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フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022) 撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

 子供のころから裸体画や裸体の彫刻や彫塑に触れる機会が多かった。私の父が画家だったこともあって美術展や絵画展に連れていかれることが多かったからである。規模の大きな日展のような展覧会だと、たくさんの彫刻が並ぶ部屋がいくつも続き、等身大のものもあれば、小さなものもあり、大小さまざまな絵や彫刻がところせましと並んでいる。中でも女性の裸体の多さを不思議に思ったものだった。それらの裸体をみつめていると、モデルとなった女性が中に閉じ込められ、幽閉されているような気がして怖かった。

 温泉や風呂屋などでぼんやり他人の所作を見るのが好きだ。もくもくと髪を洗っていたり、何かをし続けていたり、誰かと裸で熱心に話し込んでいたり、何もしないでたたずむ姿にも素の体の豊かさが満ちている。裸でおこなっているあれこれの動きとからだは一体で、完結したひとつの世界がそこにある。名前や年齢はもちろん、収入やら家族やら、何一つ個人情報はわからないが、動き方の癖やふくらんだりへっこんだりしているフォルムを追いかけてみるのが面白い。ただの裸、素のからだ、何も語らないからだである。見られることを知ってはいても意識の中にはない。ダンサーの裸のからだも似ているところがある。見せようという自我を限りなく向こう側に置きつつ、ナルシズムに陥らずに見せているのだ。

 90年代から2000年代にかけて、海外からのダンスには、はっきりと裸が増えた。全裸では、ヤン・ファーブル、ビル・T・ジョーンズやボリス・シャルマッツ、全裸に近いものとしてはマリー・シュイナールなど。ビル・T・ジョーンズの『コンティニュアス・リプレイ』では、皮膚の色も体型も性別もばらばらな人たちが全員全裸で踊った。素の体をさらすことで、差別や偏見のない、ユートピア的な未来社会を夢想しているように思われた。ポリティカルでありインパクトのあるものだった。日本にも、1970年代から一貫して全裸でソロダンスを続けてきた川村浪子がいる。淡々と歩むその裸体には毎回圧倒される。夕陽の落ちていくスタジオで歩む姿は、生きている証を示すため空間にくさびをうちこむかのようだった。90年代には、H・アール・カオスの『シニフィアン・シニフィエ・人魚姫』(1993年)で、白河直子が上半身裸で、ストイックな裸体の極みを見せていた。

 だがここ数年、舞台で裸体を見ることはめっきり減った。観客がそれを求めなくなったのか、それとも裸体の意義や意味が消えてしまったのか。

 しばらく見ないなあと思っていたら、KYOTO EXPERIMENNT京都国際舞台芸術祭 2022 、フロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』で、久々に舞台上の裸体を見た(2022年10月2日、京都ロームシアター)。最初から最後まで出演するのは全員女性、そして全員オールヌード、全裸である。もしかしたら、いかれた姉さんたちが丸裸で舞台を飛び回るクレージーでスキャンダラスな作品、と顰蹙を買うかもしれないほどの作品だった。

 しかし、これまで裸のダンス作品を見ていても、ジェンダーの視点でみることはあまりなかった。裸というものを、衣装によって判断される文化的な文脈を剥ぎ取り、筋肉や浮き出る肋骨の動きを見せるシンプルなものとみていた。裸で踊るダンス自体は珍しくないとはいえ、セクシャリティが脱色されたり、フォーカスされにくかったこともある。この作品は、ジェンダーやセクシャリティにまっこうから向き合っていて、いやおうなく考えさせられる。そもそも女性の裸をフェミニズム的な視点なく考えることは不可能であろう。それを避けることは、歴史にも反するし、避けるという政治性が生じるということが今ならわかる。無意識であれ意図的であれ、ジェンダー視点を避けることは、現存する家父長制を再生産することになるのだ。

 ホルツィンガーたちは、女性の裸がどのように見られるのか、見られてきたかという歴史も現実もあらかじめわかった上で、観客のどんな視線をも受けてたつという覚悟で、舞台の上でオブジェと化し、自らの体をさらしている。

