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2月23日(金)Divadlo Alfa(チェコ)『Kašpárek and Co.』

 チェコでも有数とされる公立人形劇団による、昔ながらのハンドパペット芝居。道化的なキャラクターのカシュパーレクが、妻あるいは女主人に仕事を押し付けられてはいい加減にこなし、そこに死神も加わって、ドタバタ喜劇が巻き起こる。18世紀のウィーン民衆劇で人気を博したカスパール(=カシュパーレク)は、当時のウィーンにおける検閲の影響で、ハンスヴルストやベルナルドンといった先行する喜劇的キャラクターに比べ、攻撃性や非道徳性が薄められたとされる1)Erika Fischer-Lichte: Kurze Geschichte des deutschen Theaters. 2. Aufl. 1999 Tübingen und Basel, S. 167-172.。本作も確かに子供向けではあるが、カシュパーレクが赤ん坊をスープ鍋に放り込んでしまう場面などは、なかなかにブラックでおどろおどろしい(赤ん坊は無事に引き上げられる)。また、女主人と死神が情熱的にタンゴを踊る場面なども、「死の舞踏」などのアレゴリーを読み取ってみたくなる。

 本作は、伝統人形劇に現代的内容を盛り込んだものとされる。確かに、伝統的な演劇表現にしばしば見られるレイシズムやセクシズムは、現在では見るに堪えない場合があるだろう。西洋の演劇伝統に息づく喜劇的キャラクターの躍動的な表現(生と死の反復、朗らかな暴力性とエロチシズム、音楽とアクロバット)を生かしつつ、時代に合わせたアップデートを試みる公共劇場の存在には、チェコの人形劇伝統の豊かさを感じさせる。

 なおこの作品は「ノンバーバル」と銘打たれ、5歳から見られる作品ということであった。展開はごく簡単な台詞(「お掃除!」「ミミのお世話!」「やれやれ」「また明日」など)だけでなされ、ほぼ全て日本語で発語されたために、子供にも問題なく了解されただろう。本フェスティバルでは少なからぬ作品で日本語が発せられたが、劇中全ての台詞が日本語で行われたのはこの作品だけであった。

 

2月23日(金)Ariel Doron(ドイツ)『Boxed』

 自宅待機中の男にAmazonから箱が届く。男が箱を開けると、中からにゅっと本物の人間の手が現れる…。演劇的魔術とはこういうものを言うのだろう。もちろん主演のアリエル・ドロンが箱の裏から右腕を入れていることはすぐに分かる。分かっているのに、右腕のいかにもモノ然とした振る舞い(振る舞い、でいいのだろうか?)とドロンの表情や態度が、そこにはないはずの本物の腕を思わせる。いや、本物の腕はそこにある。正確に記述すれば、「そこにある本物の腕が、そこにないはずの本物の腕を演じる」ということになるだろうか。こう書いてみると、これこそ演劇という感じがするではないか。

 男は右腕をまじまじと観察し、最初はそれをメガネを上げたり、髪を整えたりするための道具として扱う。やがて男と右腕の間には、奇妙な友愛が生まれる。男は右腕に何かを囁き、右腕に耳を傾ける。ところが、不意に右腕は男の顔面をわしづかみにする。どうしても離れない。困り果てた男は、槌やノコギリやインパクトドライバーを持ち出して逡巡する。男がハサミを取り出し、右腕に向けた瞬間、客席からは小さな悲鳴が上がる。だが心配はいらない。男はハサミの柄を使って、右腕をむしり取ることに成功する。ところが、次の瞬間、右腕がハサミをつかんでこちらに向けている…。

 こんな調子で、緊張と緩和というギャグの基本に忠実に、血(ケチャップ)は飛ぶ、ちぎれた指(ソーセージ)を頬張っては吐き出すなどのスラップスティック・コメディが展開する。最後に箱を開けると、中には(ケチャップを除いて)何もない。男はじっと自分の右手を見つめる。やがて右手が不穏な動きを見せる。すると左手も…。と思ったら、結局何も起こらない。男は退場口の戸を足で蹴り開け、去っていく。

