【左から】マーシャス(越谷真美)、クィンタス(辻川ちかよ)、パブリアス(中川佐織)、リューシアス(川村岳)、タイタス(浦弘毅)、ディミートリアス(斉木和洋)、タモーラ(倉品淳子)、カイロン(鯉渕翼)、アーロン(山本芳郎)/【中央】タイタスの妻(水寄真弓)  撮影=平松俊之
【左から】マーシャス(越谷真美)、クィンタス(辻川ちかよ)、パブリアス(中川佐織)、リューシアス(川村岳)、タイタス(浦弘毅)、ディミートリアス(斉木和洋)、タモーラ(倉品淳子)、カイロン(鯉渕翼)、アーロン(山本芳郎)/【中央】タイタスの妻(水寄真弓)  撮影=平松俊之

はじめに

 特異な身体技法と発声術、照明と音響と美術のアンサンブルによって、つねに革新的な空間造型を行う山の手事情社(安田雅弘主宰)が、シェイクスピア原作の『タイタス・アンドロニカス』と近松門左衛門原作の『女殺油地獄』をカップリングにして上演するという野心的な試みを行った(2015年11月6日~11月15日/東京/吉祥寺シアター)。どちらも極端な暴力が発動される芝居であり(前者は殺人の数において、後者は殺人の様式において演劇史上、悪名が高い)、そこで描写される強殺、身体切断、性暴力、人肉食といった行為は、これまでの多くの上演において、身体の損傷による血液の流出や殺害過程のグラフィックな描写をめざす演出が、かえって観客の想像力を封じ込める作用を及ぼしてきた。今回の山の手事情社の上演は、文字どおりの暴力の描写を抑えながら役者の身体性へと翻訳し、その源泉を人びとの生理と心理の両面から探ることで、人間が死や欠落にどのように向き合うのかという問いを、個人と共同体の歴史性において提示する。そのときの鍵が「喪」である。小稿ではそれぞれの舞台を詳細に検討しながら、この主題に迫っていきたい。

 

 I.  『タイタス・アンドロニカス』における喪の拒絶

1 葬式という日常

 舞台には背景に四つのすだれが下がり、中央に電子レンジの乗った冷蔵庫、下手にテレビが置かれ、「四畳半」を連想させる茣蓙が三枚敷かれている。芝居が始まると読経の声が流れ、和装の喪服を着た中年女性が中央の茣蓙に座を占める。これはシェイクスピアの原作には登場しない「タイタスの妻」(水寄真弓)であり、彼女は劇の語り手であるとともに、「喪」という主題の中心となる人物だ。彼女の台詞はハイナー・ミュラーの「解剖タイタス ローマの没落」から取られており、劇に異次元の空間を挿入する役割を担っている。帝政ローマの出来事をつねに現在形で描写する彼女の語りは、たしかに舞台上のアクションを外枠で規定してはいるが、それは劇中劇的な構造があるということではない。彼女が遂行する葬式の日常空間と、時間的にも空間的にも遠く非日常的なローマの政権交代劇は、あきらかに次元を異にしているけれども、時折その二つの空間が、生を言祝ぎ死を悼む瞬間において微妙に重なる。そのことに対する観客の驚きや当惑が「喪」というテーマを浮かび上がらせるのである。
 それを空間的に実証するのが、山の手事情社の役者たちが形成する「四畳半空間」の凝集力だ。語り手としてタイタスの妻が登場人物たちを紹介するさいに、彼らは喪服を着た彼女のまわりにまるで背後霊のように集合する。いっけん葬式に参集した親類が喪主を囲む家族集合写真のようでありながら、葬式が行われている現在時において生存しているのは妻だけであり、あとはすべてはるか昔に遠い土地で亡くなった死者たちである。まるで時空を超えて生き残ってしまった妻/母を雌しべとする食虫植物のように、彼女を囲む人物たちは喪が日常化されている葬式の風景に抗して、暴力的な死が蔓延する自分たちの異常な時空を彼女にも共有させようとするかに見える。しかしその試みは多くの場合、未了に終わる。が、ごくまれに二つの異次元空間が交差し、そこに喪の可能性が点滅するのだ。そのような契機を検討するまえに、まず生の象徴である母親の乳と、血縁の証拠である父親の血との関係について考察しよう。

2  乳(母)と血(父)の弁証法

 『タイタス・アンドロニカス』は、肉体の殺傷が枚挙の暇もないほど繰り返される劇であるから、その上演は、切断や刺傷のたびに肉体から吹き出すはずの血液をどのように表象するかに工夫を凝らさざるを得ない。安田による演出は、赤い血の噴出描写を極力おさえることによって、かえって血の根源にある生(=精)のイメージを強調する。一貫して舞台上の色彩を支配するのは、白か黒だ。弁別すれば、黒い喪服を身につけたタイタスの妻を中心に、おもに暴力をふるう側の人物(ゴート人のアーロン、タモーラ、ディミートリアス、カイロン)は黒い洋装、暴力をふるわれる側の人物(ローマ人のラヴィニア、バシエーナス)は白い和装、その中間に灰色を基調とする和装のローマ人たち(サターナイナス、タイタス、マーカス、リューシアス、パブリアス)がいるという構図になろうか。さらに、タイタス(浦弘毅)の推挙によってローマ皇帝となったサターナイナス(佐藤拓之)は金色の羽織を身に着け、彼が妃として選んだタモーラ(倉品淳子)にも金の刺繍が入った羽織を着せる。ここで注目すべきは、黒ないしは灰色の服を着た人物には、白い手形の模様がついたアーロン(山本芳郎)の服をはじめとして(タイタスを騙して切り取らせた腕の象徴だろうか)、殺傷や暴行のたびに白い液体のあとが刻印されていくように見えることであり、それに反して血を流すラヴィニア(山口笑美)やバシエーナス(谷洋介)の衣服は白いままであることだ。多くの文化圏で黒が喪の色とされているとすれば、それは黒が、生者にとって死という闇の領域に対する人びとの畏れと崇敬を表しているからだろう。しかしこの舞台では、葬式に参加している(しかし彼女の参加の仕方はけっして積極的とは言えない)タイタスの妻を除けば、喪の黒は白によって汚されている。白を優等とする人種主義的な判別によれば純潔の象徴であるはずの白色が、邪悪や劣性のしるしとされた黒色を逆に汚染しているのである。
 この上演における白は精力や強制のシンボルでもある。アーロンの黒地に刻印された手形、タイタスの妻が広げて匂いを嗅ぐ産着、襦袢にくるまれたアーロンの赤子、タイタスがディミートリアスたちの肉塊をミキサーで撹拌した液体といった、舞台上の具体的な形象の白。また可視化されてはいないけれども、白は、ディミートリアス(斉木和洋)とカイロン(鯉渕翼)がラヴィニアのなかに、あるいはサターナイナスとアーロンがタモーラのなかに注ぎ込む精子や、タモーラやラヴィニアの乳房の色でもあるだろう。白い精子が卵子と結合して生殖が行われ、母親の乳となって子を養い、それが血となり精となって放出される生/死の循環。周縁者たちの白い暴力が、赤い血の存続を条件とする家父長制度による支配の黒い根幹を揺るがすのだ。『タイタス・アンドロニカス』という「血で血を洗う」惨劇は、家父長主義の暴力の根源に母親の白い乳への偏執を見出すことで、黒い父親の精子を相対化し、生と死の境界を曖昧にする灰色の悲劇となるのである。