 第1部はバレエ教師が女生徒を育てるレッスンのシーン。第2部で彼女たちは魔女となって自由なる世界へ飛び立った。

撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

1 女性の裸と性器

 第1部はバレエのバーレッスンで始まる。高齢の教師一人だけ裸なのだが、「からだをどのように支配するか教えましょう」と声をかけるのをかわきりに、重力の話、空間の意識のしかた、プリエの意味、それぞれのポーズをどのように行うか、などの説明とともに、バーレッスンをおこなう。生徒たちに服を脱ぐよう誘うと、一枚ずつ脱ぎ、ついにはすっかり裸になる。さらにレッスンは続き、自分の性器を知り、自慰行為の方法を学ぶレッスンへと変わっていく。

単調とも言えるバーレッスンが全裸で行われるだけでかなりエキセントリックな表現に変わる。バーレッスンという表の顔と同時に、欲望の対象とされる女の体を存分に見せることで、女の体がどう見られているかという裏の顔があからさまになる。ここで行われているのは、規律正しい定番バーレッスンであると同時に、ポルノらしきものにも見えるバレエのお稽古なのだ。

 全員がすっかり裸になる頃、ビデオカメラをもった女性が登場し、レッスン風景を撮影し始める。彼女もまた裸である。裸の女性が裸の女性を映し出す。女性のからだのどのパーツも隠すことなく、動く女性たちのからだを追いかける。映像は拡大されて背後のスクリーンに大きく映し出される。動きながらなので細部まではっきりと見えるわけではないが、陰毛も性器もカメラの視線の先にある。

 女性の体がパーツパーツでモノ化され、流通し、消費されていく男性資本主義社会の姿が浮き彫りになる。女性は見られること=客体化に慣れすぎて、それを深く内在化してしまっているために、主体性の獲得が困難になっているのではないか。

 だが、カメラをもつ「見るからだ」とカメラの先にある「見られるからだ」の両方を観客席から見ている、という構造を考えると、この社会の中で女性が主体性を獲得し、自己肯定感を獲得するための学びの実践を、女性から女性へ向けて行っているのではないか、とも思えてくる。だとするとこれはバレエレッスンという形をとった性教育なのではないか。老教師のいう “How to govern the body” は、いまのままでは自分のからだではない、ということか。セクシャリティにおいても、自分で自分のからだを認識できていないということなのだろうか。老教師の問いは、非常に重要な問いを投げかけているのである。

 上野千鶴子は『おんな遊び』(1988年)で、フェミニズムアートではなぜ女性が自分の性器をテーマとして取り上げるのか、その理由についてこう語っている。

「考えてみれば女はいつだって自分のボディや性器を男の眼を通して見ていて、媒介ヌキに自分の眼で見たことなんてなかったのだ。女性器を自分の眼でみたら一体どう見えるのか──このチャレンジングな経験を、女たちは初めて味わっていたのである。」(35頁)

 女性が主体性を取り戻すためには、まず内面化してしまっている男たちによる客体化をはずしていく必要があると言うのだ。

 高齢女性教師が、女性たちひとりひとりの性器を眺めながら、彼女たちの個性を評価するようにコメントしていく。このバーレッスンは、自らの体を取り戻すための出発点なのだ。家父長制下で育った女性たちが、「客体」としての女性から「主体」としての女性へ成長するためのレッスンなのである。

「あるがままのものとしての女性器は、女たちの個性的な貌のひとつひとつと同じほど多様で個人差に富んでいる。⋯⋯女は自分を取り戻すために、「見る主体」になるために、まず自分自身を見直す必要があった。そののち初めて女は「見る主体」としての男のハダカや男の性器が、自分の眼にどう見えるかという課題に向かうことができる。」(36頁)

 ビデオカメラを持った全裸の女性が舞台に登場し、バーレッスンを行う女性たちの姿を撮り、客席からは見えない角度の映像をスクリーンで見せる。グランバットマン(高く片足をけり上げる動き)を行えば股間も見え隠れする。そんなこともおかまいなしに、カメラマンはバーレッスンを行う女性の間を動き回り、その姿を映しだす。故意にどこかを隠すのではなく、全裸だからこそ、肌につつまれたからだの皮膚が等価に思える。恥部とか性器とか、体の一部だけに強く反応し規制する文化のなんとばかばかしいことか。

撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

2 魔女とミソジニー

 1幕が終わるやいなや、ホルツィンガーが裸のまま客席に向かって話し始める。いつのまにやら通訳も登場(共同ディレクターの塚原悠也氏)。この作品がロマンティック・バレエの構造に準じ、バレエ作品『ラ・シルフィード』のホルツィンガー版であることを説明し、さらに、彼女たちが主体的に進めているオーストリアでの植林計画の話を持ち出し、それに寄付をしてくれないか、と客席に話しかける。裸で語る人と、話しかけられる着衣の人たち。この構図はまさしく1幕の始まりと同じ構造だ。客席の人たちにもちょっとひと肌脱いでもらいましょう、ということだろうか。観客も傍観者ではいられない。1日目の公演では千円の寄付だったらしいが、ホルツィンガーは、千円の通貨価値を知ったので今日は10倍の額にします、とのことで一万円の寄付を募り、それに応じた人がいた。懐を多少痛める程度の額が必要だった理由は、この作品が単に鑑賞して終わり、消費されて終了のアートではなく、リアルな日常に直結する問題提起でもある、という隠れたメッセージではないだろうか。植林という森の再生に向けた活動へ接続しているということがちょっとした余興に見えてしまう危険性があるにせよ、エコ・フェミニストとしての真摯な姿勢を表明したのだろう。

 そして2幕は、さらに激しさを増し混沌としていく。既に1幕の後半から、空飛ぶオートバイや屋根の上から眺める魔女が現れ、ダリオ・アルジェントのホラー映画『サスペリア』を彷彿とさせる暴力と血のりが飛び散っていた。2幕ではその流れが加速される。思い起こされるのは、世界のあちこちで殺害されたり暴力を振るわれている女性たちの身体だ。寓話としてデフォルメされているとはいえ、正視しがたい。

 一本歯の魔女がにやりと笑いながら煮えたぎる大きな窯で赤ん坊や人間を煮込んでみたり、狼のような被り物の女性が登場したり、老女が小動物を出産したり、かつて魔女に対して抱かれていた恐ろしいイメージも続々と現れる。魔女といえば、日本のアニメでは、魔法の力で生活を楽しくする若く、かわいらしい魔女が登場するため、悪いイメージはあまりないかもしれないが、子供を食べようとする鷲鼻で恐ろしい老女の魔女は、グリム童話や、それをもとにしたディズニー映画には登場する。

 16、17世紀の近代初期ヨーロッパで行われた魔女狩りは、数十万人もの女性たちが殺害された大量殺戮であった。約90%が女性だったこともあり、ジェンダー視点で振り返る研究が進展してきている。なぜ2020年代のいま魔女狩りの研究が必要なのか。それはその負の遺産が現代に形を変えて生き続け、存続しているから、とアメリカの歴史家であり平和活動家でもあるアン・ルーエリン・バーストウは語る(『魔女狩りという狂気』)。魔女裁判での過酷な肉体的暴力、拷問、そして大量殺人の根底にはミソジニー(女性嫌悪)があるのだ。魔女狩りの悪名高き手引き書『魔女への鉄槌』には、「女はその迷信・情欲・欺瞞・軽佻において男を凌駕し、肉体の力の弱さを悪魔との結託でおぎなって復讐をとげる。そして妖術にすがって、執念深い淫奔な欲情を満足させようとする」とある(池上俊一『魔女と聖女』、8頁)。魔女狩りを駆り立てていたものは、まさしくこのようなミソジニー(女性嫌悪)である。

 2幕で、手術台のようなベッドに裸の女性がうつ伏せになると、傍らの女性が肩甲骨のあたりにぐさりとかぎ型のフックを二カ所に差し込む。スクリーンにその一部始終が大きく映し出されて、いまここで実際に行われており、うそいつわりなく生身の体に行っていることを見せる。思わず目を覆いつつも片目は見開いたまま釘付けだ。そのフックに、天井からするするとおりてきた紐がひっかけられると、中空にぐぐぐと引き上げられていく。リアルな痛みへの共感が、イマジネーションの幻想世界を凌駕する。

 天候不良、農作物の不作、病気や不慮の死、事業の失敗など、様々な不幸や災難は、女性が──多くは老女だったのだが──「魔女」という嫌疑をかけられるやスケープゴートとされ、魔女裁判により、残酷な拷問や虐待ののち、処刑された。『Tanz』でも彼女たちは、フックで吊られたり、体を引き裂かれたり、壁に体を激しく打ち付けられたり、ぶつかりあったりしながら、体中を血だらけにしていく。魔女を排斥することで世の中を良い世界にしなければならない、という物語がリアルな世界で信奉された結果、非業の死を遂げた女性たちの亡霊をみるようでもあった。ミソジニーが原因で暴力を受けたり殺されたりしている人たちの無言の怒りが根底から湧き上がるように思えてならなかった。

