Print Friendly, PDF & Email

山の手事情社『タイタス・アンドロニカス』 2010年の舞台より 撮影=平松俊之

「喪の可能性」

 この作品、2015年の舞台に関しては本橋哲也氏によるこの舞台の詳細な評がすでにウェブ版シアターアーツに掲載されている。語り手の母が、動揺を表す居グセを特に見せるのは、女性が男性の餌食になる場面だから、氏が「白人男性中心の歴史の間隙に垣間見えたひとりの女性による喪の可能性」をこの舞台に見たのは納得できる。
 今回の配信が身に染みたのはなぜか、あらためて自分に問いかけたくもなる。ミー・ツー運動のあとのブラック・ライヴズ・マター運動の精神と主張の主旨には賛同しかない。しかしこれらの運動のなかにも、どこか新たな不寛容が含まれているようだ。別に悪さを働きたいだけの不良分子の話をしているのではない(彼らはそもそもこの運動の精神にそぐわない存在だ)。しかし、良心的抗議者達でさえ、その良心の表明の仕方に首をかしげることがある。銅像をぶっ壊して、いったい何が変わるというのだろう。銅像がみんなマザー・テレサになってしまった世界で、われわれはモニュメントからいったい何を学べるというのだろう。彼らとて、所詮人ではないか。
 現代のポピュリズムを生みだしたのは、上から目線の「正論」が内包する不寛容なのかもしれないと思うのは、そういう時だ。どうかこの私のいらだちを、コロナ疲れとして片付けないでいただきたい。不寛容が不寛容と戦う時には、道理も、自己統治可能性もない。それどころか、それはまさに狭隘な価値観しか擁せないポピュリストという新たな「テロリストの誕生」の瞬間になってしまうだろう。だからこそ、『タイタス・アンドロニカス』の惨劇が、そもそもタモーラの子を生け贄に捧げるというタイタスの不寛容に端を発していることの重みが身にこたえるのだ。だからこそ、劇中における究極の悪漢である黒人アーロンが、悪の華の中に人間性をのぞかせる姿が眼に焼き付くのだ。
 ニューヨーク・タイムズ紙が一面を死者の名と短い人となりについてのコメントで埋める気になったのはよくわかる。死者を数でしか認識しなくなる世界における喪の可能性を探っているのである。ある種の政治家には有権者が数にしか見えないのと同じ事が起きていたのだ。このコロナ禍は、民主主義的統治の可能性そのものが死の危険に直面していることを露呈した。ならばわれわれは誰が、そして何が死んだのかを問い、その喪に正しく服する可能性を探るべきだろう――アメリカだけの問題でもなく、ブラジルだけの問題でもなく、われわれの問題として。ファクターXを「民度の高さ」と勘違いして神風論に浮かれている向きには、到底不可能な服喪の可能性――山の手事情社『タイタス・アンドロニカス』の配信は、その点を問いかけているような気がするのである。