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《不在の母》の「居グセ」

 今回のYouTube配信の解説にはこうある。

原作には出てこない「タイタスの妻」が、できごとを回想する形で舞台は進行する。彼女のつぶやきや、しぐさの中から登場人物たちが亡霊として現れてくる。『タイタス・アンドロニカス』とは「テロリスト誕生の物語」なのである。

タイタスの妻(水寄真弓)という設定の語り手の老婆の挿入は、演出はかなり違うとはいえ、山の手事情社『タイタス』初演にあたる1999年の『印象タイタス・アンドロニカス』からある挿入だと、演出の安田氏は語る。テロリストの誕生というテーマを意識したのも99年からだったのかという点を含め、安田氏に問い合わせてみると、こういう返答をいただいた。

明確に意識したのはやはり01年の「9.11」以降だと考えられます。ただ「タイタスの妻」のセリフはハイナー・ミュラーの『解剖・タイタス』からインスピレーションを受けたものなので、99年当時もハイナー・ミュラーの『闘いなき戦い』(未来社、1993年)を読んで、テロリストとユートピアの関係について考えていたと思います。

安田氏の興味を引いたミュラーの言葉は「テロリズムこそは、現代においてユートピアを占拠している唯一の教団なのである」というものであったことが、2010年の公演プログラムに寄せられた氏の文章からわかる。氏はハイナー・ミュラー関係者とも話をしたそうで、これらの対話を通して今回配信された2010年の映像を撮った段階ではテーマに関する確信が深まっていたことが察せられる。
 『タイタス・アンドロニカス』は、『リア王』と同様、残酷無惨の通奏低音として母の不在を常に響かせている作品なのだが、山の手事情社の『タイタス』では、不在であるはずの母が、和服の喪服に身を包み、舞台上に鎮座して、時に語り手として介入しながら、無表情に茶を飲んだり新聞を読んだりしている。冒頭部の読経といい、「仏壇マクベス」と呼ばれた『NINAGAWAマクベス』(蜷川幸雄=演出、初演1980年)にも通じる演出だ。「仏壇マクベス」では老婆が二人、舞台の両端で歌舞伎かテレビでも観るように鎮座していた。山の手の『タイタス』における語り手を務める不在の母は、舞台上で常に四角く区切られた四畳半のダウンライトの中に無表情に鎮座している。喪服の彼女はすでに死者なのだろうか。一家に訪れる惨劇を、あたかも傍観者のように追憶することで、彼女はあの世で喪に服しているのだろうか。

山の手事情社『タイタス・アンドロニカス』 2010年の舞台より 撮影=平松俊之

 能では、シテが自分にまつわる物語を座ったまま聞いている時に示す微妙な仕草を居グセとよぶ。舞台上の不在の母が見せているのも、それである。彼女は基本的に、自分で物語を語り、それ以外の場面では呆れたという感情が若干交じった傍観者の顔で、茶を飲んだり、新聞を読んだり、洗濯物をたたんだりしている。そんな母も、娘ラヴィニアが陵辱されたあげく、舌をもがれ、手を切り落とされる場面では、たたんでいる洗濯物を両眼にあてる。娘の身体切断が終わると、再び母は洗濯物をたたみ出す。生まれたばかりの不義の混血児を連れてきたタモーラの侍女がアーロン(山本芳郎)に殺害される場面では、シーツをたたむ手を止めてフリーズする。
 アンドロニカス家をゴート族一派の陰謀が次々に襲う結果が次々にあらわになるところで、彼女は息子の生首が入った冷蔵庫を開ける。その時だけ、母は、純粋な語り手の枠をこえ、原典にはない台詞で登場人物に対して話しかける。

タイタス・アンドロニカス。皇帝にはもうその手は必要ないのだ。あなたが求め、あなたがひた走ってきた栄光が、この結果を招いたのだ。謹んで受け取るがよい。

この舞台を作っていたときには、それはタイタスの愚直なまでの高潔イデオロギーへの拘泥を戒める文句だったのだろう。現在ではそれが、愚帝を据えるのに手を貸したこと自体への戒めに見える。不在の母の、呆れたような表情を浮かべた傍観者ぶりが、政情に厭いた有権者気分と重なってくる。
 最後、タイタスがゴート族のタモーラに対する復讐を果たす場面では、彼女の息子達の肉で作ったパイをレンジでチンしてみせるのも、この不在の母だ。すべての復讐が終わったあと、アンドロニカスの息子で唯一生き残ったリューシアスが皇帝となる。すると母は、やはり原作にはない言葉でこう語る。

無責任な声が巻き起こる。リューシアス万歳。ローマ皇帝万歳。

安田の演出が、ローマの民の罪を問うているのは明かである。狂信への問いかけは、結局有権者一人一人に跳ね返ってこなければならないのである。