【左から】アーロン(山本芳郎)、タモーラ(倉品淳子)  撮影=平松俊之
【左から】アーロン(山本芳郎)、タモーラ(倉品淳子)  撮影=平松俊之

3  “The time is out of joint”

 このような母乳と父の血液との相互侵犯は、この舞台においてジェンダーと身体性の領域を浸すことによって、さらに演劇的な説得力を獲得する。山の手事情社の舞台表象を有名にした「四畳半演劇」を、私たちは演技空間のサイズであるかのごとく解釈してしまいがちだが、実のところそれは空間が小さいということではなく、いわば空間がパイのように捏ねあわされているという構造の問題ではないだろうか。ガストン・バシュラールによれば、空間の生成はパイの作り方に似ている――パイを捏ねるときには、パイ生地の間に空気の薄い層を残しながら何回も捏ね上げていくことで、生地が分離しながらも接合されていく結果、柔らかなパイができあがる。それと同様に、空間も異質なものを挟み込むことで多重性を帯びるというのだ。山の手事情社による演劇空間の複層性も、そのようにもたらされるのではなかろうか。この上演が女優による男役の演技を多用しながらも、観客にジェンダー境界の侵犯をことさら意識させないのは、この劇団の役者たちに共有されている発声術と身体技法のゆえである。下腹部から吐き出される野太い彼女たちの声と、肉体の諸関節をつねに不自然な方向に曲折させる身ぶりは、ジェンダーという「男らしさ/女らしさ」の社会的な性別を解体する。しかもそれがつねに集団的な凝集力に支えられているために、空間の余剰がつねに身体の内へ内へと折り返され、外に余白を残さない。それが結果として空間を「四畳半」にまで凝縮させるのだ。ちょうど文楽の人形が物理的には存在しているはずの人形遣いとの距離を無化してしまうように、山の手事情社の役者たちの関節演技は、関節によって繋がれた肉体の各部の距離を最大化することで、人物同士の距離を最小化する術なのである。
 「四畳半」的な空間の内向きのベクトルは、パイ生地が余剰をはらんで畳まれて捏ねられていくように、この舞台に頻出する「畳む」という動作によっても増幅されている。アーロンが木(テレビ)の下に隠す金の袋も、タイタスの息子たちによるバシエーナス殺害の証拠とされる密書(新聞紙)も二つに折り畳まれることで本来の目的を達するし、タイタスの妻が折り畳む白い襦袢や産着がアーロンの赤子を包んでいることも示唆的だ。パイの皮が空気の余剰を孕んで畳まれていくように、この舞台における身体や物体は関節に含まれた遊びの空間を介して、つねに内へ内へと折り込まれていくのである。
 さらに言えば、タイタスが料理する人肉パイも、同様に「遊び/余剰」を内に包み込んだ関節の産物だろう。ハムレットにならって「時間の関節が外れている」と言うとすれば、それを正すには狂気を装うしかない、関節が外れている世界のほうでは自分たちが正気であると信じているのだから。タイタスやラヴィニアは手首から先を切られて、手で文字を書くことはできないかもしれないが、肘の関節を使ってパイを捏ねることはできる。ハムレットの佯狂と同様、手首や舌を失ったタイタスやラヴィニアも箍の外れた時間と世界の余白のなかで、人と獣、現実と夢、この世とあの世のあわいにおける中間存在となっていくのである。

4  孤独なるアーロン

 この劇では手首を切られたラヴィニアやタイタスに円筒形の手袋が嵌められていく。それは血の噴出をおさえるカバーであるとともに、血を内部へと還流させる道具だ。関節が骨を分割しながら同時に繋げる部位であるように、手首は切られることで血を逆行させ、身体を部分的に内側に陥入させる。口と手、唇と性器、出口と入口が交差する芝居のなかで、滑らかな動作を排除した関節的演技が、乳と血を、母と父を、生と死を不断に逆流させていく。そのとき興味深いのは、登場人物たちの「死に型」だ。安田は人物がどのように死んでいくかの様式に鋭敏な演出家だが(先回の上演『テンペスト』でも死は様式化され、その意味で個別化されることなく平準化されていた)、ここでも人物はきわめて特異な身体型で死んでいく。多くの場合、手刀で首のあたりを切られた人物が、いったん仰向けに倒れた後、後ろ向きに回転して倒立し、派手な音を立てて舞台上にうつぶせに崩落する。(ラヴィニアだけが例外で、彼女もいったん仰向けになった後で逆立ちし、倒れていこうとするが、その両足をタイタスが抱えてしまうので、自分の体重では倒れない。この意味については次の第5節で考察する。)これまで関節によって「畳まれて」いた身体が一気に伸張し、死へと逆転して跳躍しながら自重によって生の痕跡となる瞬間。“out of joint”という「箍の外れた」ローマの時空間が、肉体の死によって“into joint”という過去と現在とが「つながった」普遍的な時空間に再編されるのだ。この垂直倒立崩落死は相当に鍛えられた役者でないと危険な技であるはずだが、その鍵は、手をいっさい使わず首の力だけで大きく後ろ向きに弧を描いて回転しながら落ちるという、きわめて不自然な「死に型」にある。まるで死を迎える人物たちはすべてタイタスやラヴィニアのように手を切断されているので、腕の力に頼らずに死ぬほかないとでもいうように。この倒立と転倒のイメージは、殺されて上に噴き出そうとする血液を下方に押さえ込んで逆流させ、それまで生命を孕んでいた肉体を、一瞬にして無機的な廃棄物に変えてしまう。他殺が自死に変換される瞬間。山の手事情社の役者たちの傑出した身体能力によって、生身の肉体の有機的な可傷性が示唆されることで、かえって死のグロテスクな無機質性や、極端な暴力の連鎖による喪の限界が強調されるのである。
 だが他殺をたくらみ、ときには自ら手を下しながらも、このような自死の連鎖とは無縁な人物が一人だけいる――アーロンだ。彼がシェイクスピアの登場人物のなかでも特異な悪人なのは、その人種的な周縁性や性的な活力のせいだけではない。その黒服に鮮明に刻印された白い手形模様が示すように、アーロンにとって大事なのは、自らの悪事の証拠を公然と残すことであり、それが歴史として語られていくことだ。そのもっとも貴重な証拠が、彼がタモーラに産ませて黒人である父親のしるしをその顔色にきざんだ息子だが、彼がその息子に寄せる情は家父長主義の権力構造とは無縁だ。アーロンにとって、母親の生殖能力を介して父親から長男へと受け継がれる財産や名誉や血筋や権威は関心の対象ではない。本来ならば皇后の息子なのだから、権力欲を発動させてもよいはずの子どもは、アーロンにとって自らの血をひいた息子としてのみ価値を持っている。タイタスの長男としてローマを追放され、そのローマに復讐するためにゴート人の司令官となったリューシアス(川村岳)に捕えられても、アーロンは悪びれることなく、ただ自分の息子の生命の保持だけを条件として自らの悪事を告白する。絶対的な個別者として、彼には忠誠を誓うべき祖国も民族もありようがない――アーロンがあくまでアローン(孤独)であることが、最終場における喪の可能性を担保するのだ。いよいよそのことを検証していこう。

