「アヴィニョンに風が吹く──2014年のアヴィニョン演劇祭から」──藤井慎太郎
1947年に創設され、2014年に第68回を迎えたアヴィニョン演劇祭は、1282万€(約18億円、2014年)の予算とのべ10万人超の入場者数を数え、言わずと知れた世界最大級の演劇祭である。今年から新しい芸術監督にオリヴィエ・ピィを迎えて(創設者ジャン・ヴィラール以来の演出家である)、祝福の中、幕を開けるはずであった。ところが、アンテルミタン(1)をめぐる問題に決着がつかないまま、7月4日に予定されていた開幕2作品がいずれもストライキによって中止となり、翌5日には大雨に見舞われ、その後も1週間ほどはミストラルと呼ばれる強風が吹き荒れ、何とも不穏な幕開けとなった。筆者は「イン」の作品20本あまりを見る機会に恵まれたが、ここでは印象に残った数本に絞って論じたい。
そんな中、SPAC(静岡舞台芸術センター)が製作した『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』(宮城聰演出、ブルボン石切場)と『室内』(クロード・レジ演出、ヴデーヌ劇場)はいずれもきわめて高い評価を得た。とりわけ『マハーバーラタ』は、ピーター・ブルックが1985年に同名作品を上演したときと同じブルボンの石切場で公演が行われたが、悪天候とストライキによって2回の公演中止に見舞われたものの、日本とは比較にならないほどの喝采を浴びた。私が見た晩は観客の半分ほどが熱狂的なスタンディング・オヴェーションを捧げていた。文楽に倣った声と動きとの分離は知的なものだが、寓話として単純化された物語、美的に洗練された衣裳・装置によって、紙芝居や人形劇のように舞台を見ることを可能にし、さらに音楽が強い一体化を促す。フランスはつねにジャポニスム的な美の系譜(幻想の日本の影)に強く惹かれてきたのも確かだが、感覚的に一体化を誘いながら同時に知的に距離を求めるところにこそ、そうした高評価の理由があったように思われる。同じ日本勢としては、伊藤郁女が発表した小作品『苺のルリジューズ』(サン・ジョゼフ高校聖処女の庭)も喝采を浴びていた。近年はヨーロッパでの活躍がめざましい伊藤だが、体重にして自分の3倍はあろうという巨体の俳優(おまけに毛深く、禿げているのだが、愛着を感じさせる)オリヴィエ・マルタン=サルヴァンとのユーモラスなデュオを、絶妙な(アン)バランスの上に成功させていた。
シチリアはパレルモを本拠地とする女性演出家エンマ・ダンテによる『マカルーゾ姉妹』(ミストラル高校体育館)は、タイトルの通りに7人姉妹と両親(特に父親)との関係が作品の中心となる。回想のかたちをとりながら、貧困、死、悲しみと無縁ではない家族の過去が、しかしユーモアを交えて、遊び心たっぷりに温かく描き出される。7人の女性はその舞台前方に横一列に並び、観客に向かってシチリア方言で綴られた台詞を発する。演劇的で(笑劇的でさえ)ある場面と、その間に挿入される、無言で踊られるダンスの抽象的で洗練された場面との絶妙な距離(あるいは落差)がほろりと感動を誘う。そのとき、マカルーゾ一家が饒舌に言葉を継ぐ一方で、装置もない舞台は空虚で暗闇に沈んでいたことを思い起こす。きわめて生き生きとしている家族の何人かはいささか唐突に死んでいくのだが、シチリアならではの濃厚な生もしかし、死せる闇の中の泡沫でしかないことを理解するのだ。
イーヴォ・ヴァン・ホーヴェがアイン・ランドによる同名小説を翻案・演出した『水源(ザ・ファウンテンヘッド)』(サン・ジョゼフ高校中庭)は、今年のアヴィニョン演劇祭で最も高い評価を得た作品であっただろう(『摩天楼』という日本語題名で映画化もされている)。ベルギー、フランダース地方出身で、現在はオランダのトネールフループ・アムステルダムを率いるヴァン・ホーヴェは現代演劇で最も高く評価される演出家の一人であり、前評判も高かったが、期待を裏切らない出来栄えであった。20世紀前半の米国の建築家たちの成功と失敗、興隆と没落を描く叙事的小説が原作だが、俳優の演技と存在感、ユニークな空間的構成(中世の宗教劇に見られた並立舞台のように、必要とされる舞台装置ははじめから舞台上に並んで存在している)、映像の巧みな使用(上方から舞台を撮った映像やあらかじめ準備された映像がテンポよく映し出される)、マイクの使用(俳優が不自然に叫ぶことを避けるとともに映画的効果を強める)とによって、休憩を挟んでほぼ4時間という長さの間、観客を飽きさせることがない。ただ、巧みな演技と演出に魅了される一方で、原作を大幅にカットしながら演劇化したがゆえの飛躍や登場人物の不自然さも感じられたし、そもそも、なぜ今アイン・ランドなのか、『水源』なのか、という根本的な疑問は解かれないままであった。
