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■『歳月』における八洲子の描き方――西本由香の演出

嶋田 皆さんのお話をまとめてみますと、西本由香さんの演出の問題点が挙がってくると思います。また、それにつながる三島由紀夫『班女』の主題とのつながりですね。岸田國士作品の大きな特長は、シンプルな言葉で、ドラマを回していくところです。今回も岸田戯曲における言葉のシンプルさと強靱さを、改めて確認しました。とはいえ、この特長は周知のところで、今さらこの点を評価しても、あまりにも当然すぎて、意味はありません。むしろ、この戯曲に対する西本さんの演出が、大きなポイントになってくると思います。
 それは、野田さんが今指摘したことを借りてまとめれば、作劇法としては平田オリザ、岩松了といった平明な現代語でドラマを紡ぎ出す方向へと向かっていくことになると思います。そして、さらに世代をくだった今の若手が、岸田の言葉とどう格闘するかという点に注目したいと思います。この西本さんの演出は、舞台装置も含めて非常にシンプルで、奇をらうことなく真正面から挑んでいった印象を持ちました。非常に潔かったと思います。
 だからこそ、小田さんが指摘した、三島由紀夫『班女』と共通するテーマ――最後のどんでん返しの「待つ」というテーマが、非常に面白いドラマとして浮上してきたと感じました。この演出面について、みなさまどうでしょう?

新野 先ほどはやや否定的なことを言いましたが、平易な言葉で語られる台詞を立体的に膨らませて客席にきちんと届けた西本さんの演出力を高く評価したいと思います。ただ、戦前の社会が階級社会だったことが舞台から見えないと、現在の日本社会の格差も浮かび上がらないと感じました。
 三島由紀夫も階級社会で育ちました。彼には戦後の民主主義社会を肯定することはできなかった。戦前と戦後の連続は彼には絶たれていた。こうした三島の悲劇を思うと、『歳月』の最後の場面は印象に残りました。次男の妻になる礼子も昔ピアノを弾いたことがあり、それを覚えていたみどりがここでピアノを弾く。世代を超えてピアノを弾く姿に、戦後につながる近代的な感覚を感じました。この感覚は戦争でいったん途切れ、岸田自身も大政翼賛会に関わる。ですので、この戯曲は書かれた後の歴史を照らし返す演出力を要求しています。この点をもっと突っ込んでも良かったかなと思いました。

小田 嶋田さんがまとめたように、全体のテーマはやはり『歳月』という題名に表れていて、八洲子が物語の軸になっているとは思いますが、八洲子の友人で紳二と結婚する礼子、八洲子の娘みどりも含む、17年間にわたる浜野家一家の変化が、時代の変化とあわせて一番重要だと思います。長兄で仕事もしていない計一が、「自分はひとところに居て、世の中が変化していくありさまを眺めているのが好きだ」というようなことを言いますが、そこに岸田自身の、この戯曲を作ったときの態度のようなものが反映されている気もします。私は、新野さんが指摘したような、戦前の日本のリアリティーの再現ということについては、この作品に求めていませんでした。それもあって、それこそ平安時代から連綿と続いてきた、女の人が「待つ」ことの意味を改めて考えさせられた気がします。
 野田さんが言ったように、八洲子の相手にあたる斎木正一は、昔はキラキラと輝いて、出世欲に満ちあふれていましたが、17年たってぼろぼろになり、情けなくなっているようです。女の幻滅、確かにそれもあるでしょう。
 しかし、八洲子が、私にはある意味でとても非常識に見えました。妊娠の時点で「自分を本当に愛してくれるなら、僕の居ないところで黙って死んでくれ」みたいなことをいわれ、だまされているのは見え見えですし、男は身勝手ですけれども、それに対して決して非難しません。別れてくれと言われたり、会ってくれなかったりしますが、彼を憎んでいないんです。あまりに男の言いなりではないですか。しかし、男への愛を貫いた末に、最後に会ったときにも、「これはもう私の思っている人じゃないわ」と、彼女は自分自身の実感というのか信念を貫き通していくわけです。常識にも周囲の意見にも惑わされない、そういうところが非常によく出ていると感じました。ですから演出に対しては、特に奇をてらったことをしなかったのが良かったのではないでしょうか。