5  血の逆流

 関節技によって作られたパイは、どのような日常性を惨劇の続く非日常のなかにもたらすことができるのか? 殺害によってもたらされたおびただしい死を、個人や共同体はどのように悼もうとするのか? 死という非日常が日常と化した世界のなかで、どんな喪の可能性があるのか? これらがこの劇が最後に応えるべき問いである。
 最終場でタイタスの招きに応じて、その屋敷でローマ皇帝サターナイナス、皇妃タモーラと、そのローマに反旗を翻してゴートの司令官となったリューシアスとの和睦をはかる会合が開かれる。その宴でタモーラの二人の息子を詰めた人肉パイが供されるのだが、サターナイナスもタモーラもそれを「おいしい」と誉めてスープのように啜る。しかしタモーラとサターナイナスは息子を食べてしまったと教えられた瞬間、体の中から物体(コンクリート片やボルト、古いレコードや雑誌、車のハンドルやホイールなど)を吐き出す。一方、リューシアスは伯父のマーカス(岩淵吉能)と息子のパブリアス(中川佐織)に食べないようにと止められていたのだが、敵の息子たちの人肉パイだと知りながら口にする。一方で自分の子どもたちを食べてしまった母親とその夫が、二〇世紀機械文明の末路を思わせる無機的なメディア(通信や移動の媒体)の残骸を吐き出し、他方でほとんどの係累が死んでしまった後にローマ皇帝となるリューシアスが暴力の連鎖の最後の環の一つとして、ローマとゴート双方の支配者となるために、母の乳と息子の血を混ぜあわせた有機物である人肉パイを口にする――家父長制度を支える女性の生殖能力の逆行による反文明的嘔吐という現実と、ローマによる永遠の平和(すなわち「パックス・ロマーナ」という戦争の永続状態)を標榜した家父長主義帝国の共同幻想とが交錯するのだ。啓蒙と文明化を旨とする国家の歴史は、女性の生理を搾取しながら、その産物である子孫の葬式を独占することによって、自らの支配を正当化する。しかしそれは一方において、自らの子どもを有機物として食し、かつ無機物として吐き出すという反文明的行為、すなわち埋葬の反転によって掘り崩される。そして他方においては、人肉食という文明の自己破壊が血と乳を基盤とした家父長制度を回復し、その制度を霊的にささえる先祖たちを国家共同体が追悼する展望を開くのである。
 ここであらためて思い出すべきは、ラヴィニアの「死に型」だ。ラヴィニアだけは自分の体重による肉体の落下によって示される自死の形態をとらず、その身体を受け止めた父親タイタスの嘆きによって受け止められ、静かに地面に安置される。この舞台ではじめて血のつながった親族の死が正当な形で悼まれるようにも見えるのだ。ここでようやく、シェイクスピアの原作では全く無視されていた母親が、ローマ帝国の異者であるとともに、日本風の葬式の傍観者として可視化されていることが、劇的な意味を持ってくる。22人もの男子と1人の女子を産み育てながら、その母親がまったく言及されないことの理不尽さを、この上演は改めて問題化するのである。夫や娘や息子たちが無残な死を遂げたという事実を、この母親はどのように受けとめているのだろうか? 彼女による喪はいったいどのように果たされうるのだろうか?
 これまで彼女は喪服を着た葬式の参加者でありながら、ローマの歴史の無関心な語り手のようにつねに「現在形」で物語を語り、冷蔵庫から食物を取り出したり、白い襦袢のなかに紛れ込んでいた赤ん坊の産着を見つけて匂いを嗅いだり、かぎ針で編み物をしたり、明確な映像を映し出さないテレビをつけたり消したりしているだけだった。その葬式は日常性に支配されて、喪に伴うべき哀悼や悲しみとは無縁であるように見える。しかし何度か、無関心な傍観者にすぎないタイタスの妻の日常空間と、殺戮が繰り返されるローマの非日常的な空間とが交差する瞬間がある。妻が読んでいた新聞をアーロンが取り上げ、それが密書となってタイタスの二人の息子によるバシエーナス殺害の証拠となる場面。この二人の息子の切られた首とタイタスが自分で切った手首とが、妻が冷蔵庫から取り出したコンビニ袋のなかのキャベツやバナナになる場面。妻が畳んでいた産着と、アーロンの息子とが重なる場面。彼女が電子レンジで温めた鍋が、タイタスの作った人肉パイとして宴会に出される場面……。
 そしてそのような交錯のなかで、もっとも強力に歴史の連環と異次元空間の交通を示唆する場面が、最後にやってくる。人肉パイの宴会の最後に、タモーラとサターナイナスが機械文明の残滓と化した息子たちを吐き出し、ラヴィニアがタイタスに、タモーラがタイタスに、タイタスがサターナイナスに、サターナイナスがリューシアスに殺される――殺戮と復讐の連鎖は終わることがないと思える瞬間、驚くべきことが起きる。タイタスの妻の真後ろにある冷蔵庫から、リューシアスの息子であるパブリアスが白い布に包まれた塊を取り出す。それがリューシアスに手渡され、「これが果実の赤ん坊というわけです、皇帝殿」という台詞とともに、ゴトッという音をたてて床に投げ出される。白い襦袢に包まれた冷凍肉が、アーロンの赤子の骸だというのだ。ローマとゴートとをともに統べる帝王となるであろうリューシアスとパブリアスという親子が、アーロンの企みによって冷蔵庫の中の「果実」にされた父親(祖父)と兄弟(叔父)たちの死に対する復讐として、凍らせ嘔吐した反文明の「赤ん坊」。有機物にして無機物となった赤ん坊を、野蛮なる生殖のメディアであった異民族の母親の胎盤へと回帰させること。子宮としての冷蔵庫。冷凍という死産。タイタスの腕や息子たちの首を保存していた母親の冷蔵庫が、ローマの家父長制度の鬼子であるアーロンの私生児を、女の下腹部をおおう襦袢に包まれた肉塊に変えてしまったのだ。ローマの母の孫から息子へと手渡しされた肉片こそは、産んでも産んでも死産せざるを得ない母親の胎盤から発する、慚愧にみちた喪の(不)可能をしめすシニフィアンではないのか。
