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■『動員挿話』の女性たち――所奏の演出

嶋田 今の話題に、女性が主導権を取っていくような話型が、岸田國士の作品の一つの特徴とするならば、これと同時に上演された『動員挿話』は、まさしくそのような作品ですね。馬丁の友吉(西岡野人)と妻の数代(伊藤安那)の夫婦の話ですが、数代が話を引っぱっていきます。特に日露戦争の真っただ中に、馬丁の友吉がご主人の宇治少佐(斉藤祐一)に付いていくか、いかないかというところで、戦争に対するメッセージがたいへんよく出た作品です。
 こちらの作品は所奏さんが担当しています。『歳月』の西本さんとは全く異なるアプローチでした。

『動員挿話』 前列左から西岡野人、伊藤安那、後ろが鈴木亜希子 撮影=宮川舞子

野田 西本さんは文化庁の派遣でマキシム・ゴーリキー劇場に留学していることです。ですから、もっとドイツ風な感じの演出かと思えばそうではなく、むしろ『歳月』のスタイルは青年団風でさえあった。それに対して所奏さんは、かなり輪郭を際立たせた人物像の描き方をしていました。動きもジェスチャーも大げさですし、せりふ回しも非常に大げさです。このような戯画化された人物像にかこまれて、友吉の妻数代だけが戯画化されないシリアスな女性であるという構図を描きたかったのでしょう。夫を戦地に行かせまいとする数代だけが、物わかりの悪い女のようにまわりから見られる。ある意味、反リアリズム的なというか、ブレヒト的な結構ですね。演出家お二人の経歴から見ると、ちょっとあべこべになっていると言えなくもない。
 問題は、『動員挿話』の場合、戯画的人物群と数代との間のコントラストがどれだけ際立たせるかの匙加減でしょう。私の観劇日は3月25日でしたが、そのときに元時間堂の黒澤世莉さんと鵜山仁さんがポスト・パフォーマンス・トークをやっていました。黒澤さんが、「数代だけが常人で、他はもっと戯画化するというようなやり方があったのかもしれない」などとつぶやいていて、私も実はそれと似たような感想を持っています。どうせそこまで戯画化するのでしたら、ノーマル数代 vsクレージー・アンサンブルのような形でもっと明確に組んでしまったほうが、天井からやたらと物がぼかすか落ちてくる工夫とも合ったのではないかという気はします。しかし他方、それをあんまりやってしまうと、イヨネスコの『犀』とほぼ似た構図になってしまって、反戦ものとしてはわかりやすいが、恋愛の部分は薄くなる。

新野 今、野田さんが指摘したように、登場人物の明治社会への帰属度と演技のカリカチュアの度合いが比例していたのが興味深かったです。少佐と従卒はロボットのようでしたね。白い浴衣姿の宇治少佐はもとより、軍服姿の従卒太田(西村知泰)も機械仕掛けの人形のように動きます。少佐夫人鈴子(鈴木亜希子)は、使用人の数代たちに同情を示すときは人間的な演技になりますが、夫の少佐と一緒に上から秩序を押し付ける時はやはり戯画的です。女中よし(松本祐華)は空気の読めない今のジコチュウの女性が戯曲の世界に紛れ込んだような演技でした。こうした誇張された演技をする宇治家の人々とは対照的に、馬丁の友吉は優柔不断な性格を情感たっぷりに演技して哀れを誘いますし、妻の数代はまるで現代の女性が明治にタイムスリップしたかのように、階級差の不平等に苦しむ多感な心を全身で表現します。戦前の階級社会を現代の感覚で表現することは無理と割り切って、戯画的な組み立てをしたのでしょう。
 舞台装置も『歳月』とは対照的でした。調度品も何もない、畳風のシートが敷いてあるだけで、簡素で抽象的なものでした。天井には丸い円盤のようなものがあり、始まるときに座布団が何枚もドドッと降ってくる。野田さんが言うように、『動員挿話』のほうがドイツ的と思わせる演出でした。
 どうしてこの2つの戯曲を選び、この順番で上演したのかはわかりませんが、個人的には大変興味深く見ました。『歳月』はみどりがピアノを弾く場面で終わりましたが、それは1935年という設定ですね。『動員挿話』は数代の話になりますが、こちらは戯曲の指示では1904年、つまり30年前になります。実際の歴史とは逆の順番です。2・26事件の直前で終わる『歳月』の次に、日露戦争の『動員挿話』が来る。すると、関東大震災の打撃から復興し、大衆消費社会となった時期に成人したみどりの未来への希望が、日露戦争で宙吊りになります。女性に自由をほとんど認めなかった封建的な社会が繰り返され、戦争が起こる。今度は日露戦争よりもっと残酷にもっと大規模に行われ、第二次世界大戦になる。順番を逆にすることで、見えてくるものがあったと思いました。
 全くタイプの異なる2つの演出を並べる趣向も興味深かったですね。ただ、それぞれの演出にはもっとやって欲しいと思わせるところがあった。『歳月』では、舞台の背後にいる社会の大多数の人々の存在を感じさせて欲しかったし、『動員挿話』では、戯画的な演技がわざとらし過ぎた。ロボットのようにカリカチュアされた演技はどこか付け焼刃的な感じが否めませんでした。