 この作品を見た後に自分の右手をまじまじと眺めてみると、自分の身体の一部でありながら、いかに思い通りにならないか痛感する。自分の身体というのは、時に最も操作し難いオブジェクトである。右手の不随意な動作を抑え込み、右手を完全に一つの物体に見せてしまうドロンの技術が、いかに驚異的なものであることか。自分の右腕を一つのオブジェクトとして扱うと考えると、これは確かに一種のオブジェクト・シアターだと言える。しかし、心理的盲点やアイデアや卓越した技術を生かしたパフォーマンスという意味では、むしろマジックやパントマイムに近いかもしれない。いずれにせよ、人形劇/オブジェクト・シアターという領域においては、近代に制度化されたセリフ演劇において排除された、演劇に隣接する領域(曲芸、舞踊、音楽、手品、物売りetc.)の様々な技芸が豊かに息づいていることが感じられる。

 

2月24日(土)DAMUZA+Fekete Seretlek(チェコ/スロヴェニア)『KAR』

 『犬の生活』のソルツェを含む音楽演劇グループによる作品。DAMUZAが劇団としての、Fekete Seretlekが楽団としての名称であるらしい。21日のオープニング、22日のコンサート、最終日のクロージングでも見事な演奏でフェスティバルを盛り上げた。

 オブジェクト音楽劇あるいはオブジェクト・シアター・ライブとでも言おうか。開演前から舞台上のテーブルに一人の男性が横たわり、アコーディオンで短いフレーズを繰り返しながら、周囲の男性たちに煙草やウォッカを要求している。一人の男性は靴にローラースケートを履いてよろめき歩き、別の男性は観客の入場を見ながら何やらせわしなく羽ペンを動かしている。主役であるはずのアンナはなかなか現れない。やがてテーブルの男が“I’m leaving!”(私は死ぬ!)と叫ぶが、ではいつ死ぬのかというと、「今日か明日か三十年後か」分からない。

 『アンナ・カレーニナ』におけるニコライの葬儀が一つの枠組みとして設定され、観客はその弔問客ということらしい。しかし俳優の語り、歌、楽器演奏、パーカッション、タップダンスそしてオブジェクト・パフォーマンスといったそれぞれの要素は、特定のドラマトゥルギーに集約されることなく、ハチャメチャなまま入り乱れる。観客にウォッカが配られ、自分達も立て続けにウォッカをあおり(終演後に出演者が「ウォッカは本物」と言っていたが本当だろうか?)、草刈り鎌は打楽器になり、テーブル上のグラスは他愛ないお喋りに興じる貴族たちに早変わりする。書類がばら撒かれ、アンナは何度も立ち去っては衣装を変えて現れ、コントラバスやアコーディオンが奏でられ、突如タップダンスが始まる。開演が20分以上遅れたという制作上の都合まで含めて、何もかもがとっ散らかったまま展開し、混沌のリズムは、やがて“We are going to die!”という大合唱に問答無用で流れ込んでいく。

 「ぼくらはみんな死んでいく」というフレーズは、今回の人形劇祭のキーワードの一つであるように思える。人形(を含む様々なオブジェクト)と人間との越境的な取り組みが現代の人形劇/オブジェクト・シアターの重要な要素であることは言うまでもないが、それでも人間を人形から区別するならば、「死につつある」という運動性にあるのではないか。人形は、人形遣いが操作することによって生き生きと躍動し、表現活動を行う。しかし、ひとたび人形遣いの手を離れれば、人形は単なる静物となる。その意味で、人形(少なくとも人形劇におけるそれ)の本質とは、生と死を往還する反復的な運動性にあると言える。それに対して人間は、「死につつある」というあり方で、絶えず死に向かって進み続けるという一方向的な運動性の中にある。だからこそ、歌い、踊り、遊び、酒を飲み、音楽を奏でるのだといったところか。そう言えば、冒頭の“I’m leaving!”という叫びは、“I’m living!”にも聞こえた。Leavingとしてのliving。

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1. Erika Fischer-Lichte: Kurze Geschichte des deutschen Theaters. 2. Aufl. 1999 Tübingen und Basel, S. 167-172.