 復讐の連鎖を断つ復讐。自分の悪行の最良の証であった黒い赤子が冷たい肉塊になってしまったことを見て、アーロンが茫然とする。タイタスの妻は匂いを懐かしそうに嗅いでいた産着をいとも簡単に「捨てよう」と言っていたが、彼女の子どもに対する思いはどうして曖昧なのだろうか? 男性中心の歴史によって認知されない妻にとって、21人もの息子と1人の娘の死が悲しくないはずはない。子どもたちの死をもたらした要因のひとつであるアーロンに対して、タイタスの妻が復讐を行う理由と意志と権利は十分すぎるほどある。だから本来ならば、アーロンの赤子の死骸を投げだす行為は彼女によってなされても良かったはずだ。しかし実際にこれを行うのは、彼女の孫のパブリアスと息子のリューシアスという、今後のローマ皇帝の系譜であって、ここでも母親の存在と貢献は歴史に記録されない。アーロンの悪行の証である黒い肌の赤ん坊がけっしてローマの歴史に認知されないように、家父長制度の要である母親の悲しみや怒りも冷蔵されたままなのだ。喪を発生させないこと。かけがえのない個体の死にあくまで留まって、家族や民族や国家といった集合へと転化させないこと。死体は肉塊にすぎないのだから、種から新たに発芽することもなく、種族の発展もない。おそらくタイタスの妻は、もうローマの子どもは二度と産まないという否定的な選択によって、復讐の連鎖を断ちきろうとした。であるからこそ、彼女にとってもう必要のない産着を「捨てよう」と言ったのではないだろうか。
 アーロンが主人公であった復讐の連鎖劇は、この赤子の死によってとつぜん終止符を打たれてしまい、結局アーロンも白人中心の歴史のなかでは認知されずに終わる。アーロンに対するタイタスの妻による復讐として、認証の拒否以上に効果的なものがあるだろうか。いかに悪行を重ねようと、マイノリティであるアーロンは、ローマの歴史に位置を占めることができないのである。最後に、中央に正座したタイタスの妻を除いて全員が倒れる。そのなかでアーロンだけがゆっくりと立ち上がり、タイタスの妻のところに近づいていき、彼女とアーロンの目があう。その瞬間、舞台全体がまるで血管のなかに入ってしまったように赤に染まる。時間が逆流するなかで、これまでニアミスに終わっていた二つの位相が重なり合い、タイタスの妻とアーロンが見つめあうのだ。歴史の周縁者同士の凝視――彼女の眼差しには微かな敵意の色が、アーロンの目には微かな諒解の色が。その赤の洪水のなかで関節を伸ばしたアーロンがまっすぐに立ち、静かに歩いて上手から舞台を出ていく。畳まれた身体の時空間が終焉し、満を持したように血の色が舞台に逆流するとき、暴力の連鎖が終わる。しかしそれは、メランコリーの時間が閉じられて喪の時間が始まる、ということなのだろうか?
 フロイトによれば、喪はメランコリーからの解放とされる。メランコリーとは、失われた親密な対象への憧憬の思いでありながらも、具体的にその対象が何であるかが把握できない状態である。失われたモノがいったい何だったのかが具体的な他者として認知されることによって、喪に服することが可能となり、それは記憶や追悼の対象として安定する。死者の思い出とは、何を喪失したのかがわからない状態であるメランコリーに陥っていた人が、喪の対象を歴史のなかで発見し、アイデンティティをもった他者に対する追悼の権能を回復することでもたらされる恩恵なのだ。
 これまでローマの歴史にもシェイクスピアの演劇にも登場することのなかったタイタスの妻から悲劇の原因であるアーロンへと向けられた一瞬の視線が、メランコリーによって分断された時空間を交接させ、舞台上の死者たちが喪の対象として発見される。そのとき妻が参加していた葬式は、白と黒、日常と非日常の段差を乗り越えて、安穏な室内空間から不気味な赤色の血管内への密室へと変貌する。しかし、舞台上にローマの死者たちが散乱する文明のアポカリプスのなかで、タイタスの妻は、自分の孫と息子がアーロンの赤子を肉塊として放擲するという復讐行為を黙認することによって、彼女は個人としても共同体としても再生産と喪のシステムに参画することを拒絶したのではなかったか。喪に服すべき対象が見出されたにもかかわらず、このローマの母親はメランコリーから脱却することを拒むのである。舞台を覆う赤い血の閉塞は、黒と白に判別された葬礼からメランコリーへの逆流のしるしだ。男性中心の社会は、喪を個人から国家や共同体に簒奪することによって、国家に奉仕する兵士の再生産を可能にしてきたのだが、タイタスの妻は最終的にそれを拒むのである。
 しかしタイタスの妻が喪を拒絶することは、夫や子どもたちを殺した者を許すことと同じではない。最後のアーロンに対する凝視が示すように、それは暴力の主体を忘却することなく見つめ続けているという意志の表れだからだ。同様に、タイタスの妻が復讐を断念するということも、テロ行為を容認することと同じではない。暴力の連鎖を止めるには、復讐を諦めるしかないことを彼女は知っているのだ。アーロンもタイタスの妻による復讐の中絶と喪の拒否を前にして、もともと自分の位置などなかった歴史の舞台を去る。白人男性中心の歴史の間隙に垣間見えたひとりの女性による喪の可能性は、彼女の歴史(her-story)のなかに開かれるはずだった。しかしそこにも場所を与えられることがなく、家族や係累のきずなを断たれた黒人の姦夫にとって、その可能性は皆無である。“History”という男性中心の歴史は、復讐と暴力の連鎖という他者排除の力学のなかで、他者の他者とされてきた膨大な数の、その死さえも認知されない女性たちや黒人たちを犠牲にしてきた。ましてやアーロンの子どもは“he”にも“her”にもなれずに、“it”にすぎない塊として投げ出されて終わる。タイタスの妻によるローマの同胞たちに対する喪の可能性は、復讐の物語に対する復讐を行うことで、永遠のマイノリティという歴史の不可視な存在として、妻たちと同じ位置にあるはずのアーロンやその赤子への喪を不可能とすることによって相殺される。タイタスの妻とアーロンの眼差しとが出会い、舞台に赤いメランコリーが横溢するとき、私たちは改めて思い知らされる――喪の死産を。無数の赤子や女性たちや黒人たちのような真正なる死者は、けっして弔われることなく、亡霊としていまだに歴史の周縁に徘徊していることを。そのことを不気味に認証するかのように、アーロンは誰にも追悼されることのないゼロ記号として、歴史という演劇の外に静かに歩み去っていくのである。

