戦後80年の夏をふりかえる②――杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』/新野守広
4.板垣征四郎の中国観
上演は素晴らしいものだった。声、動き、リズム、言葉と所作の連関、空間の配置など舞台パフォーマンスとしてよく考えられており、質が高く、審美的にも優れていると感じた。
一方、素晴らしい上演であったがために、板垣の言葉にじかに触れるような感覚があったことから、観劇中、板垣の考え方をめぐって考え続けることになった。以下、私の抱いた違和感を3点に整理して記したい。
まず気になったのは、板垣征四郎の漢詩に表れている中国観である。板垣は漢詩で次のように満州国を振り返っている。
(……)/*回看満蒙域 地荒鬼啾々/*作霖氣既慢 学良貪且梟/*生民有菜色 仁人百年愁/*排外及皇土 東亜深患憂/任重関東軍 刻勵帷幄謀/地哭天終怒 轟然柳條溝/貔貅一萬兵 自衛好遠猷/志士競興起 建国大満洲/一朝暗雲霽 清明無恩讐/五族皆協和 鼓腹楽土謳/中華猶不覚 可悲蘆溝橋/愁雲蔽天黑 友交恨迢々/(……)
(当日配布プログラムより)
*印の詩行はワキが巻物を詠む中入りでは読まれなかったが、後半のクセでは、地謡の章句に翻案され、力強く謡われた。
海征かば。水漬く屍山征かば。草むす屍を晒さんも。武士の本懐なり。思い出ず満蒙の。地は荒れ鬼哭啾々たり。奢りたる作霖。貪欲なる張学良に。民は。苦しみ仁人は。百年を愁ふのみ。地は哭き天の叫ぶ声。轟然たり柳條溝。貔貅たり一萬の兵。志士競って興起し。時も移さず彼の地に。大満洲を建国す。(同上)
板垣の漢詩に「作霖氣既慢 学良貪且梟/生民有菜色 仁人百年愁/排外及皇土 東亜深患憂」(張作霖は慢心し張学良は欲が深く猛々しい/民には生気なく心ある人は将来を愁えている/排外の機運は皇土にも及び東亜の行く末を心配する)とあり、謡本に「奢りたる作霖。貪欲なる張学良に。民は。苦しみ仁人は。百年を愁ふのみ」とあるように、当時の中国東北部に住む人々は、無政府状態にかこつけて私欲をむさぼる張作霖、張学良ら軍閥に苦しんでいたのだろうか。
二つの見方がある。福井雄三著『板垣征四郎と石原莞爾 東亜の平和を望みつづけて』( PHP研究所,2009年)によれば、「(……)当時のシナ大陸では、北京の共和国政府は単なる一地方政権にすぎない存在に転落してしまっており、各地に軍閥や地方政権が分裂割拠していた。辛亥革命後の共和国政府などというものは何の実体もない名ばかりで、シナは統一国家ではなく、分裂国家の状態だったのである」(51頁)。すなわち、「当時のシナは軍閥の群雄割拠する内乱状態であり、主権の所在も明らかでなく、条約の遂行能力もなく、国際舞台でまともに行動できるような主権国家ではない」(53頁)という。
一方、山室信一著『キメラ--満洲国の肖像』(中公新書,1993年)によれば、当時、中国東北部の主権は中国にあった。日清戦争以後の日本の大陸政策は中国の人々のナショナリズムを刺激し、五・四運動以後、排日運動が高まりをみせ、とくに中国東北部では日本の関東軍による張作霖爆殺(1928年)を契機に、国権回収運動が勢いを増していたという。父を殺害された張学良は蒋介石の国民政府に合流し、1931年3月には東北国民党党部が成立して、「必ずしも一枚岩化していなかったとはいえ、ひとまず国家統合という課題は達成を見ることとなった」(同書23頁)。中国東北部は軍閥や地方政権が分裂割拠する状態から、不完全とはいえ、蒋介石の統治下に移行していたというのである。
両者は対照的であるが、中国側の視点が入っている後者の方が腑に落ちる。
山室によれば、袁世凱政府が締結した「南満州および東部内蒙古に関する条約」(1915年)で承認された日本人の土地商租権に対抗して、国民政府や吉林省政府などから60にもおよぶ法令が公布/発令され、日本人との対立を生んでいたという。日本側はこれを条約違反と受け止めたが、中国側から見れば、日本との間で締結した不平等条約を改定するために起こした行動であったと言えよう。当時中国では、袁世凱政府が対華21カ条要求の最後通牒を受諾した5月9日は国恥記念日とされ、「国恥歌」に歌われていた(同書24頁)。中国側のナショナリズムの高まりを目の当たりにして、「現地居留日本人の危機感はつのり、窮状を打破するには武力による解決もやむなしとの機運が陸軍ことに関東軍をおおっていった」(同書25頁)という。