小田 私もこの2つの作品を並べた意図があまりよくわからず、苦し紛れに考え出した共通項が、常識と非常識の対立の構図です。主人公の女性が当時の非常識を体現して、他の人たちが常識の側にいる。『動員挿話』は特にそういう面がはっきり見えていたと思います。今のわれわれから見ますと、数代が非常にまともな考えを持っていることは分かりますが、恐らく日露戦争当時はそうではなく、彼女の言動は大変な非常識に映ったのではないでしょうか。戦争に行くことの是非に対する議論が、戯曲の形で描かれているというところがまず面白いと思いました。
 数代は表面的に戦争反対などという政治的な言動を成すわけではなく、ひたすら夫と別れるのが嫌だと、個人の人間として、女としての実感を貫いていく強さ、駆け抜けていくバイタリティーがありました。そういう役づくりをしていたと思います。例えばお国のためにという大義名分に対して、「こつちばかりがお国の為と思つても、肝腎のお国が、目をかけて下さらなけりや、なんにもならないぢやありませんか。」というせりふがあり、それは私の胸にもよく響きました。これはやはり現代社会にも通用する真実です。友吉が「世間を狭く渡りたくない」と言って、出征を決意してしまいます。もしかしたら、今こそこういうことを言わなければいけない時代で、そこにこの作品を現代で演じる一番の意義があるのかもしれないですね。

嶋田 戦争に対するメッセージ、さらに言えば戦争というもののバカバカしさがよく出ている作品です。先ほど小田さんが引用した数代の言葉は、戦争をめぐる国家と個人の関係を考える上で重要かつ痛烈です。
 所奏さんの演出は、野田さんも言ったように戯画化が中心であったような印象ですね。ただ私はこの舞台を観ていて、メッセージをストレートに打ち出しているこの作品と、演出が上手にかみ合っていないような気がしました。所さんも『文学座通信』727号(2020年3月1日)で書いていますが、岸田國士にはこのようなメッセージ性の強い作品もあれば、バカバカしいコント風の作品もあります。例えば文学座の自主企画『岸田國士恋愛短編集』(2020年4月9~12日@新モリヤビル1階稽古場、公演延期)で上演予定だった『命を弄ぶ男ふたり』(1925)や、ケラリーノ・サンドロヴィッチもコラージュ作品として演出した『犬は鎖に繋ぐべからず』(1930、ケラ演出2007)、『麺麭屋文六の思案』(1926、ケラ演出2014)など(ちなみにケラは前出の『命を弄ぶ男ふたり』も2007年に演出しています)なんとも捉えどころのないおかしさがこみ上げるコント風の作品です。
  昨年(2019年)5月の文学座アトリエの会公演(作=戌井昭人)『いずれおとらぬトトントトン』の演出を所さんは担当しています。この作品は、風変わりな人たちがたくさん登場するお話です。所さんはそれぞれの登場人物を際立たせるよう、上手に演出していました。なので今回の『動員挿話』よりも、先ほど挙げたコント風の作品の方が演出の相性がよかったのではないかと思いました。