野田 岸田國士に男女の関係を書かせると、建前としての男尊女卑を支えるかかあ天下的男女観を描くことが多いような気がします。結局、どこかで女性のほうが強いのだと言いたいんでしょう。岸田は現代でも十分通用するフェミニストだったという気はありませんが、それでも軍人の家に生まれながら、文筆業に進んでいる人なので、当時としては草食系文学インテリですよね。それもあってでしょうか、女性に対してマウントをとろうというマッチョな気配が薄い。『道遠からん』(1950年)では、男女間で扶養関係が逆転した海女さん社会を描いていますし。
 『歳月』に出てくる男は、基本的に変わらないか、落ちるだけです。斎木一正は落ちていきます。長男の計一はディレッタントのままですし、次男の紳二も結局はエリート民間サラリーマンとして、それなりです。父権者である浜野計蔵は変化を示すまでもなく亡くなってしまう。彼の期待はむしろ孫娘のみどりに向けられているようです。
 他方、女性のほうは、変わっていきます。まあ、母親の駒江に関しては分かりませんけれども、八洲子は変わります。礼子も、実にたくましい。今回の上演では、特に八洲子と礼子が2幕から3幕にかけてみせたたたずまいの変化が際立っていました。そして最終的にグリーグの『春』を弾く八州子の娘みどりも、言ってみれば、将来に対するある種の希望を映しています。『歳月』という作品において、時代の変化に順応してしたたかに生きているのは、どちらかといえば女性のような気がするのです。途中で変化がある分、女性のほうがキャラクターとして成立している。それを見せられていたのではないかという気がします。
 1935年と言えば、時勢が本当に厳しくなる、ぎりぎりの頃です。岸田はこの芝居の2年後に文学座を立ち上げ、1940年には大政翼賛会の文化部長になります。とにかく政治的に右か左かを問わず、芝居ができなくなってしまったら困るからというので、軍人の息子である岸田國士が「貧乏くじだな」と思いながらも、その役を引き受けた。ヒトラー内閣は1933年に成立しています。世界は十分きな臭くなっている。この戯曲が出た1935年は、31-32年の昭和恐慌を経て、将来不透明ながらも、まだなんとかなるのではないかというような感じを国民は抱いていたのかもしれません。大恐慌の波をもろにかぶってしまった日本が戦争への道を歩み出してしまう初期段階の話ですね。
 思い出すのは小山祐士の『十二月』です。『十二月~下宿屋「四丁目ハウス」~』として民藝が2010年12月に三越劇場で再演したこの『十二月』、最初の発表は1933年、初演は築地座、岸田國士演出で34年5月です。この芝居、大恐慌のおかげで機械会社の要職を辞して本郷近くに学生相手の下宿屋をいている夫婦が出てきます。財閥の娘と結婚することになった高級官僚の弟が、体面上格好悪いから下宿屋は辞めてくれというくらいですので、元エリートとしては十分落ちぶれているはずなのですが、それでもお祝いとなればシャンパンを飲み、気の利いた金も包むくらいの生活上の余裕がある。まだ「贅沢は敵だ」になっていないんですね。『歳月』と似たような社会的階層の人々であれば、将来に対しまだ漠たる期待を抱くことができた時代だったんでしょう。岸田の『歳月』は、男ではなく女を据えることでこの時代の雰囲気を表したところが面白いところで、今回の演出でもそれは出ていたような気がします。
 コロナ禍の下、緊急時にあってのんびりとできる心構えの大切さを私は確認したかったのでしょうか、その要請が応えられたため満足したのかもしれませんね。ハードルが低い観客だったんです。

嶋田 八洲子役を演じた前東美菜子さんは、作品に流れる時の移ろいを、非常に巧みに表現していましたね。第1幕では自身の妊娠という重大な局面でありながらも、何を考えているのかイマイチうまく表現できずに、八洲子は周囲を苛立たせます。それが第2~3幕に従って、家族の中心となる、しっかりとした女性へと変貌を遂げていく。このあたりの前東さんの表現力は素晴らしいですね。光っていました。
 ちなみに八洲子役の前東美菜子さんは、同じく文学座所属の内堀律子さんが中心となって、temp.という共同企画を結成しています。temp.は今回の公演の少し前に、サラ・ケイン(訳=谷岡健彦)『4.48 PSYCHOSIS』(新宿眼科画廊、2020年1月31日~2月1日)を上演しました。あの断片的で難解なテクストに対して、映像表現も交えて、実に果敢に立ち向かっていました。今回の岸田國士の作品と比較すれば、まさに対極とも言える作品です。このような作品に対しても、観客を飽きさせることなく、しっかりと空間を埋めることができる前東さんは、新劇の俳優のみならず、パフォーマーとしてもしっかりとした実力を持っています。先ほど話題にした2幕から3幕の間の八洲子の変貌がしっかりと描けていたのも、このような実力によって裏付けされているからだと思いました。今後大いに期待したい若手の俳優です。