 

II. 『女殺油地獄』における喪からの逃走

1  撹拌するルパム

 山の手事情社の舞台表現に「ルパム」と呼ばれる集団演技がある。ルパムとは、リズム、プレイ、アクト、ムーブの頭文字をとった造語ということだが、俳優たちが特定の場面にふさわしい動きを自ら考案し振付けて、ユニゾンで踊る身体表現である。ここにも「四畳半」と同様、演出家の安田と山の手事情社の役者たちによる独自の空間把握が見られる。それを一言で言えば、縮減から拡張へ、部分から全体へということになるが、まずはそれを、この舞台の冒頭を飾るルパムを例にとって見ていこう。
 舞台上手の前方にピンスポットが当たり、与兵衛(山本芳郎)が体も顔も歪めて、右手で左腕を必死に掻いている。肉体を掻く行為は日常的なものと思われているが、実は動物の進化の段階で後期に属する哺乳類、しかも何らかの社会性を獲得したものに特徴的な動作であるように思われる。日常性とは他者意識の産物だ。背中の蚤をとってやったり、髪の毛をすいてやったり、接吻をしたりといった行為と同じように、体を掻くという営みも、その対象が自己であれ他者であれ、掻く者と掻かれる者とのあいだに社会性が存在しなくてはならない。この場面でも与兵衛の動きから発した動作は、しだいに他の役者たちの参加を経て、まずは男優たちによる同じ腕を掻く行為が増幅していき、それが次に女優たちによる胸をすばやく叩くような動きに翻訳され、ついにはそれが猛スピードのアンサンブルで繰り返される狂宴に化していくのだ。男たちが自らの肉体を掻こうとするのは彼らが抑圧的な環境のなかで焦燥感を覚えているからだろうし、女たちが胸を叩くような動作をするのは、共同体の周縁者として息苦しさに溺れるような閉塞感を感じているからだろう。ルパムは、人間集団の日常における社会的な位置取りを身体によって表現する果敢な手段なのである。
 ここでの鍵は加速と拡張であり、それを実証するのが役者たちの演劇的な身体性だ。身体性という点では、現在の日本語圏の演劇集団として、鈴木忠志のSCOTがまず思い浮かぶ。だがアンサンブルにおけるスピードとスペースの扱いにおいて、SCOTと山の手事情社は対照的とも思える。どちらの集団も人間の身体に潜む「狂気」をいかに表現するかに焦点を合わせているのだが、SCOTが病院という閉鎖的な空間における(ほとんど息をしていないかとも思えるほどの役者たちの集中力による)極端に収縮され沈潜した肉体における減速を旨とするのに対し、山の手事情社のルパムにおいては、個として存在していた肉体の狂気が街路や海や地上や空中へと解き放たれ、限りなく加速していくことでカタルシスのエネルギーが放出される。そこでは他者との関係性が、狂気を梃として個人から集団へと拡張され、日常が一気に非日常へと転化する。ルパムとはこのように、自己の身体を社会性という他者の網目のなかで確認する営みなのであり、よってそれは日常的な動きから発しながら、次第に非日常的な動きへ、というか日常が非日常に侵入されることと、個が集団に拡張されることとが同時に起こることで、舞台空間が異化されていく。肉体を掻くというひとりの行為は日常だが、それが次々にコピーされ増幅していけば、それは舞踊となり、暴動となり、革命となる。波紋と共振による情念と行動の覚醒が、共同体の規範を変革し、新たな社会性を生みだすのである。
 『女殺油地獄』におけるルパムのテーマは、撹拌だ。それは油の二重性、汚染と清浄、病気と薬効とをともにもたらす油の境界侵犯的な効能にふさわしい主題だろう。油は純度が高く新鮮であれば清めや薬品として役に立つが、空気に触れて酸化したり過剰に使用すれば、とめどない浸潤と汚染とを招く。人間にとって油はさまざまな副産物をもたらす貴重な資源だが、いったん管理を誤れば、水や空気によって洗浄することが困難となる、やっかい極まりない物質でもある。それは捉えどころがなく滑りやすく、すぐに分離してしまうので、使用するには運動させ掻きまわさなくてはならない。舞台上にある長いテーブルの下や戸棚に並べられた壺の中を満たす液体が不気味に暗示するように、油は一か所に集められれば、保存と死のイメージを喚起する。置かれた椅子や机上の皿は、ユダを除いたイエスの弟子たちによる最後の晩餐のイメージを誘発し、イエスとユダの死への共同体による喪の主題(キリストの復活、ユダの排除)にもつながる。生は死と、出産は死産と、清浄は汚穢と、水と油のように分離しながら、しかも混ざり合っているのだ。
 男の焦燥と、女の閉塞というジェンダーによる分割を示唆しながら、加速と増幅を旨とするルパムは、油の二重性を撹拌して、つねに停滞しようとする物体を運動へとおびき出そうとする。そのことが、主人公である油屋・河内屋の二男である与兵衛と、その周囲の人びととの関係にどのような影響を及ぼしているのか、そのことを次に検討しよう。

2  油(生理)と金(数字)の弁証法

 この舞台が原作としている近松門左衛門の『女殺油地獄』は、徹底して金の貸借勘定、すなわち数字の誘惑に憑かれた物語である。そしてクライマックスで、金ではなく「油の貸し借りならばわかりました」と納得したお吉が、与兵衛に殺されてしまう。金は貸せないが、油なら「互いの商売」なので貸せると譲ってしまったことが、与兵衛とお吉との関係を金銭的貸借関係から油脂的依存関係に変えてしまうのだ。そのような金と油との関係を、この上演は与兵衛という男の生理に翻訳する。演出の安田の解釈によれば、与兵衛は他者に頼ることでしか生きられない人間である。金銭的にも肉体的にも、自らの生産力というものをまったく持たない男。だから彼は徹底的に借りまくり、けっして返済しない。思い立ったらすぐに行動に出るが、けっして反省しない。肉体の意志や活力も薄弱で、継父である河内屋徳兵衛(浦弘毅)を足蹴にしようとしても自分ではできないので、徳兵衛自身が与兵衛の足を持って足蹴にさせなくてはならないし、母親のお沢(倉品淳子)が与兵衛を叱るときには、まるで息子を胎児として自分の胎内に戻そうとでもするかのように、与兵衛の頭を強制的に彼女の腹に抱えこむほかないのだ。
 与兵衛の徹底的な他者依存を、油の潤滑性をモチーフとして見事に表現するのが、劇中しばしば現れる幻想場面である。彼は男だろうが女だろうが、自己中心的な幻想のなかで他者におぶさろうとして、ぬらりと滑って果たせず崩れ落ちる。そうした他者依存が決して満たされないからこそ、与兵衛はますます乾き飢えて、借りを作ろうとするのだ。相手と有機的な一体性を形成しようとしても、彼は永遠の胎児のようにひたすら他者に依存するばかりで、自分から混ざり合おうとする努力をしないので、まるで油脂のように滑って確固とした関係を築くことができない。そして何より致命的なのは、そのようなぬらりと滑ってしまう他者との関係性の不全の原因が、自らにあることを与兵衛がまったく理解していないことだ。ここでの油は、人間関係を順調に進行させる潤滑油ではなく、関係を一方的に途絶させて幻想のなかに閉じ込めてしまう被膜として機能しているのである。
 しかし与兵衛を単なるダメ男でなくしているのは、その徹底した自由さだ。江戸時代の商人が武士から切り捨て御免と殺されても文句の言えない階級制度、堅気な商売を縛る経済的規範や家族の絆、貸し借り勘定を含めてあらゆる共同体の約束事――彼はそうしたすべてから自由である。金は返さない、嘘はつく、すぐに我を忘れる。体面を重んじる世間から見ればとうてい容認しがたい人間であるにもかかわらず、彼は遊女ややくざ者といった社会の周縁者から好かれており、両親や兄妹、叔父からもつねに気にかけてもらっている。与兵衛は人を騙そうとして深謀遠慮の末に嘘をつくのではない、ただ嘘をつくのだ。カネを返したくないわけではない、ただカネを持つとすぐに使ってしまうのだ。あらゆる生産や貯蓄や所有観念とは無縁で、ひたすら使用し蕩尽する究極の消費主義者。与兵衛は身分や掟にがんじがらめになっていた江戸時代の商人が羨望するアンチ・ヒーローなのである。
 しかし一方で、そのような自己保存の生理を持った油人間である与兵衛を、金銭の額をしめす数字に象徴される経済原理は正確に追い詰めていく。この舞台では、金銭が江戸時代の貨幣単位で言及されるたびに、それが現代の円貨価値に翻訳されてモニターに映し出され、役者の一人が丸い皿を舞台に開いた四角い穴の中に放り込む。皿の割れる音は、ちょうどキャッシュレジスターの引き出しが閉じられるチャイムのようで、金銭が究極のところ恣意的な数字によってしか価値を表明できない事実を明らかにしていく。貨幣はそれだけで商品価値と交換価値をともに持つシロモノだが、その秘密が数字の魔術にあることをこの仕掛けが暴くのだ。与兵衛が他者に覚える欲望もその数字の額に無意識のうちに規定されている。油のような捉えどころのない生理の持ち主である与兵衛にとって、唯一他者の価値を決め、自分とその他者との関係性を評価するのは、その数字だけなのである。

