カミーユ・ボワテル『リメディア』 © Vincent Beaume
カミーユ・ボワテル『リメディア』 © Vincent Beaume

 おそらくカミーユ・ボワテルの『リメディア』は、今後いくども思い出されるべき偉大な作品のひとつになるだろう(東京芸術劇場 プレイハウス、5月3日所見)。ジャンルとしては、サーカスやマイム。見ていた子供たちがとてもよく笑っていたように、楽しいのはもちろんのこと、それだけでなく、ひとつの哲学をそなえていると思われるほどの大きな力があった。カミーユ・ボワテルは、2002年にパフォーマンス集団リメディア(作品と同じ名前)をパリで創設。今回の公演には、彼を含めた男性4人と女性2人が登場した。

 始まりは、ボロアパートの一室のような小さなセット。衝立程度の壁、カーペット、テーブル、椅子、ベッド、ハンガー。そこに帰ってくる女。女と入れ替えに出かけようとする男。女はバックを下ろし、コートや服を脱ぎ、男はその服を来てバックを持って出かける準備をする。でも、ふたりはまったく別次元にいるかのように、クロスしながらすれ違う。それもおもしろいけれど、それ以上に驚くのは、ふたりのごく普通の行いが、ことごとく失敗することだ。ハンガーにコートを幾度掛けても落ちる。本を読もうとするとバラバラになる。椅子に座れば壊れ、テーブルの足が次々と折れる。触れるものがことごとく崩壊し、しまいには壁も崩れて、とうとう部屋の残骸に埋もれてしまう。
 そうしてスッと視界が広がると、あたり一面瓦礫の山。もしかしたらこのアパートだけが最後までかろうじて残っていたのかもしれない。すると傍らのベッドから別の男がガバッと跳ね起きて、大慌てで逃げ出す。舞台上には所狭しと瓦礫が散乱していて、足元は危険だらけ。そのガラクタの上を絶妙なバランスで、あるいは、きわどいバランスで次々と渡っていく。彼が進むにつれて、上からガラクタやら何やらが後から後から落ちて来て、まるで劇場全体が崩壊してしまうのではと思うほど。この疾走感は爽快だ。

 冒頭の20分ほどのこのシーンの圧倒的な密度と緊迫感。崩壊して行く世界を生きていくかれらの真剣な姿を見ているというのに、なぜか幸せな気持ちが沸き上がってくる。決して嗜虐的な笑いではなくて、この世界に、こんなにもひたむきに動いている人がいることに、崇高ささえも感じてしまう。パスカルが、「人間は自然のうちで最も弱い1本の葦にすぎない。……これを押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。1つの蒸気、1つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれを押しつぶすとしても、人間は、人間を殺すこのものよりも崇高であろう」と言った崇高さだろうか。あるいはまた、汽車や岩や女性たちに追われてひた走るバスター・キートンの崇高さだろうか。悪夢のように襲いかかる災難から逃れようと、真剣な顔でひたすら駆けて行くキートンとボワテル達は同じ世界を生きているようだ。感動が笑いを追い越していく。

 実は舞台はまだまだこのあと50分程続く。その中から印象的なシーンを3つ選んでタイトルを付けてみると……

  • 「浮揚地獄」。女性の手足が重力が消えたかのように浮き上がっていく。そのうちに体全体が浮き上がっていき、みんなで取り押さえなければならなくなって大騒ぎ。
  • 「不随意地獄」。身体が重力の重みに耐えられなくなったかのように、なぜか手足を自由に動かせなくなってしまった3人が、這いながら水を奪い合う。ここは砂漠の中なのかと錯覚するほどの焦燥感と無力感。
  • 「傾き地獄」。ひとりの男の体が30度ほど斜めになってしまう異常事態。他のメンバーが賢明に彼を支え続ける。彼の傾きは次第に舞台上の物に伝染して、まわりの物が次々と傾いていく。
カミーユ・ボワテル『リメディア』 © Vincent Beaume
カミーユ・ボワテル『リメディア』 © Vincent Beaume

 これらはいずれも身体にかかる重力の変調をテーマにしている。そしてこれも、かつて山田宏一が、「キートンのアクションは、ことごとに万有引力の法則にさからってしまって、悪戦苦闘することになる……」(「キートン映画の悪夢の構造」より)と言ったように、キートンに似ている。もちろん、マイムもサーカスも確かに重力をなにかしら歪めるところを見るのが楽しいわけだけれど、キートンがその崇高さで突き抜けているとしたら、カミーユ・ボワテル達は詩的で哲学的な思索にまで至っているようだ。何ものかを支配する力への意志を完全に放棄して、襲いかかる力に完全に身を任せること、でもそれが実にしなやかに恐ろしい力を懐柔してしまう。無力さが逆に最大の肯定に転換する。

 もちろん、そのようなかれらのパフォーマンスを可能にしている訓練は、並大抵のものではないだろう。自分の身体だけでなく、身体と物との瞬時に変わって行く関係を正確に判断して、物の崩壊と身体の運動との接触面の微細な時間的ズレを前方への推進力に変えていく。それはアスリートやバレエダンサーにも必須な能力だろうが、直線的な運動を見る喜びだけでなく、既定のルールやメソッドを共有しないところで直観的に判断しながら進むかれらの孤高さに感動する。ヴァーチャルなものは、それが架空の物語であろうと仮想空間であろうと理想の身体であろうと、おそらくかれらには意味がないのだろう。まさに、身ひとつで疾走するかれらが今この時代で新しいサーカスを演じ続けていることに、とても大きな希望を感じる。

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