イスラエルを本拠地とする振付家アルカディ・ザイデス『アーカイヴ』(シャルトルーズ修道院)は、観客に不思議な効果を及ぼすダンス作品であった。作品は決して「おもしろい」ものではないし、作品は、ドラマやスペクタクルに結びつく効果を生み出すことを念入りに避け、むしろ「貧しさ」を志向する。舞台を構成するのは、ザイデス本人のほかには、映像とスクリーンのみである。パレスチナ人にヴィデオカメラを貸与し、イスラエル人から受けた暴力を映像に記録させているイスラエルの人権擁護団体(B’Tselem)の協力を得て、その「アーカイヴ」から選ばれた映像が投影される。(通常思われているのとは反対に)パレスチナ人に向かってイスラエル人が投石するものが多いが、それとて決して「劇的」なものではない。侮辱の言葉に字幕は付されず、映像が撮られた状況を簡略に説明する字幕以上の説明はない。その前で、ザイデスが映像の中の人物の動きを抜き出して反復する。観客に聞こえるのは、ザイデス本人がマイクを用いて発する声、映像に録音された音のみであり、そのほかに音楽はなく、照明の変化もない。観客にいかなる効果も及ぼすことを自らに禁じているかのような反スペクタクルの姿勢は徹底している。正直に言ってしまえば、この作品を見る前日に、丘の上からガザの空爆をポップコーン片手にスペクタクルとして眺めるイスラエル人に関する記事を読んでいなかったら、それによって、どれほど耐えがたい現実の暴力でさえも娯楽として安心して消費できてしまう観客の位置がこの世界には存在することを意識していなかったら、作品はもっと退屈なものに見えていたかもしれない。だが、ユダヤ系でありながらイスラエル社会に疑義を突きつけるザイデスの存在と作品は、決して簡単には消費・消化できない異物として観客の記憶の中に残り続ける。舞台作品(スペクタクル)であることと暴力のスペクタクル化を自制することとの間で、これは唯一の可能性であったのではないかとすら思われたのである。
この短いテクストの締めくくりとして、ヴァンサン・ボードリエとオルタンス・アルシャンボーがディレクターを務めていた時代と敢えて比べてみよう。今年のプログラムについては「テクストへの回帰」がさかんに言われたが、成功した作品が少なかったせいか、あまりそういった印象もない(弱冠32才のトマ・ジョリーが演出し、上演時間が18時間に及んだ『ヘンリー6世』は大絶賛されたが、残念ながら私は見ていない)。先駆性を追求した前ディレクターの路線とのちがいを打ち出そうとしたためでもあろうが、「五大陸、17か国」から作品を招聘したことを主催者は強調していたが、人類学的な(エグゾティックな)多様性は保たれたとしても、観客をほんとうに驚かせる力を持った作品、とりわけ絶賛と拒絶の間で観客を二分しかねないような強さをもった作品はわずかであった(アヴィニョンの風物詩(?)ともなっていたブーイングが今年はほとんど聞かれず寂しかった)。表現としてはみな現代的であるのだが、つまるところ、落としどころが容易に見出せる、予定調和的な作品が多かった印象である。ヨーロッパのフェスティヴァルや劇場で働く友人・知人たちの評価も「どうしても見たいと思わせる作品がない」と総じて辛いものであった(と言いつつも、みんなアヴィニョンに足を運んでいるところが示唆的ではある)。最終的に客席稼働率は90%に達したというが(2013年は95%だったが、今年の悪条件を考えればかなり健闘したともいえる)、その一方で、(演劇祭にも来ないだろう)一般市民と(演劇祭の観客のコアをなす)プロフェッショナルの両方の心が離れつつあるのを感じずにもいられなかった。とりわけ後者の心をつなぎとめるべく、来年からプログラムの軌道修正が図られることは大いにありうるのではないだろうか。