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撮影=寺尾恵仁

はじめに

 2024年2月21日~27日にかけて、特定非営利活動法人DEKU ART FORUM主催による第1回下北沢国際人形劇祭が開催された。ヨーロッパ5か国8団体の上演をメインプログラムとし、その他レクチャー、ワークショップ、コンサート、トークイベント、短篇人形劇連続上演「パペットスラム」、デイリー・ジャーナルの発行など、豊富なサイドプログラムによって充実した日程となった。本フェスティバルの意義は、国際的に高い評価を受けている小規模の人形劇団が日本に紹介されただけにとどまらず、日本においてまださほど一般的ではないオブジェクト・シアターという形態の豊かな可能性が示されたことだ。

撮影=寺尾恵仁

 オブジェクト・シアターでは、人間や動物を模したいわゆる「人形」(手操り人形、糸操り人形、抱き人形、棒遣い人形、影絵など)ではなく、棒や箱や綿といった何の変哲もない日常的な物体を用いて、物語が生み出される。モノが何か別のモノやヒトに見立てられることもあれば、モノ自体が何か不可思議な、愉快な、奇妙な、刺激的な存在のあり方を示す場合もある。モノそれ自体と、それを操るヒトとの相互作用は、時にヒトとモノとの、操作するものとされるものとの主客の関係を反転し、遊戯的に問い直す。それはとりもなおさず、人間が人間を演じるという演劇そのものに対する問いかけともなる。

 山口遥子によれば、1970~80年代のオブジェクト・シアター隆盛、その後の人形劇とオルタナティブ・シアターとの相互越境によって、近年の国際人形劇シーンでは一切人形の登場しない「人形劇」は珍しくない。それどころか通常のオブジェクトも存在せず、「人形(劇)」という概念を発展・解体させる試みも多く、それとは逆に古典的な「人形劇」固有の意味を改めて捉え直そうという動きも出ているという1)山口遥子「サスペンス! チェコ人形劇フェスティバル、中止の記録」Webマガジン『シアターアーツ』。今回のフェスティバルでも、上演された作品の手法も技術も多様であり、「人形劇」という形態の奥深さ・幅広さが改めて感じられた。公式HPによれば、以下のような選定基準が設けられたということだ。

(1)他の芸術部門によっては表現できない、人形劇固有の技術と方法論を示す作品

(2)人形劇史を踏まえ、現在の人形劇芸術を代表すると言える作品

(3)政治的・社会的・倫理的課題に新たな視点をもたらす作品

(4)最低2作品は小学生以上の子どもが対象に含まれること2)下北沢国際人形劇祭」公式HPより。

 洋の東西を問わず、人形劇はしばしば子供向けの芸術と見なされるが、それによって国家の検閲や弾圧をかいくぐり、政治的表現を行ってきたという側面がある。人形劇の歴史をたどれば、子供の娯楽という要素と、国家権力や社会構造に対する批判あるいは諧謔という要素が結びついていることが分かる3)加藤暁子『日本の人形劇 1867-2007』法政大学出版局、2007参照。。今回のフェスティバルは、そうした人形劇の歴史に対して自覚的であり、上演作品に対して広い意味で政治的芸術であり、かつ子供=未来のための芸術であることを求めている。以下、上演された作品群、そしてサイドプログラムを概観し、そこで提起された問題について考えてみたい。

 

2月21日(水)Teatro Matita(スロヴェニア)『犬の生活』

『犬の生活』
作・演出・音楽・出演=Matija Solce
2月21日(水)/下北沢 ザ・スズナリ
©Yuri Manabe

 チェコの作家カレル・チェペックが愛犬のために書いた童話『ダーシェンカ』を一つの突破口にして、現代の政治状況とチャペックが死んだ第二次大戦前夜のイメージが重ね合わされる。スロヴェニアのアーティスト、マティヤ・ソルツェは、まるで熟練のマジシャンのようだ。華麗に動く彼の十本の指によって、ドクロの指人形や子犬に見立てられた箱が躍動する。