野田 『動員挿話』は、2007年の新国立劇場で、若くして亡くなってしまった深津篤史さんが演出していますね。あのときは反戦作品的メッセージが強かった。ところが今回の文学座のアプローチは、まず『歳月』をやって『動員挿話』ですし、今回の所さんの演出では深津演出ほど反戦色がそれほど強く感じられなかったので、そう勘ぐっているだけの話なのですが、今回の文学座の公演はむしろ恋愛/夫婦愛の主題に重きを置いていたのかもしれません。『動員挿話』は昭和2(1927)年の作品で、大正を飛び越えて明治37年を振り返っていますから、第2次世界大戦以降の戦争反対という文脈に、そもそも簡単に重ねられないですし。
 『動員挿話』の第1稿から最終稿までが1927年に出ています。第1稿を見る限り、主人公の女性である数代の愛のほうがどちらかというと前面に出ていて、友吉に対するお国からのプレッシャーの部分、特に宇治少佐が「お国のためだ」と言うような部分が薄い。最終稿になってきますと、その部分が若干色濃くなっているのと対照的です。私などは第1稿に寄せた形で所さんの演出を見ました。しかしながら、その手法はどこかより大きな、パーソナルな恋愛や夫婦の間の情よりも、戦争のほうへ行ったときにふさわしいような手法を採ってしまいました。ちぐはぐ感はそこから来るのではないかと思います。

新野 今、数代の話が出てきましたけれども、数代は女学校を出たという設定になっています。この当時の女学校を出た女性が馬丁の妻というのは、非常につらい話でしょう。数代は一度結婚したが、夫を亡くしたため、友吉の妻になったという設定の女性で、友吉を「絶対に戦争へ行かせない」と言うところは、与謝野晶子を連想させます。岸田の『「追憶」による追憶』によれば、彼の少年時代、家には百人一首を暗唱させてくれた才女の女中がいたり、父親が軍人だったため馬丁もいて、女中と痴情沙汰に及んだりといったことがあったようです。ただ、戯曲に表現された数代の心の在り方には底知れぬ暗さを感じます。彼女は戦前の日本社会の闇を背負っているように思うのです。所さんはもう少しこの闇に触れても良かった。

野田 アフタートークで鵜山さんが、「それにしても、数代さんは何で友吉にほれたんだろうね」と言ってました。数代がこれほどまでに友吉にすがりつく理由として、第1稿では前に旦那と死に別れたぐらいしか分かりませんが、最終稿では友吉以前に2度も死に別れたことになっています。何だか知らないけれども夫に先立たれる、すぐ死なれてしまう女という、それこそ怪物のような女になっている。一番ノーマルな演技をしている数代だけが、女性としてものすごく執拗(しつよう)なこだわりを旦那に対して持っていますが、それも女学校出の女性として、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに染まっていたということもあるのでしょう。
 しかし、私はやはり、それはねじれだと思うのです。なぜ友吉にほれたのか、逆に分からなければ分からないほど、数代の執着というものが前面に出てきます。戦争反対というメッセージよりも、不条理なまでの執着が前面に出てくるのが、この作品の面白いところです。

小田 どうして女学校出の数代が馬丁と結婚したのか、結局、作品の中で解き明かされないままになっていて、私も疑問でした。見た実感としては、数代の怒濤のような感情の激しさにへきえきしてしまう面もあります。この人は死にたかったのかもしれないという気もして第1稿を読んでみましたが、第1稿では夫人が二人に「友吉は行かなくつてもいい、二人は今からすぐ何処かへおいで。あとはあたしが引き受けるから」と言ってくれたのに対して、「奥さま、ではどうかよろしく」と答えているにもかかわらず、井戸に身を投げてしまう。それはなぜなのか。どうして第1稿をそうしたのかも含め、今回の演出が数代という女性をぐっとクローズアップしたのは賛成するところです。

嶋田 文学座アトリエの会公演『歳月・動員挿話』について座談会を進めてきました。岸田國士作品の魅力が再確認できたのはもちろんのこと、文学座の若手演出家の手腕を見ることができた貴重な公演だったと思います。
 文学座は近年、演出家の活躍がめざましいです。昨年(2019)は松本祐子さんの演出作品である文学座アトリエの会(作=テーナ・シュティヴィチッチ)『スリーウインターズ』、企画集団マッチポイント公演(作=横山拓也)『ヒトハミナ、ヒトナミノ』は非常に高い評価を受けました。また最近では上村聡史さんを輩出したのをはじめとして、現在演出部に所属している生田みゆきさん、稲葉賀恵さんなど若手の演出家が非常に元気です。西本さん、所さんがどういう形で続いていくのか、大いに期待したいと思います。