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▼文学座アトリエの会公演『歳月/動員挿話』

作=岸田國士
演出=『歳月』:西本由香、『動員挿話』:所奏
2020年3月17日~29日(28、29日公演中止)@文学座アトリエ

出席者=嶋田直哉(司会:シアターアーツ編集長)/新野守広(国際演劇評論家協会日本センター会員)/小田幸子(国際演劇評論家協会日本センター事務局長)/野田学(シアターアーツ編集部)(発言順)

■『歳月』に流れる時間――時代の変化と八洲子の描き方

嶋田 文学座アトリエの会公演『歳月/動員挿話』(2020年3月17日~29日)について話し合っていきたいと思います。この公演は文学座アトリエ創立70周年企画の一つとして、3月に行われたものです。岸田國士の作品『歳月』は1935年4月「改造」の発表です。『動員挿話』は1927年9月「演劇芸術」の発表で、今回の公演は、この二本立てでした。
 『歳月』の演出は西本由香さんです。西本さんは2018年12月に文学座アトリエの会公演『ジョー・エッグ』で演出を担当しています。家族や夫婦のわかり合えない様子を、冷たさを感じさせる抽象的な舞台装置で表現していました。この舞台が西本さんにとって、文学座初演出でした。
 今回の『歳月』は、調度品を最小限に抑えた非常にシンプルな舞台装置が特長です。全3幕で、最初に浜野家の八洲子(やすこ)(前東美菜子)の妊娠が判明する場面から始まります。父親の浜野計蔵(中村彰男)、その妻(=母親)駒江(名越志保)、長男計一(神野崇)、次男紳二(越塚学)、長女八洲子、八洲子の娘みどり(磯田美絵)、そしてこの家族の他に、八洲子の友人である礼子(吉野実紗)、女中(音道あいり)が登場します。第2幕でみどりはすでに成長しており、礼子はのちに紳二と結婚しています。このように2幕、3幕と次第に時代、時間が移っていくに伴って、この家族の在り方や、各人の関係性がわかってくるという構成になっています。まずは『歳月』の印象からはじめて、その後、『動員挿話』との比較をしてみたいと思います。

『歳月』…左から前東美菜子、磯田美絵、神野 崇 撮影=宮川舞子

新野 『歳月』は戦前の日本で知事を務めた計蔵とその子供たち、孫の3代にわたる話ですね。大日本帝国の権力中枢を支えた高級官僚の一家の社会的な位置が大正から昭和にかけて変わる様子が描かれます。家庭内の人間関係も変化する。なるほど作品のテーマは「歳月」です。大正から昭和初期の経年変化が丹念に演出され、演技を通して表現されていました。ただ僕は見ていて、戦後75年も経った今の生活感覚でこの戦前の家族を表現できるのだろうかと考えてしまいました。当時は階級社会であり、明治の権力を支えた計蔵の家族はその頂点に立っていました。つまり舞台の背後に圧倒的多数の人々がいた。登場人物たちは、圧倒的多数の人々が背後に存在することを知っていて、その上に生活することを当然と思って暮らしています。長男計一、次男紳二、長女八洲子のエピソードにも、階級社会の上位に生まれた者の特権感覚が見てとれます。ですので普通の家族を描いた家庭劇ではない。この点は演出にも演技にも十分意識されているようには思えませんでした。
 3つの場面は戯曲の指示では1919年、1926年、1935年になるのでしょうか。舞台を見ながら、それぞれの年との関連を考えましたが、この舞台の背後にいるはずの社会の多数の人々の存在が気になって仕方がなかった。すくなくとも何か策を立てることはあってしかるべきだと感じました。
 戯曲は、変化していく時代とともに、変化しない八洲子の心の在り方を描いています。俳優たちはどんどん年を取っていく。一方、娘のみどりは成長して、最後の場面でピアノを弾く。大正デモクラシーの後の新しい社会への期待感が感じられますが、翌年に起こる2.26事件のことをみどりはまだ知りません。難しい時代をみどりがどう生きるのか考えさせる印象的な終わり方でした。

