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6.遺墨の存在について

 杉本氏が原作を発表するきっかけとなった、板垣征四郎が遺したという漢詩のコピーについても、その由来が気になった。

 佐久協著『将軍たちの遺墨 封印された敗者の遺書』(毎日ワンズ,2003年)には、東京裁判で起訴されたA級戦犯27名(裁判途中で病死した松岡洋右を除く)が収監中に記した遺墨のコピーが、佐久氏による書き下し文、出典、現代語訳、注釈と合わせて公刊されている。27名全員が数行の短い遺墨をのこしているなかで、板垣征四郎だけは別に自序と題した長文の漢詩を書いているのも杉本氏が『影老日記』で指摘している通りである。

 『将軍たちの遺墨』によると、佐久氏は知人を介してコピーを入手したとのことであるが、コピーの出所を追及することは、すでに不可能になってしまったという。そこで佐久氏は、コピーの出所と現物の所在および成立過程を知りたいとの思いから、墨書のコピーの出版にこぎつけた。佐久氏は、由来のわからない遺墨は、真贋の不確定という問題を抱えているばかりか、政治的に利用される危険性もある、と同書で指摘している。

 本公演が始まる直前に杉本氏が行った解説の中で、杉本氏は『影老日記』の記述通りに、コピーの由来を語った。板垣征四郎の遺墨が与えた衝撃の大きさにアーティストとして応じた氏の態度は、納得がいくとはいえ、作品が生まれる根底に出自の不確かな文書があることも事実であろう。

 A級戦犯の遺墨のコピーなるものが存在し、特定の人々の手に渡っている。いわくありげな怪文書という見方もありえよう。戦後80年の節目に当たる本年は、日本人ファーストを掲げた政治勢力が広範囲な支持を集めた年でもある。不確かさが払拭されるためにも、遺墨の所在が明らかになり、あらためて鎮魂の一環となることを願う。

 

7.最後に

 こうして戸惑いを覚えながらも、私は上演を堪能した。地謡の「(……)大満洲を建国す」に対して、後シテは「されば王道楽土とて」と応じ、槍を手に足を踏み鳴らして舞い始める。すると、地謡は「一朝にして暗雲霽れ。声明にして恩讐無し。五族皆協和し。鼓腹して楽土を謳う。されども悟らぬ者ども愚かなる矛を打ち鳴らし。火花を散らすその地こそ。悲しむべし蘆溝橋」とたたみかける。

 大胆に槍を振り、足を踏み鳴らして舞う板垣の霊。しかし、日本列島全土が米軍の爆撃機に空襲され、広島、長崎も一閃に消え去り、敗戦、虜囚となる。膝をついて落胆する後シテに向けて、地謡は、巣鴨塚に失せる末路を静かに謡った。後シテの、扇と刀を使い分けての舞姿が心に残った。

 トラッシュマスターズ『廃墟』『そぞろの民』と杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』。それぞれの公演で印象深かったのは、敗戦により否定された戦前の生から真理を救い出そうと苦悶した『廃墟』の欣一郎、協調性には長けているが自ら考える主体性と勇気を欠いた大衆を生み出したにすぎない、と戦後民主主義を批判した『そぞろの民』の孝太郎、そして、現在では同意することが難しい中国観を開陳した『巣鴨塚 ハルの便り』の板垣征四郎の霊であった。国内外の状況が変化し、戦後の枠を超えた立ち振る舞いが求められる今、これらの人物や仮象の意味を考え続けたい。


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