板垣征四郎は1929年に関東軍高級参謀に就任し、1931年9月18日に満州事変の発端である柳条湖事件に深く関与したことが知られている。では、謀略事件を引き起こした板垣は、中国の人々を理解しない冷酷非道な軍人であったかというと、そうではない。関口高史著『板垣征四郎の満州事変』を読むと、国民党の力が弱く、各地に軍閥が割拠していた時代に、中国各地に単身で調査を行った板垣は、大いなる共感をもって大陸の人々と交流したことがわかる。
しかし、近代化以前の中国の民衆の姿に触れた板垣は、中国は「近代的国家とは趣きを異にするものである。畢竟、このような自治部落を包含する地域に国家という名称をつけたに過ぎない」と判断し、中国東北部に大量の日本人を移民させ、「先進の文化」を応用して重工業を発展させるところに近代日本の使命があると信じて疑わなかった(引用は板垣征四郎「満蒙問題について」。『板垣征四郎の満州事変』所収)。
こうした板垣の中国観は、中国側から見れば、到底受け入れられるものではあるまい。満州国の主要な官僚はすべて日本人であり、日本人は特権的な生活を営んだ。五族協和の理念とは裏腹に、現地の人々は日本からの移民に土地や家屋を供出しなければならなかった。板垣は、日本人の特権意識を戒めていたが、現実の満州国が日本の傀儡国家であることは明らかだった。
(……)長い歳月をかけて耕した土地や爪に火をとぼすようにして蓄えた財産を容赦なく奪われ、塗炭の苦しみを強いられた人々にとって、いかにその国家(注:満州国のこと)の理念が美しく高邁な言葉をもって語られようと、自らの生命と生活を脅かすという、まさにその一点において国家としての正当性なぞ、とうてい容認できなかったはずである。(山室信一著『キメラ--満洲国の肖像』8頁)
板垣は「五族皆協和 鼓腹楽土謳/中華猶不覚 可悲蘆溝橋(五族はみな協和し平和な楽土を喜んだ/中国はそれが解らず盧溝橋の悲しい事件が起きた)」と詠んでいるが、「中華猶不覚(中国はそれが解らず)」とは、日本に近代国家の国造りを任せざるを得なかった中国人々の心情を理解しない言葉ではないだろうか。
近代化において先行した日本の助けがあってはじめて中国も近代化を遂げることができるとする板垣の中国観は、日本を愛し、誇りに思うナショナリズムのあらわれであろう。同じ愛国の心情は、中国の人々にもある。しかし板垣は、中国側の愛国心の発露を排日運動と断定し、「排外及皇土 東亜深患憂(排外の機運は皇土にも及び 東亜の行く末を心配する)」と振り返るのである。
こうした板垣の中国観に、私は違和感を覚えた。
5.唐土方の僧
もう1点、違和感を抱いた箇所について述べたい。
それはワキ(唐土方の僧)である。杉本氏の原作にも「唐土からの旅の僧」として登場するワキの存在には戸惑った。この僧は板垣の漢詩を朗々と書き下し文で詠むのであるが、漢詩を訓読する技巧は日本文化特有のものである。中国語を母語としていることと、漢詩を訓読できることとは別の事柄であろう。

さらに戸惑いを覚えたのは、巻物が板垣の書であることを知ったワキとアイ(この辺りの者)との問答である。
アイ (……)さあらば板垣も御僧と同じ東亜の人なれば、夜もすがら此の塚の邉りにて彼の御跡を懇ろに御弔いあれかしと存じ候
ワキ 仰せの如く唐土も日の本も。同じ東亜の国なれば。彼此愛憎の心有る有る事なし。報怨以徳の心を以て。有難き御経を読誦し。彼御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。(……)
「同じ東亜の人/国」は、杉本氏の原作にも記されている板垣の辞世の句「懐かしき 唐国人よ 今もなほ 東亜のほかに 東亜あるべき」を踏まえていると思う。また「報怨以徳」は、日本人に慈愛を以て接するように中国の同胞に呼びかけた、1945年8月の蒋介石のラジオ演説を思わせる。こうして舞台では、中国から来た僧であるワキが、「報怨以徳」の額面通りに板垣征四郎の霊を弔い、南無妙法蓮華経と唱えるのであるが、国土を蹂躙され、何百万もの人々が肉親や親族を失った国から来た僧にしては、あまりに板垣に寄り添う姿勢に終始してはいないだろうか。苦しみを語る霊(後シテ)が仏僧(ワキ)の読経によって救われるという、修羅能によくみられる構成を踏まえての作劇とはいえ、やはり違和感が残った。




