、知覚主観論を完全に退けることはできなくても、ここにおいて、一つの風景を多として共感することへの可能性が開かれたのである。

 この繰り返しにより、観客自身も同じ物語において、同じ視点でありながら、別の眺望点を得るのだ。この登場人物、そして観客に二つの「眺望点」を与えたこと――石神は『弱法師』の中心にある視覚の問題から、眺望点――つまり主客の二項対立にとどまらない世界のあり方を示したのである。そしてこの作品が教えてくれたのは、そもそも演劇は、舞台という装置において、また、その他者性において、もともと風景とともにあったということである。

 

■風景を共有するということ

 風景は常に孤絶している。しかし同時に風景は常に一にして多であるのだ。私の見た夕焼けの赤さそのものは常に一である。同じ距離から他の誰かが見た同じ風景は、同一かどうかはわからないが、その見ている距離を共有することはできる。ここに至り、俊徳が抱え続けた「この世のおわりの景色」を誰かと共有する可能性が初めて生まれるのではないだろうか。俊徳が夕焼けの光景を戦火の炎にすり替えようとしたように、戦火を夕焼けにすることはできない。それでも俊徳と級子の視点の共有――級子の「いいえ、見ないわ。」こそが、俊徳の孤絶した景色に同調せず、俊徳と同じ眺望点に立つことで、戦火と夕焼けの風景が出会うかもしれない風景の共有の可能性に開く、共感の言葉である。そのとき、常に人間は孤独であるが、孤独を重ねることができるのだろう。最後に級子と俊徳が手をつないで、夕景へと立ち去っていく、そのつなぐ手の距離は同一なのだから。

   [ + ]

1. 野矢茂樹『心という難問 空間・身体・意味』(講談社、2016年5月)
2. 『心という難問』の中で、知覚的眺望(空間)、感覚的眺望(身体)、さらには眺望論に意味の要素を加えた相貌論により、野矢は逆転スペクトラムの懐疑をはじめ、知覚因果論に落ち込むことのない存在論を展開し、それを他我の問題へと発展させている。本論で参照させていただいたのは、そのごく一部に過ぎない。