【写真】左から、妹・おかち(越谷真美)、継父・河内屋徳兵衛(浦弘毅)、与兵衛(山本芳郎)、母親・お沢(倉品淳子)  撮影=平松俊之
【写真】左から、妹・おかち(越谷真美)、継父・河内屋徳兵衛(浦弘毅)、与兵衛(山本芳郎)、母親・お沢(倉品淳子)  撮影=平松俊之

3  「のたうつ世界」からの脱出

 依存以外に他者との関係性を保つことができない与兵衛にとって、豊島屋七左衛門の妻お吉(山口笑美)だけは、何か別の関係性が生まれる可能性を持った人間だ。野崎参りで喧嘩をして泥にまみれた与兵衛を裸にして手ぬぐいで拭いてきれいにしてくれたお吉は、初めて自分を囲繞する油の被膜を越えてきた人だった。いわば、自分のぬらりとした部分を取り除いてくれたという意味で、他の人間とは違って一方的な依存を越えた関係が築けそうな相手として、お吉は与兵衛に認識されたのである。与兵衛にとってお吉は、自分の油のような生理を無化し、金銭的貸借関係を無価してくれそうな人間に思えたからこそ、彼は彼女のところに金を借りに行ったのではなかろうか。
 独自の発想による安田の演出が冴えるのもここだ。すでに言及したように、この舞台には液体の入った瓶が何列にも並べられている。それは油壺のようでもあるが、同時に照明に映えて透明に鈍く光る液体は、理科標本室の暗がりで生物標本を保存しておくホルマリン入りの壜を思わせる。そこには何も入っていないが、それゆえに死産した赤子のイメージを喚起しないだろうか? そう考えてくると、与兵衛が繰り返す動作、誰かに抱きつこうとしてぬらりと滑って崩れ落ちてしまう動きは、そのときスクリーンに映し出される映像が示唆するように、まるで母親の子宮のなかで胞衣に包まれている胎児の運動の比喩でなくてなんだろう。無垢と無責任と無関心の権化である与兵衛は誰かにすがって生まれたくても、誰も産んでくれない胎児なのである。
 胎児としての与兵衛を産んでくれた唯一の女性、それがほかならぬお吉だ。とすれば、この舞台でのお吉殺しの場面は、与兵衛の出産を寿ぐ情景ともなるはずである。歌舞伎でも文楽でも有名な、油に滑りながら与兵衛がやっとお吉を捕まえて殺害する場面は、おどろおどろしい演出の誘惑に駆られるところだろうが、安田の演出はここでもルパムを使うことで、与兵衛の殺意が一種の集団幻想であることを示唆する。まず与兵衛が手に持った脇差の光が油に映り、そのことをお吉が口にする――「灯油に映る刃の光。/今のは何、与兵衛さま。」この言葉によって、与兵衛にとっては自らが抜いた現実の剣が、幻想の領域における形象に変化してしまうのだ。声を立てようとしたお吉を抑えようとして、腕を傷つけてしまった与兵衛は脇差を落とし、お吉も逃げようとした拍子に油壺を倒して油がこぼれる。ここから油のなかをのたうつ「殺しのルパム」が始まる。その様子を上演台本は次のように描写している――

のたうつお吉を与兵衛は止めようとする。/お吉は与兵衛に抱きつくが滑る。/そこから与兵衛の幻想が広がる。/今まで抱きつけなかった人びとがそこここでのたうっている。/それを止めようとするたびに人びとは/与兵衛に抱きつくが滑る。/再び与兵衛がお吉に抱きつくと、/お吉をはじめ人びとがのたうち始める。/与兵衛はその世界から出ようとするが、/人びとはのたうつ世界に戻そうとする。/その世界から抜け出すために与兵衛は、/脇差を拾い、空間を切り裂く。/空間を切り裂くたびに、お吉の悲鳴が聞こえる。

先行する幻想に追随する行為――この描写を与兵衛の殺意発生の説明として捉えるのは無理がある。すでにみたように、与兵衛はお吉が「灯油に映る刃の光」を具体的なモノとして名指してしまったことによって、自分が持っている物体が他者を殺せる凶器であることを認識する。「刃の光」の「灯油」の表面における「光」の反射、という複数のメディアを介した記号がまず他者の言語をとおして認知され、それが自らの手に持った指示対象を名指しする。さらにその記号は、与兵衛の幻想が誘引する「抱きつこうとして滑り、のたうつ」という運動によって、意味内容を欠如させたシニフィアンとして滑落していく。そのズレを押しとどめようとして、与兵衛はかろうじて記号の指示対象としての「脇差」を拾い、お吉という他者のいる「空間」を切り裂き、同時に自分の被膜をも切除するのだ。舞台に充満する油は、出産時に破水して流出する羊水にほかならない。与兵衛にとってお吉の殺害は、自分にとってただ一人信頼できる人間との関係を断つ行為というよりも、お吉の存在する空間を切り裂くことだけが、彼女との関係を保つ唯一の方策なのである。
 与兵衛は「のたうつ」世界からの脱出を求めて、お吉を殺害する。お吉が死んだあとのルパムは、それまでの人びとが近接して、のたうち滑りまくる群舞とは違って、快活に踊る解放的なものであり、そこでの手つきも開いて閉じる「グーパー」が示すように、赤子が世界に解き放たれたときの喜びの表現だ。赤子の自立と死の忘却。だがこの解放のルパムは、その絶頂で産まれた子どもの孤独を示唆することを忘れない。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のような集団的踊りの頂点で、与兵衛以外の人物が突然、踊りをやめて歓喜の笑顔から無表情な素顔に戻り、すばやく舞台を去っていってしまう。ひとり残された与兵衛の驚きの表情、それはこれまでのぬらりとした関係を取り去られた彼が、そののち孤立して生きていかなくてはならない現実との落差を示すものだろう。「この脇差は栴壇の木の橋から川へ沈めよう。/沈む来世はまた見えぬ。今は幸運の到来」と与兵衛が言うように、自分を幻想世界から解き放ったモノとしての脇差を意識下に沈めてしまうことによって、与兵衛はお吉の殺害を忘却し、これまで自らがのたうつほかなかった油の支配する世界からも解放されはしたのだが、それは「沈む来世」という自分の人生を「見えぬ」ものとして、標本瓶のなかに棚上げしておくことでもあったのだ。お吉という母親を犠牲にした与兵衛の出産。こののち二度と与兵衛は他者に抱きつこうとしてのたうつこともなく、殺人があっさり露見しても、滑ることもなくあっけなく捕えられてしまうのである。