 しかしこれも反転して、身体への両義的な視線がそこにあるのかもしれない。終幕間際に「白鳥の湖」の曲が流れる中、血まみれの体に深紅のポワントシューズで静かに踊る姿に、自然の摂理である女性の月経が思い起こされる。血のりは女性の月経でもあるかもしれない。循環する自然の摂理が身体の内部で起きていることを視覚的に顕わにしたのだとしたら、血には死と再生あるいは希望の意味がこめられているだろう。 

 現代では魔女の負のイメージを反転し、非凡な才能あるいは勇気、強さ、実行力などをもつスーパーウーマン的な存在や、社会運動の旗手として権力に対峙する存在の象徴とされたり、肯定的に捉えられることもあるのだ。

(イラスト:著者)

 

3 ディストピアかユートピアか

 日本はジェンダー後進国と言われる一方で、性産業先進国とも揶揄されてもいる。この作品が生まれたオーストリアと日本の社会背景の違いから『Tanz』も違って見えてくるのではないだろうか。日本にこの『Tanz』を置いた時と、ホルツィンガーの育ったポスト家父長制社会のオーストリアに置いた時と、浮かび上がってくるものは違うのではないか。その相違点を考えてみたい。

 世界経済フォーラムが毎年発表する日本のジェンダー・ギャップ指数は、家父長制が色濃く残っているといわれるアジア圏の韓国や中国などにも抜かれ、2023年もまた順位を下げ、イスラム諸国と肩を並べるほど底辺をうろついている。世界の潮流と足並みをそろえて、女性解放運動や #MeToo運動なども盛り上がったりしていても、実質的な進展はどこかで歯止めがかけられたかのように進まない。重要な法案があと一歩というところで梯子をはずされたり、宗教右派の草の根運動との連携のために、地方自治体での進展が阻止されていることも明らかにされている1)山口智美、斉藤正美、荻上チキ 著『社会運動の戸惑い:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(2012年、勁草書房)や、斉藤正美、山口智美 著『宗教右派とフェミニズム』(2023年、青弓社)、参照。。ジェンダー教育、性教育の遅れ、ひいては意識改革の遅れにつながり、変革を起こそうと動く人たちへの反発や嫌がらせなどがおき、バックラッシュも激しく起きている。

 こうした社会構造の日本で『Tanz』を見ていると、眼前にある女性の裸により女性の客体化や他者化を再認識させられ、その背後にある女性蔑視やミソジニーの醜悪さをどうしても思い起こしてしまう。『Tanz』の女性たちは自ら限りなく露出し、自らの体を切り刻み、自らを痛めつけ、それでも男性の性幻想に奉仕すべく、血を流しながら中空を舞い、血みどろの裸体で幻想の異世界で白鳥のように舞う。このディストピアは、現実の女性蔑視を直喩的に表わした寓話なのではないか、とも読めるのである。

 キャロライン・クリアド=ペレスは、『存在しない女たち:男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』(河出書房新社)で、男性のデータに基づいて構築された社会の様々な場に、ジェンダー・ギャップが存在していることを気づかせてくれる。

 「データにおけるジェンダー・ギャップについて最も重要なことは、それが悪意によるものではなく、意図的ですらないことだ。むしろ正反対で、これまで何千年もまかりとおってきた考え方の産物にすぎず、一種の思考停止とも言える。それも二重の思考停止だ──何でも当然のごとく男性を基準に想定し、女性のことはいっさい考慮しない」(8頁)。

 たとえば、公共トイレ、オフィスの温度、交通機関、税金、医療、災害現場などだ。

 マーガレット・アトウッドのディストピア小説『侍女の物語』では、ギレアデという架空の国で女性が4種類に分けられ、「侍女」は妊娠するだけの役割を持つ女となっていた。そこまで行かずとも、女性が男性のために子供を産み育てるという社会モデルを変えられない社会での常識としては、男性のために女性が裸になることはあっても、女性が女性のために裸になったり、男性が男性のために裸になったりするシーンは理解されがたいだろう。女性の裸の意味を問うても、男性のための裸という意味以外は見えてこないのではないか。女性の裸が女性自身のためのものでもあるという意味は、まったく伝わらないだろう。

