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2月25日(日)Blind Summit(イギリス)『The Table』

『The Table』
作・演出=Blind Summit
2月25日(日)/下北沢 ザ・スズナリ
©Yuri Manabe

 段ボールの顔と布製の肢体からなる人形を、三人の人形遣いが操る。一人が頭・左手・台詞を、一人が右手と腰を、一人が両足を操ることで、人形は軽やかに動き出す(欧米ではこのスタイルを、文楽に影響を受けたということで、「BUNRAKU」と呼ぶらしい)。熟練のパフォーマーであるところのこの人形は、いかにも堂々たる様子で、「ようこそテーブルへ!」と観客に挨拶し、ウィットやアイロニーを交えながら、舞台であり自分の生活空間でもあるテーブルの紹介をする。また人形は、自分を操る三人の人形遣いも一人ずつ紹介していく。「フィオナは俺の両足を操る。フィオナがいないと俺は歩けない」。人形のしかつめらしい顔つきと、マンガ的にデフォルメされた肢体の動きとがアンバランスで可笑しいのだが、この人形にとってはそれもパフォーマンスの重要な要素であるようだ。

 子供向けの人形劇に飽き飽きしていた彼は、ロンドンのユダヤコミュニティセンターから、旧約聖書におけるモーセの死を主題にした新作を依頼されたことを語り出す。『The Table』という作品自体がモーセの死をモチーフにした作品であるらしいことは、彼の「宗教的・哲学的・叙事的作品」という冒頭の説明から類推される。ところが、話はなかなか進まない。稽古は難航し、舞台上での彼の語りも絶えず脱線を強いられる(たとえば人形遣いの一人が何らかのトラブルで退場し、観客を舞台に上げて代わりを務めさせるが、無理に動いて右手が取れてしまう…)。結局のところ、新作は何一つ決まらないまま本番を迎えることになる。「こいつらは、俺が台詞を覚えないといけないことを分かってないんだ!」人形が人形遣いに操られている状況自体に言及するメタ的な展開が遊戯的で楽しいが、両者の関係性は常に観客に明示されている。それにもかかわらず、人形が自らの意思によって動き、語り、観客とコミュニケーションを取っているようにしか思えないほど、見事なイリュージョンが生まれていた。「あたかも」のイリュージョンを形成しつつ、それを成立させているメカニズムを同時に種明かしするという二重性は、出遣い人形劇の特性だが、それによって観客の知覚は絶えず快く揺さぶられる。

 イリュージョンの形成と種明かしという二重性を支えるのが、三人の人形遣いの卓越した操作技術である。特に「人形劇の三つのポイント」として「集中」「呼吸」「固定」という技術が実践的に解説される場面は、人形劇の方法論としても興味深かった。「集中」とは、人形遣いたちの視線が人形に集中することで、観客にも人形に注意を集中させるテクニックである。「呼吸」とは、人形遣いたちの呼吸を合わせ、それに人形の動きを合わせることで、動きに有機的なリズムを生むテクニック。そして「固定」とは、人形が動く際に、どのポイントを動かさず固定するかというテクニックだということだ。それぞれ、良い例と悪い例を丁寧に示し、観客はその技術の精度に驚かされる。そうした種々のテクニックの実践例として、たとえば「強風の中を歩くモーセ」「ランニングマシーンを使うモーセ」「回転するレコード上のモーセ」「宇宙空間を遊泳するモーセ」などのアクションが次々と披露される段に至っては、観客は抱腹絶倒である。70分があっと言う間の愉快さだった。

 

2月26日(月)MEHEDAHA(チェコ)『REUNION』

『REUNION』
作・演出=Petr Nikl
2月26日(月)/下北沢 ザ・スズナリ
©Yuri Manabe

 チェコの名高い美術家集団(の再結成)による、様々なオブジェの博覧会といった趣である。『STICKMAN』における棒や『Boxed』における箱など、本フェスティバルにおける多くの作品では、オブジェクト自体に美的要素は見られない。むしろ、日常的で安価な物体が生き生きと躍動する点に一つの面白さがあると言える。それに対して『REUNION』では、舞台に現れる人形の多くは、それ自体が美的オブジェとして力を持っている。たとえば実際に火のついた蝋燭が据えられた燭台は、人間の顔や人体の一部を模したグロテスクな造形であり、それだけで目を見張らせるものがある。

 その反面、人形の操演という点ではかなり大雑把ではある。ほとんどのオブジェはただ糸で吊られたまま舞台上を行き交うばかりであり、実際に舞台上で絵を描く人形にしても、筆を持つ腕は棒操りであり、技巧としては比較的単純に見える。

 大雑把と言えば、衝立の奥ではしばしばドタンと物が落ち、オブジェの動きをちょいと調整する演者の手ははっきりと見え、前舞台で動く小さな電動のオモチャのようなオブジェの回収はなかなか上手くいかない。精巧な美的オブジェの存在感と、安っぽいオモチャやグダグダな展開の対比が面白いと言えば面白い。

 最後に前舞台に白い粉が撒かれ、その上を電動のオブジェがいくつも動き回り、気付けば白い舞台面に曲線がいくつも入り乱れた不思議な図が描かれている。上演芸術における偶然性というよりも、造形美術における偶然性が人形という形式を取って表現されたと言えば良いだろうか。