【中央・左から】与兵衛(山本芳郎)とお吉(山口笑美)  撮影=平松俊之
【中央・左から】与兵衛(山本芳郎)とお吉(山口笑美)  撮影=平松俊之

4 与兵衛のテロリズム

 与兵衛はなぜ、殺意が発生しないにもかかわらずお吉を殺してしまうのか? すでに述べたように社会関係に無関心で、そこから徹底して自由である与兵衛にとって、共同体の善悪の基準はまったく意味を持たない。彼の殺人は人を殺して金を奪おうという意志の結果ではなく、自分と他者が確固とした関係を築けずにのたうつ世界から脱出しようとする過程で起きた出来事だ。すでに述べたように、お吉は自分が何らかの形で行動することを許してくれた唯一の他者として、継父とも母親とも与兵衛が築けなかった関係をはじめて可能としてくれた存在である。それゆえ、油という捉えどころのないメディアを介したお吉との近接において、彼のアイデンティティの根元にあった他者依存――不特定多数の人びととの滑り落ち、のたうつ関係――が噴出する。だから与兵衛にとっては、たまたまその油空間に居たのがお吉であっただけで、抹消したかったのは自分の周りを囲繞する、ぬらりとした空間なのである。
 かくして与兵衛の暴力は、テロリズムのそれに限りなく近づく。(観客にとってこのような連想は、『タイタス・アンドロニカス』においてアーロンとラヴィニアを演じた俳優と、『女殺油地獄』において与兵衛とお吉を演じた俳優が同じであることにも基づくものでもあるだろう。)テロリズムの暴力が解決困難であるのは、そこにおいて殺意がいかに生まれるかではなく、具体的な対象に対する殺意など生まれようもないにもかかわらず、殺人が行われ、しかも殺害者においては人間性解放の手段として正当化されるという、究極的な無差別性にあるのだ。
 かつてハンナ・アーレントは『革命について』(1963年)のなかで、フランス革命におけるロベス・ピエールのテロルを支えていた原理が、「美徳と悪徳」ではなく、「同情と憐憫」の軸にあったと書いた。同情(compassion)とは情熱や感情(passion)を共有する(com)状態である。「同情」が自分とは同じ立場にある人びとに向けられるのではなく、まったく異なる立場の人たちに向けられたとき、それは「憐憫」となる。フランス革命におけるテロリズム、政敵ばかりか同じ党派の仲間や友人たちまでも処刑台に送ったロベス・ピエールの行動原理は、この自分とは異なる立場に居ると彼が幻想した下層の民衆にたいして情念を共有することに基づいていたというのだ。ここで言う「同情」は、自分とは距離があって縁もゆかりもない人びとに対してであるからこそ発動される、想像上の感情移入であって、それゆえに抽象化され一般化されて強力な民族主義や排外思想として無差別に広範な他者を排除するのである。
 『女殺油地獄』における与兵衛のテロリズムも、同様の構造を持っている。与兵衛は親戚や商売仲間や遊女や家族といった周りの人間に依存し、抱きつきたい衝動をつねに持っていながら、それが果たせない男だ。それがお吉という、唯一抱きつくことを可能にしてくれそうな人間に出会うことで、幻想が集合的に発揮される。「殺しのルパム」が画期的なのは、与兵衛の幻想のなかで無数の知人たちが彼に抱きつき、彼をのたうつ世界に引き戻そうとすることである。その絆を断ち切ろうとして、与兵衛は脇差を振るい、そののたうつ空間を切り裂いて、結果的にお吉一人を殺してしまうのだが、彼が殺したかったのは、自分と同じ情念を共有し、自分に抱きつきたい衝動を起こさせる他者たちだった。よって与兵衛の抱きつきたいというパッションは無数の他者たちと共有されるものだったが、彼ら彼女らとのそのような情感の絆を断ち切りたいという暴力的な衝動が、ほかならぬお吉との対面において発動される。お吉という特定の人間に対する欲望が、不特定多数の他者に対する暴力として発揮され、その無差別性が彼をテロリストにするのである。

5 死への無関心

 のたうつ油世界から解放された与兵衛は同時に、数字の支配する貸し借り勘定の経済世界からも解放されたように見える。彼はお吉から奪った金で、殺人など全く忘れたかのように、小菊(大久保美智子)のもとに通い、さらにお吉の三五日の逮夜に遺族の家に焼香のためにやってくる。因果応報の原理からすれば、また借りたものは返さなくてはいけない経済原理からすれば、これは明らかに理不尽なのだが、与兵衛はまったくそのことに気がついていないように見える。そしてお吉の家で、自分が彼女を殺害した証拠として、「所々に血の付い」た「野崎参りの割当の十匁一分五厘という書付」を発見されて捕えられてしまう。たしかに彼は油にのたうつ無差別な世界からは解放されたのかもしれないが、正確な数字にもとづく経済原理は彼を解放することはないのだ。舞台を締めくくる「与兵衛のざんげ」はこう語られる――

上銀一貫目の借用が、一晩過ぎると親の難儀になる。その親不孝が自分で許せぬと気を取られ、人を殺せば人の嘆きや人の難儀ということにまったく気付かなかった。犯人は河内屋与兵衛。私もお吉どのもお救い下さい。