 ソルツェがサングラスをかけて、小さな生き物たちに身分証明書を求める。カンガルーのパペットは、ポケットに入れていた酒瓶やフォークや時計を残らず没収されてしまう。バッテリーが没収されるとカンガルーは動かなくなるといった細かい芸当に笑っているうちに、ソルツェの台詞から、ここが保養所を装った強制収容所だということが分かる。ぬいぐるみたちは列車の音とともに消え、ソルツェは笑顔で手を振り、ドイツ語で“Arbeit macht frei.” (「働けば自由になれる」、アウシュヴィッツ強制収容所の門に刻まれた言葉)と呟く。

 「人形劇国の大統領」が現れ、「人間は問題だ、ピーナッツを食べ過ぎるし、養生テープを使い過ぎるし、そして自分たちを操る!」と演説し、「人間、消えろ!」とシュプレヒコールを繰り返す。大統領は観客に何度も“Do you love me?”と問いかけ、観客の喝采と賞賛を求めるが、観客の“(love) you!”という応答はいつの間にか大統領によって “fuck you!”にすり替えられてしまう。「国民はなんて馬鹿なんだ!」という大統領の呟き。“Wir sind blau!”(「我々は青だ!」、イスラエルのシンボルカラー、およびドイツ・オーストリアそれぞれの極右政党のシンボルカラーでもある)というフレーズとともに、イスラエル政府のガザ侵攻についてのアナウンスが流れる。先ほどの台詞は、もしかしたら“Wir sind braun!”(「我々は茶色い!」ナチスのシンボルカラー)だったのかもしれない。

 パフォーマンスに熱狂する観客が軍国主義や全体主義における民衆に重ねられるという見立て自体は、さほど目新しいものではない。この日のスズナリの観客がこうした見立てに無自覚だったとは思えない。多くの観客は、観客自身がそうした批判的な眼差しを向けられることも含めて、パフォーマンスを楽しんだのだろう。それは一つには、人形対人間という構図が作られることによって、また「イスラエルはナチだ」とも取れるアブナい主張によって、パフォーマーと観客との間に、一種の精神的共犯関係が成立していたからだ。

 大統領の演説が終わると、ソルツェは箱一杯に詰まった綿をちぎっては子犬に見立てる。戦争に突き進む演説がラジオから聞こえる中での、ささやかな生の喜び。チャペックは肺炎で死んだとされるが、本当の原因は、自身の愛した世界が失われていくことへの絶望だという語りが日本語で流れる。ソルツェが日本語で「私が本当に欲しかったものは…」と呟いて終わる。

 いくつもの位相が重なり合い、統一的なドラマトゥルギーを見出すことは難しいが、現代の人形劇アーティストであるソルツェが、『ダーシェンカ』という子犬の物語や、子犬を欲しがった自身の幼少期の思い出を演じながら、チャペックに同化していってしまう物語だと見れば、一応の説明はつく。ただしオブジェクト・シアターの面白さは、絶えずそこに存在するモノの物語が、そうした人間の物語を異化あるいは相対化する視点を生み出すことだ。肺の病気でせき込むのは、ソルツェ(が演じるチャペック)というよりも、ソルツェが大事そうに抱える箱であり、その箱が演じる子犬である。こうした人間の物語とモノの物語が交錯しながら、上演という総合的な時空間を形成するところに、オブジェクト・シアターの眼目があるのだろう。

 

2月22日(木)Darragh McLoughlin(アイルランド)『STICKMAN(棒人間)』

『STICKMAN(棒人間)』
作・演出=Darragh McLoughlin
2月22日(木)/下北沢 ザ・スズナリ
©Yuri Manabe

 一人の男と一本の棒、そして一台のモニター。男が棒を持って歩き出すと、モニターに「男が棒の散歩をしている」「男が棒と散歩している」「棒が男の散歩をしている」などの言葉が浮かび、舞台上の出来事を意味付けしていく。男が両手の上に棒を立ててバランスを取る。男が上を向くと「司祭」であり、下を向くと「乞食」になる。男が目をつぶったまま手の上に棒を立ててバランスを取る(平然とこなしているが、見事な技術である)。ゆらゆらと小刻みに揺れる男を、モニターの文字が「船の上」など意味付けしていく。