 

2月27日(火)Opposable Thumb Theatre(イギリス)『道化恐怖症』

『道化恐怖症』
演出=John Nicholson
脚本=Dik Downey, Adam Blake, John Nicholson
2月27日(火)/下北沢 ザ・スズナリ
©Yuri Manabe

 舞台上にはいくつもの段ボール箱、そして段ボールでできた椅子や机や扉の枠組みが並べられている。「段ボールの世界に閉じ込められた道化」であるところのディックとアダムが登場し、作家・演出家の「ポコ」の指示に従ってショーを展開する。たとえば観客に音を出すネズミのおもちゃを配りオーケストラを試みる、観客を舞台に上げて西部劇ごっこをする、観客を恋人に見立てて高級レストランでの食事に誘う、観客の靴下を奪い取り、それを即席のパペットにする…など。ところがそこは間抜けな道化たちのこと、色々な失敗をして、必ずバカバカしい結果になる。観客を巻き込んだ息もつかせぬドタバタ喜劇に、観客は何度も大爆笑する。

 「悲劇は優れた人間を模倣する、喜劇は劣った人間を模倣する」とはアリストテレスの言だが、道化とはまさしく、失敗や間抜けぶりによって観客を笑わせる存在である。しかし、そんな道化たち(やそれに巻き込まれる観客たち)を笑っているうちに、どうも観客である自分自身もこの世界に閉じ込められた存在なのではないかという気がしてくる。この作品は単なる茶番劇ではなく、演じるということを主題にしたメタ演劇である。たとえば舞台奥の「楽屋」では、二人は「第四の壁」が存在しているかのように振る舞うが、同時に「観客に見えるように」立ち位置を調整したりする。こうした演劇における約束事と、それを覆す異化的なアクションとが目まぐるしく入れ替わることで、上演全体がメタフィクショナルな遊戯となる。それを象徴的に表すのが作家・演出家のポコの存在である。

 強権的な座長であるポコは、二人の不平不満や逸脱を許さず、ついに自ら舞台に現れる。しかしその正体は、一体の不気味な道化人形なのだ。ポコは道化の一人に馬乗りになり、観客に愛想を振ったり、逆に罵倒したりするが、それら全てはもう一人の道化が人形遣いとして動かしている。何度もアナウンスによって二人のショーに介入し、台本によって作品全体を統括している存在が、道化によって操られる人形であるという設定は面白い。

 一口に道化的キャラクターと言っても、毒舌で狡猾なプルチネッラ、アクロバティックで機転の利くアルレッキーノ、粗野で間抜けなハンスヴルスト、人形劇のカスパール、そして悲哀を湛えたピエロなど様々である1)たとえば山口昌男は民俗学的見地から、コメディア・デラルテの道化役であるアルレッキーノの起源やその象徴性について論じている。山口昌男『道化の民俗学』岩波書店、2014。ドイツ演劇学における道化的キャラクターの研究については、以下のような例がある。Rudolf Münz: Das >andere< Theater. – Studien über ein deutschsprachiges teatro dell’arte der Lessingzeit. 1979 Berlin; Andreas Kotte: Theatergeschichte. 2013 Köln Weimar Wien; Gerda Baumbach: Schauspieler – Historische Anthropologie des Akteurs. 2012 Leipzig.。本作の作り手である劇団Opposable Thum Theatreのメンバーによれば、英語圏における道化は、茶番劇における間抜けなキャラクターと、ペニーワイズやジョーカーのような不気味なキャラクターに大別される。いずれにせよ道化とは、日常の規範や倫理に縛られず、逸脱や越境を体現する存在である。Opposable Thumb Theatreは、道化(clown)と人形劇(puppetry)を組み合わせた造語である「道化人形劇」(clowtry?)という語を好んで用いるそうである。我々が存在するこの世界の構造を、批評的かつ遊戯的に異化するという点で、道化と人形劇は舞台上で交差する。道化は演出家に操られる人形であり(実際に二人は「ポコ」に操られているかのように何度も人形ダンスをさせられる)、演出家もまた道化に操られる人形なのだ。してみると、道化に無理やり舞台に上げられ、訳も分からず笑いものにされる観客もまた、道化=人形でないとは言い切れない。最後に二人の観客が舞台に上げられ、道化の格好をさせられ、身代わりにされそうになるが、それも結局は失敗し、逃げ道のないグロテスクなコメディ・ホラーは終演する。

 フェスティバル最後の公演の熱気も冷めやらぬまま、多くの観客は少し離れたフェスティバルセンターであるアレイホールに向かい、Fekete Seretlekの即興演奏と共に歌い踊り、賑やかにフェスティバルは幕を下ろした。

   [ + ]

1. たとえば山口昌男は民俗学的見地から、コメディア・デラルテの道化役であるアルレッキーノの起源やその象徴性について論じている。山口昌男『道化の民俗学』岩波書店、2014。ドイツ演劇学における道化的キャラクターの研究については、以下のような例がある。Rudolf Münz: Das >andere< Theater. – Studien über ein deutschsprachiges teatro dell’arte der Lessingzeit. 1979 Berlin; Andreas Kotte: Theatergeschichte. 2013 Köln Weimar Wien; Gerda Baumbach: Schauspieler – Historische Anthropologie des Akteurs. 2012 Leipzig.