「ざんげ」と呼ぶにはあまりに無関心な表明を、与兵衛は誰に向けるともなく、まるで自分の内面に呟くように語り、舞台はいきなり闇に包まれて芝居が終わる。この無責任男に社会的な罰は似合わないから、おそらくこの「ざんげ」をもって与兵衛は罪を許されてしまうのではないか、という予感さえ観客はいだく。「親」と言い「人」と言っても、ここには微塵も責任や応報の観念がない。与兵衛をひとりのテロリストであると断じざるを得ないのは、彼自身がこのように懺悔を自分のなかの論理だけで解消して、他者に追悼されることを拒むからである。この「犯人」は誰にも悼まれることなく、死にも喪にも関心を抱かない。与兵衛の人生には全く積極性というものがなかったが、その最後の「ざんげ」にも、他者への働きかけが欠如している。追悼がなんらかの情念の共同体を基にしているかぎり、他者意識のないところに喪は成立しようがない。舞台が突然の暗闇によって閉じられてしまうように、私たち観客が与兵衛に向けた同情の回路も完成しないのである。
 与兵衛は自分の生に無関心であったように、死にも無関心なのだ。究極の無責任とは、他者だけでなく自己の生死にも責任を持たないことである。それこそが与兵衛という、自己に対するテロリストの自由を保証する。かりに与兵衛が罪業ゆえに殺されたとして、そこに喪の可能性はない。所有ではなく使用。生産ではなく蕩尽。罪と罰ではなく生理と快楽。社会的絆にたいしてまったくなんの応答責任(responsibility)も持とうとしない与兵衛は、血に対する油のように、いつまでもどこまでも混ざろうとはしない。「ざんげ」を終えて舞台を去ろうとする与兵衛の行き先は、あの透明なホルマリン漬けの標本瓶のなかではないだろうか。
 それでも問いがたゆたう――舞台に落ちてくる最後の闇はいったい何を意味するのだろうか? 通常の演出で暗転は、場面転換のあいだ観客になにも見せないためか、あるいは視覚をいきなりカットアウトして意想外の終結をもたらす仕掛けだが、安田による『女殺油地獄』の終わらせ方はそのどちらとも違う。なにかベタッとした重たい湿度のある暗闇が落ちてきて、私たち皆をすっぽり包むような感覚なのだ。余韻ではなく当惑。解決ではなく不安。問題にまで至らない問い。ここで参照すべきなのは、黒い世界に突然訪れた赤い血の逆流という『タイタス・アンドロニカス』の終わり方だろう。もしかすると、それとは反対のことが、あるいはその後に起きたことが『女殺油地獄』の最後では描かれているのではないか? ここで思い出されるのは、与兵衛の衣装が派手な赤だったことだ――赤いテロリストだけでなく、世界全部を最後につつむ黒。舞台に並んだ壜のなかの液体が透明で、動植物の有機的な体内から精製され質量も軽い薬品のような油であるとすれば、舞台の終わりに落ちる闇は、ドロリと重い無機的な原油ではなかろうか? 与兵衛が有機体内のファットからできた薬品入りの壜に回帰する一方で、地中の禍々しいオイルに覆われて私たちの時代は閉塞するのか? 動植物から生成された油脂ならば、有機体なので環境に害を与えることはないだろうが、石油を化学合成によってプラスチックや衣料にしてしまったら、元に戻すことは出来ずいつか廃棄物になるだけである。『タイタス・アンドロニカス』で、息子たちを食べてしまったタモーラとサターナイナスが文明のゴミを吐き出したように、『女殺油地獄』の最後に我々の上に落ちてくる闇は、江戸時代から現代に転生した与兵衛が吐き出した石油の末路を暗示するのではないだろうか。
 もうひとつ気になるのが、舞台に頻出する四角い形象だ――皿が投げ捨てられる四角の穴、テーブル、モニタースクリーン、人物が退場する四角いゲート、そして舞台冒頭のルパムで与兵衛に当たり、また殺される時のお吉にも当たる四角いスポットライト。この四角い穴は歴史の穴でもあるだろう。皿が四角い穴に投げいれられて貨幣が鳴る音がすると、四角いモニターに江戸時代の金銭表示と現代の金額とが翻訳されて表示される。その等式はイコールで結ばれているが、すでに述べたようにそれは数字の詐術に過ぎず、江戸の価値と今の日本の価値が同じであるはずはない。だがこの劇は、本来通約不可能であるはずの、油と金銭とを通交させることで、江戸と現代という二つの時空間をつなぐのだ。最後に赤い与兵衛を包み込む原油の闇は、これまで見つけることのできなかったゲートを彼がついに潜ったときに見た別次元の風景なのではなかろうか――穴からモニターへと結ばれた近代資本主義の連鎖を駆動する、宝物である原油。「ざんげ」をした与兵衛は、反省して罪を認めるわけでも、捕えられて獄門にかかるわけでも、地獄に落ちるわけでもない。ただ与兵衛はドロッとした暗黒の中に消え、その闇も瞬時に消えて、すぐに続くカーテンコールで彼を演じた山本は簡単に頭を下げて、一人そそくさと舞台から出て行ってしまう。まるで「赤」というテロリズムの自由を、「黒」という資本主義システムによって奪われた主人公を恥じるかのように。赤が黒に包まれた闇のなかで、ひとりのテロリストが原油の圧倒的な力の前で退散する。「油地獄」とは元禄時代のひとりの女を殺した現場であると同時に、四角い穴から逆流してくる黒い化石燃料によって近代世界が奴隷とされてきた現実の隠喩だったのである。

 

おわりに――アンティゴネ・コンプレックス

 ソフォクレスの『アンティゴネ』は、国家共同体の閉鎖的で排他的な規範によって兄の喪を禁止されたアンティゴネが、国家の禁令に逆らい、自らの死をもって喪を遂行する演劇である。彼女にとっては自分が哀悼すべき対象は明確だが、テーバイ王クレオーンはテーバイを守って戦った別の兄(エテオクレース)だけが国家の追悼儀礼にふさわしく、アンティゴネが喪に服そうとするもうひとりの兄(ポリュネイケース)のほうは追悼に値しないとして、彼女をメランコリー状態に引き戻そうとする。個人の喪において、失われたものに対する哀しみと愛は同時に発見される。愛と哀しみのどちらかが欠けているかぎり、人はまだ喪失した対象が何であるかが分からないメランコリー状態にある。共同体はその状態につけこむことで、喪失した対象を「戦死者」とか「英雄」とか「犠牲」と集合的に名指し、真の喪の過程から人を引き離そうとするのだ。個人による喪が重要なのは、喪失したものを喪失したくはなかったのだという悲哀を自ら受け入れることによって、対象に対する愛を再確認できるからである。共同体はその喪失や悲哀を、愛国主義やナショナリズムによって置き換えることで、人を偽りのメランコリーへと引き戻そうとするのだが、アンティゴネという主人公が観客の共感を呼ぶのは、彼女がそのようなトリックに抗い、自分の生を賭して喪の可能性を開こうとするからなのだ。
 それに比して山の手事情社の『タイタス・アンドロニカス』における喪の可能性は、タイタスの妻とアーロンという対極的な存在が時空を異にすることによって、十分に満たされることがない。母と黒人という、ともに男性中心の歴史から排除された存在による喪への取り組みは、互いに相殺されて結実しないのである。タイタスの妻は喪服を着てはいるが、いっさい葬礼に参加することはなく、彼女の日常と喪との関係は曖昧だ。最後の場面にいたって、ローマの死者が舞台に横溢しても、タイタスの妻は母親として喪に服することを拒絶する。その姿勢によって、かろうじてローマの母と、どこにも居場所のないアーロンとが周縁性の一点で結びつくのだ。
 『女殺油地獄』の主人公与兵衛も、究極の周縁的存在である。彼は誰とも確かな関係を構築することができずに、ただ孤独な幻想のなかで人びとに抱きつこうとして、ぬらりと滑り果たせない。その彼が唯一、油の被膜を越えた関係になれそうだったお吉を、与兵衛は逆説的なことに油と金銭の支配する世界からの脱出のために殺してしまう。誰かに抱きつきたいという幻想の非日常に支配されていた与兵衛には、共同体が集団としてのアイデンティティを確認するための喪の儀式は無縁だ。喪を拒絶する意志の強さを持たない与兵衛にとって、自己の生理からも共同体の経済原理からも逃走し、自身の生死に無関心をつらぬくことだけが、個と集団の確執によって駆動される喪への欲望に抵抗する唯一の方策だったのである。
 喪を拒んでメランコリーに留まることが、民族共同体の論法に抵抗する原理となりうる。「アンティゴネ」を国家による戦死者の追悼に対する反抗として読み解き、ひとりの妹による喪の困難と、それゆえの愛と哀しみへの滞留を尊重すること。死産する喪を凍結する冷蔵庫とホルマリン液入りの標本瓶の中に閉じこめ、永久に発芽させないことによって、テロリズムの連鎖を断つこと。黒から赤、赤から黒へと変化する世界の色のなかで、灰色の肉塊となったアーロンの赤子と、油の詰まった瓶に回帰した胎児の与兵衛――山の手事情社が類まれな劇的想像力と身体的創造性によって現出した『タイタス・アンドロニカス』と『女殺油地獄』における喪の(不)可能性は、産まれることが死産でしかない歴史上の数限りない周縁者たちが、国家思想や経済原理の支配する共同体による喪にあらがう姿を幻視させる。血が逆流し、油がのたうつ四畳半におけるルパムを目撃する私たち観客も、個々のかけがえなき死を共同体の物語に回収しようとする喪の誘惑と、今しばし闘いつづけるべきではないのか――山の手事情社が注視する孤独な周縁者のサバイバルは、そんな未来の展望さえ開くのである。