 オブジェクト・シアターを伝統的な人形芝居と区別する一つの要素は、人間が人形を操るという一方的な関係性を問い直し、モノ自体の特性やその自律性をパフォーマンスの中心に据えるという原則である。その意味で、棒と男の関係性は、〈ヒト:主体〉 〈モノ:客体〉という関係性を遊戯的に問い直す。ただし、そこで中心的な役割を果たすのがモニター上の言説であることは重要である。と言うのも、観客はモニターの言説を見て初めて、舞台上の出来事を〈理解〉するのであり、観客の認識はモニターの言説に依存しているからだ。それを逆手に取るように、モニターは時に舞台上の出来事とは明らかに関わりのない言説を示したり、それどころか「見ているものを言い表される気分はどう?」と自律的に語りかけてきたりする。さらにモニターに「男が走る」と現れると男は走り出し、「もっと早く!」となると、男は速度を上げる。だんだんと、このパフォーマンスを統括しているのがモニターの文字であることが明らかになってくる。

 ただし、こうしたルールに観客が慣れてくると、今度は「男はテレビを裏返す」という指示によって、文字通りルールがひっくり返されてしまう。観客からはモニターが見えないまま、モニターに文字が現れる電子音だけが鳴り響く。やがて男は再びモニターを客席に向けるのだが、その指示は果たしてどこから出て来ているのだろうか? 男はモニターの指示を全てあらかじめ知っているのだろうか? …と、問うのは本来ナンセンスである。舞台上の男がアーティストであり、この作品の創作主体であることは明らかだからだ。それでもこう問いたくなってしまう。

 「男はクモ膜下出血を起こす」「男は死ぬ」という指示によって、男は舞台上で倒れ込む。するとモニターの指示は観客に向けられる(「だれかが男を椅子に運ぶ」「だれかが男を棒で殴る」)。そのつど観客のうち何人かが舞台に上がり、モニターの指示を遂行する。「だれかがテレビの裏に何かを見つける」という指示に対して、周囲の大人に促されて二人の子供が舞台に上がろうとすると、「もう少し年上の誰か」という指示が現れるのには驚かされた。

 やがて舞台上の男の友人であるというジョーが登場する。彼は、自分がモニターの言葉を操作していたと語る。ところがモニターには、「ジョーの言う事を信じないで」。やがてジョーがモニターの電源を切ろうとすると、モニターには「ジョーが死ぬ」「電源を切らないで」「お願い」といった文字が浮かぶ。懇願むなしくモニターの電源は切られ、ジョーは破砕機で棒を破壊する(途中で機械が止まり、しばらく棒が小刻みに震えるのもまた、奇妙に劇的な瞬間だった)。モップで木屑を片付けようとすると、モップの先端が取れて、また棒が現れる。終演。

 観客まで含めて、この上演に関わる全ての存在は、何らかの指示や意味付けから逃れられない。最後に種明かし的に現れるジョーもまた、主演のダラの指示に従っていると語る。その指示を出したはずのダラもまた、自分が考えたとされるモニターの指示に従って、舞台上で身じろぎしない。パフォーマンス/上演としての演劇が、作家や演出家といった特定の創作主体によって完全に制御されるものではないこと、観客を含めたその場の全ての存在が創作主体としての共同責任を負うというパフォーマンス芸術の特性4)エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭他訳、論創社、2009。特に54-109頁。が、極めてシンプルかつシャープに表現されたことに驚かされる。

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1. 山口遥子「サスペンス! チェコ人形劇フェスティバル、中止の記録」Webマガジン『シアターアーツ』
2. 下北沢国際人形劇祭」公式HPより。
3. 加藤暁子『日本の人形劇 1867-2007』法政大学出版局、2007参照。
4. エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭他訳、論創社、2009。特に54-109頁。