 停滞する日本で『Tanz』を見ていると、ディストピア社会を生きる私たちの姿を描いた作品にも見えてくる。現実世界がディストピアなのであれば、その中でもがいて生きるか、感覚を麻痺させて生きるか、という悲観的な選択を強いられるしかないのだろう。

 しかし、オーストリア社会にこの作品が置かれたら、別の見え方があるかもしれない。

 レスリー・カーンの『フェミニスト・シティ』(晶文社)では、近代の都市開発が主に男性によって計画されており、あらゆる施策が男性の立場から策定され、都市の機能は女性やセクシャルマイノリティの人々の日常におけるニーズを反映していないことが問題視される。「いまだに男性が大半を占める都市の意思決定者が、自分たちの選択が女性に及ぼす影響を考慮せず、さらには知りもせずに方針を決めている……都市は男性の経験を『標準』とし、伝統的な男性のジェンダーロールを支え、助長するものとして組み立てられてきた」(13頁)。

 カーンは、女性の視点を含めたジェンダー平等な都市を紹介していて、中でもウィーンを「突出した取り組みを行う都市」としてあげている。都市のリソースへの平等なアクセスを保証する目標を掲げ、ジェンダー主流化の視点で都市が設計されているという。さらに、ジェンダー平等性の追求が単に女性の権利の拡大という枠にとどまらず、「都市社会の平等ではないあらゆる部分を改善する」という理念で発展しているのだ2)ウィーンでは、1990年代と2000年代に、「働く女性のための都市(Frauen-Werk-Stadt)」プロジェクトとして、ウィーンの一角に、女性の生活に配慮した集合住宅と街を建設した。これは当時としてはヨーロッパで最大規模の計画だった。2009年からは、ウィーン市当局は、ジェンダーの平等化を市の政策として取り組んでいる。目標には、男女の雇用の均等機会、政治参加における平等などが含まれている。次のリンク先の記事を参照。
How Vienna built a gender equality city
ウィーン“女性による街づくり”に見る男女平等
Equality Action Plan for Vienna 2009-2012

 『Tanz』は、このように女性の視線を取り入れた都市計画が実現されている社会であるウィーンで教育を受け、日々生活し、価値観をはぐくむなかで生まれた作品であることを想像してみよう。女性の視点を取り入れていこうという仕組みが着実に実現している社会に生きていたら、同じディストピア風の物語も違って見えるのではないだろうか。

 こう考えると、この作品はディストピア社会に悲観しているのではなく、むしろユートピアへ向かうための、現実的な、いまの時点からの最初のステップとして、このリアルな世界で、女性が自分の体の主体性を取り戻そうとする作品に見えてくる。女性の視点を、みずからの体を、みずからの視線と新しい視点で、いまのこの地点から見つめなおそうと模索しているのだ。

 となれば、女性がさらにその露出度をあげ、体を切り刻んでいく意味は何だろう。 これは、女性たちのリアルなセルフ・ポートレートでもあるのではなかろうか。40年前のシンディ・シャーマンの写真を思い出させるような、美しくかわいらしい女性像の破壊、ポスト家父長制社会でも生き続けている女性に対する美意識や期待への挑戦だ。『Tanz』は、女性に対する旧来の美意識に抗して、血みどろになりながら、毒を盛り、刺で刺そうとしたのではないか。ファンタジックな飛翔ではなく、リアルな飛翔だ。幻想を打ち砕くリアルな身体を求めて、生身の皮膚を割き、血を流しながら、宙を舞うのだ。

撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT

   [ + ]

1. 山口智美、斉藤正美、荻上チキ 著『社会運動の戸惑い:フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(2012年、勁草書房)や、斉藤正美、山口智美 著『宗教右派とフェミニズム』(2023年、青弓社)、参照。
2. ウィーンでは、1990年代と2000年代に、「働く女性のための都市(Frauen-Werk-Stadt)」プロジェクトとして、ウィーンの一角に、女性の生活に配慮した集合住宅と街を建設した。これは当時としてはヨーロッパで最大規模の計画だった。2009年からは、ウィーン市当局は、ジェンダーの平等化を市の政策として取り組んでいる。目標には、男女の雇用の均等機会、政治参加における平等などが含まれている。次のリンク先の記事を参照。
How Vienna built a gender equality city
ウィーン“女性による街づくり”に見る男女平等
Equality Action Plan for Vienna 2009-2012