報告①/BeSeToシンポジウム「演劇におけるポストヒューマン的転回」
Ⅱ.中国戯劇の反応:伝統文化の遺伝子に秘められた未来の戯劇を活性化させるコード
表面的には、中国の伝統戯曲(京劇、昆劇及び地方劇等)が、ポストヒューマニズム思想から遠く離れているように見えるかもしれないが、そこには一定の共鳴と対照が存在している。例えば、伝統的な中国哲学における「人間と自然の調和」という概念と、戯曲芸術における「仮想的」「フリーハンド」「様式化」された表現は、ある程度、ポストヒューマニズムにおける主体の「ハイブリッド」かつ「ダイナミック」な生成という概念を反映する。ポストヒューマニズムがもたらす変革に直面し、中国戯曲は、技術のトレンドを受身的に追随するのではなく、ポストヒューマニズム思想と共鳴する、自らの伝統における「関係性の知恵」の活性化を積極的に図り、独自の言語体系を構築していくべきである。
1.「人間と自然の調和」という哲学的基盤に基づく主体関係の再構築
東洋と西洋の哲学概念は根本的に異なる。ポストヒューマニズムの核心的な批判の矢は、伝統的な西洋哲学の人間中心主義に向けている。デカルトの「我思う、故に我あり」によって「理性的主体」の中心性が確立されて以来、西洋哲学は長らく「人間」を「理性を備えた独立した存在」として定義している。この概念に基づき、「主体(人間)」と「客体(自然、他者)」を区別し、「征服者と被征服者」という二元対立を生み出した。一方、伝統的な中国哲学は、常に「関係性」を基盤とし、自然と人間の一体性を強調する。ここでの「天」は、物理的な空ではなく、宇宙の秩序、倫理法則、そして生命の本質を包含する全体論的な体系を指し、人間はこの体系における不可欠な一部であり、独立した観察者や支配者ではないと唱える。
儒教、仏教、道教は中国伝統文化の重要な構成要素であり、これら三つの要素の融合は、その中国伝統文化の発展と成熟を示す重要なシンボルである。儒教は「天地の養育を称える」(『中庸』)ことを強調し、人間は道徳実践(仁と礼)を通して天地の秩序と共鳴することを説く。道教は「天地は我と共生しており、万物は我と融合する」(『荘子』)と唱え、自然に対する人間の優位性を否定し、「道との一体化」によって得られる自由の境地を追求する。中国式の仏教では、「天」と「人」は共に因縁の調和から生まれ、本質的に「自然は空虚で幻想的」であると信じる。「色即是空、空即是色」(『天経』)という一節は、人間と万物との間の「差異」が幻想的な現象であることを説く。このように、儒教、仏教、道教はそれぞれ異なるアプローチで「天人合一」を解釈するが、その目標は共通している。すなわち、三者とも、「人間」と「自然」の絶対的な対立を否定し、「人間」を宇宙全体の不可欠な一部と見なす。この「全体論的智慧」は、中国哲学における「存在の関係」に対する深遠な洞察を体現している。
また、伝統的な中国文化において、「人間」は孤立した不変の主体とはみなされておらず、その姿は変化をし、流動的でもある。人間、幽霊、神、そして悪魔は互いに変化し合える。『西遊記』における人間、悪魔、神、そして怪物の交互の出現や、『中国奇譚』における人間と幽霊との恋、そして人間と幽霊との絆などが描かれている。仏教の六道輪廻の概念は、死後、人間が他の種に生まれ変わる可能性を示唆する。これは、ポストヒューマニズムの「主体の動的な生成」という概念と共鳴する。ポストヒューマニズムは、人間、動物、無生命物体の間に存在する境界を破壊し、主体の生成を、現代のデジタルメディアと人間の思考の相互形成と共進化によく似た、動的で継続的なプロセスと見なす。
2.「形式化規範」と「即興の自由」の共生空間の構築
昆曲を例に挙げよう。「百劇の師匠」として知られる昆曲は、600年以上の歴史を誇る。その骨太が形式化され、芸術的創造を魂とし、厳格な表現体系の中において、無限的な意味の生成を図る。この「制約下の自由」と「束縛された舞」は、まさに「多元的な存在者の協商による共生」というポストヒューマニズムの芸術的な表現となると言えよう。

昆曲の「形式化」は、高度に凝縮された象徴体系と言える。「生、旦、浄、丑」の役割は社会倫理的な役割に対応し、「唱、念、做、打」といった技の技術的規範は、まさに伝統文化の集合的記憶を担っている。ただし、その形式性は、決して硬い束縛ではなく、むしろ特定の登場人物と筋書きを統合し、意味を生成するための「足場」となる。役者のあらゆる動きが、「形式化」と「現在の瞬間」の間を行き来する。戯曲の形式化は文化的記憶の伝承を確実なものにし、即興の表現は伝統と現代の対話を織り出す。
昆曲の「フリーハンド」な美学もまた注目に値する。舞台には写実的な背景がなく、テーブル一つと椅子2脚で山水亭郭が表現できる。役者の形式化された動き(鞭を打つ動作は馬に、櫂を漕ぐ動作は船に乗る)は、物理的な時空の制約を超越する。『牡丹亭』における杜麗娘の「夢の中での死」と「死からの復活」という幻想的な筋書きは、現実世界の論理に反しているように見えるが、実際には「感情」と「道教」の共生関係を体現している。人間の感情と宇宙の終わりなき循環が舞台の上で共振するのである。

3.「観客とパフォーマンスの共生」という伝統による戯劇のエコシステムの最適化
昆曲の「芸術的構想」は、「関係性の生成」という知恵を強調している。主にプロットの対立を通して物語を展開する西洋の伝統戯劇とは異なり、昆曲は感情と風景の相互作用を通して意味の場を構築する。「園夢」の歌詞――「かつては多くの花が咲き誇ったが、今ではすべてが荒れ果てた井戸と崩れかけた壁だけになっている」――は、杜麗娘が風景を客観的に唱えただけではなく、彼女の心境が、春、生命、そして凋落とともに、意味の網脈を織りなしている。観客はただ受動的に物語を受け入れるのではなく、自身の人生経験を通して芸術的構想に参加し、命のはかなさを感じ取ったり、または、理想と現実の狭間の存在を、多元的な解釈が共生的に相互作用する。

昆曲の舞台において、「人間」は常に多重的な存在を繋ぐ媒介となる。役者は「唱念做打」といったボディランゲージを通して、形式的なプログラミングシンボルを活性化させる。そして、プログラミングシンボルが文化的記憶を通して伝統と繋がり、伝統が観客の解釈を通して現在へと統合される。この「役者-プログラミングシンボル-観客-伝統」という共生的なネットワークは、主体と客体、過去と現在の二元的な対立を打ち破り、意味のダイナミックなエコシステムを形成し、プログラミングシンボルと感情の融合によって時空の存在を超えた共振を実現させる。
結論
ポストヒューマンの視点から見れば、東洋と西洋の戯劇の発展における相違は、決して文明の衝突の証拠ではなく、むしろ人類が存在の意味を探求する中で歩んできた異なる道のりを鮮やかに体現していると言えよう。戯劇の真の価値は、主題の境界や技術的介入とは関係なく、地域文化と人生経験を通して育んだ独自の個性にある。戯劇が真の「生命共同体の鏡像」となる時、それが芸術そのものを超越し、人類と非人類の調和的な共存を促す精神力となるのである。
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