小田 新野さんと違う観点から話したいと思います。『歳月』は今回初めて見た作品で、内容も全然知りませんでしたが、最後のどんでん返しが効いていて、非常に知的に作られており、また人間の心理の描き方が決して古びていないと思いました。見終わった直後に、三島由紀夫『近代能楽集』(1956)の『班女』(1955)を連想したのですが、テーマといい、構想といい、『班女』に非常に近いことに驚きました。しかも『歳月』は1935年で、三島の『班女』は1955年に発表されていますから、岸田國士の方が20年も早いわけです。この2作品を比較したいと思います。それは同時に、主人公の八洲子という人に注目することにもなります。
 『近代能楽集』の『班女』は元々、世阿弥作の能『班女』をベースにしています。世阿弥の『班女』は別れた恋人を慕って物狂いになり、最後に巡り合ってハッピーエンドで終わるわけですが、三島はその構図を逆転させています。別れた恋人を慕うあまり、精神に異常を来した花子という女性が主人公で、彼女は画家の実子に引き取られています。花と実です。来る日も来る日も、井の頭線のある駅の改札口で、花子は別れた恋人の吉雄を待っています。井の頭線というのが面白いですね。それが新聞記事になり、本物の吉雄が会いにやって来て、2人は対面しますが、花子は、あなたは吉雄ではないと言います。「世界中の男の顔は死んでいて、吉雄さんのお顔だけは生きていたの。あなたはちがうわ。あなたのお顔は死んでいるんだもの。」というのがその理由です。
 一方、『歳月』のメインキャラクターになっている浜野八洲子は、20歳の年下の学生である斎木一正の子どもを妊娠して、自殺未遂事件を起こします。その後、出産し、実家で子どもを育てることになる。娘であるみどりを出産したことは、1幕と2幕の間の出来事なので、実際に舞台上で描かれることはありません。その後17年たった3幕で、一正は「夫婦として一緒に暮らしたい」と、彼女に会いに来ます。しかし八洲子は、娘みどりやお兄さんたちに「本当のあの人じゃない」と言います。テキストも非常に近いので少しだけ引用しますと、「今、自分の前にゐるのは、あたしがこの十年間信じつづけてゐた、あの一正だとはどうしても思へないんです…。何処が変わつているとも云へません。あたしが待つてたのは『この人』じやない。『あの人』だつていふ気がして…」。また娘みどりに向かっては、「何時かほんたうのお父さまがあたしたちを迎ひに来てくださるわ。…待つてゐましようね。いつまででもよ」というふうに言っています。
 これは『班女』の最終シーンで、「待つのね。待って待って、…そうして日が暮れる」という花子のせりふと響き合います。この2人の女は、この先の人生をずっと、本当の男を待って暮らしていくのでしょうね。待っている間に、恋人の姿が実態を超えた観念的なものに結晶化してしまい、本物が意味を失っていきます。その代わり、「待つ」という行為のほうが浮かび上がってくるという皮肉な展開です。特に三島の作品は割と図式的になっているのに対して、『歳月』は基本的にリアリズム演劇で丁寧に変化が描かれていますから、自然と納得できます。もしかしたら三島が岸田からヒントを得たのかもしれませんね。『歳月』は、「待つ」という宙づりになった状態を、クローズアップしていく構想が非常に面白いと、私は思いました。ついでに三島由紀夫のつながりでいうと、『サド侯爵夫人』の結末も、良く似ていますね。

野田 『歳月』の演技スタイルは『動員挿話』と比べて、スタイルがリアリズム系というか、静かな演劇風でした。私は以前、岸田國士の文体というのはどこかハロルド・ピンターに通じるところがあるという文章を以前書いたことがあって、ピンターはどちらかというと不条理の劇作家ですから、リアリズムとは違うのですが、岸田の文体には、日本における不条理リアリズム的香りがするとそこで述べました。それを踏まえて、岸田の文体は岩松了、平田オリザ、岡田利規などの劇作家に流れ込んでいるという主旨です。
 岸田の不条理を多分に含んだリアリズム的文体に対して、西本さんはそんなに違和感を抱かずに演出をしていたように感じました。それも岸田の文体が、西本さんの世代からしてみても、その後につづく系譜を通してアプローチしやすかったからでしょう。これが例えば三好十郎だったら、彼のような文体の劇作家が現在ほとんどいないので、もうすこし構えたアプローチになったでしょうね。それに岸田は文学座の創始者の一人ですから、若い人たちの岸田戯曲演技の伝統が流れ込んでいる感じさえして、さすがと思わせられました。基本が押さえられている。結構楽しく見られたというのが、最初の印象です。
 新野さんが取り上げられていた作品中の経年変化を、現在の観客にどうやって見せるのかというのは大きな問題ですね。われわれの世代も含めて、この時代を果たして演じることができるのかという問題でもあります。17年間にわたる、ある一家の軌跡を『歳月』は描いています。最後が1935年、執筆時。最初は1919年ですから、戦間期の日本経済が結構うまくいっていた頃です。八洲子の相手も、まだ出世の夢を十分見ることができた。ところが、結局、1935年の時点で八洲子の相手である斎木一正はそれほど大したこともない挫折した元エリートみたいになっている。当時サラリーマンになること自体、エリートであることを意味していたとはいえ、それでも斎木は、現代の感覚で言う冴えないサラリーマンに近い生活水準にまでなってしまいます。それに対して、1935年の次男の紳二はバリバリの民間管理職、今はラジオの仕事をしていますけれども、もしかしたら朝鮮海峡に橋を架けるかもしれないというようなことを言っています。そして長男の計一は完全にディレッタントを決め込んでいる。もちろん内務官僚の子どもたちだから許される地位でもあり、特に長男の場合はぜいたくでもあるということが言えるだろうと思います。しかし、実は1934年に今の巨人軍ができていますから、その1935年の時点はまだぎりぎり娯楽をやっていた時代です。まだまだ将来的に夢が見られたような時代に、1919年時にはあんなに輝いていた八洲子のお相手は、冴えない状況にあるんですね。
 そこがまさに皮肉なところで、八洲子は結局最後に斎木に会いますけれども、幻滅してしまいます。1919年では、女を犠牲にしてでも出世コースを歩み、キラキラと光ろうとしていた男の姿に、八州子は「私が犠牲になってもいい」とまで入れ込めた。しかし35年になってみると、幻滅する。こんな筈ではなかった。そう考えると、経済バブルがはじけた1990年代初頭から始まった「失われた10年」が20年になり、30年になろうとする今の日本でも、八洲子の幻滅には共感できるという人がたくさんいてもおかしくない。演出の西本さんの年齢はわかりませんが、たぶん氷河期世代でしょうから、自分が知らないながらも夢見ていた未来が訪れなかったことへの幻滅は、共有できるんじゃないでしょうか。したがって、必ずしも現代に響かない演出であるとは、私は思いませんでした。確かに、新野さんがおっしゃるように、1919年から35年までの時代の移り変わりを現代人が理解だけではなく共感できるように上演するのは難しいでしょうけれども、観客の側で、そのような歴史性をぬきにしても、見ようと思えば共感できるところはあると思います。だから面白かったというのが私の正直な感想です。