Print Friendly, PDF & Email
アートひかり『ねずみ狩り』
作=ペーター・トゥリーニ、翻訳=寺尾格
演出=仲田恭子
2023年9月22日(金)・23日(土)/東中野バニラスタジオ
撮影=安徳希仁

 1971年にウィーン初演のペーター・トゥリーニ『ねずみ狩り』が、2023年9月22日・23日、東中野バニラスタジオで、アートひかりによって上演された。50年も昔に書かれた作品の令和ヴァージョンで、むしろ説得力を増しているように思える舞台であった。一対の男女が、誰もいない都会のゴミ捨て場に車で乗り入れて、デート(?)を行う。「すべてがゴミだ!クソだ!」と呪いながら、銃でネズミをねらう男は、やがて女と二人で、互いの身体に付属する虚飾のゴミを捨て始める。かつらを捨て、化粧品を捨て、持ち物も金もすべてを捨てて、自分で組み立てた車も壊し、ついには真っ裸での乱痴気騒ぎとなる。

 本邦初演は2005年、北九州のうずめ劇場によるペーター・ゲスナーの演出で、福岡、北九州、東京、名古屋と全国ツァーを行った。その後の2009年、こまばアゴラ劇場での再演の際には、ゲスナー自身も出演する三組のトリプルキャストで、ラムシュタインのギンギンのロック音楽を大音響で流すような迫力の舞台であった。

 今回の仲田恭子の演出は、30名も入れば満杯になるような地下スタジオの、その狭さを逆手にとったような説得力があったが、ゲスナー演出との大きな相違は二つ、あるいは三つになるだろうか。

 ゲスナー演出では、原作がウィーン方言であることを生かして(異化して?)、「それでよかと?」という類の北九州方言を効果的に使用していた。今回の舞台では方言は使用されていなかったが、テクストをかなり柔らかく解釈して、随所に自由な「遊び」を取り入れていた。地名や商品名などを日本風に変えるのは、作者のトゥリーニも推奨していたのだが、それのみならず、例えば男の髪の毛がカツラと知って驚く女に、「匂いなんか嗅ぐんじゃねえよ!」と返して、観客の爆笑を誘ったり、あるいはそれまで大人しくチンマリと座って拝聴していた女が、「偉そうに言ってるアンタはどうなのよ!」と男に詰め寄る場面では、男の膝にガバと腰かけ、男の頬をピタピタと叩きながらの豹変ぶりである。原作の持つ諧謔味が、男(杉山雅紀)と女(姫凛子)のかけあいのリズムの確かな演戯力と、さらにオリジナルな工夫によって見事に表現されていた。

 言葉や身振りの造形のみならず、実は身体表現の大きな変更が、裸の扱いである。化粧や装飾品のみならず、衣服をひとつずつ脱ぎ捨てるという一種のストリップ的な展開であるがゆえに、ウィーン初演でも大きなスキャンダルになった。男女を問わず、舞台での素っ裸の出現にはリアルな衝撃力がある。21世紀の現在(私の変換ソフトは最初に「原罪」と出すスグレモノである。)では、ドイツでも日本でも、裸そのものは特段の問題にはならない。ゲスナー演出では文字通りに理解されていたのだが、今回の仲田演出では、歌舞伎でおなじみの肉襦袢風の穏便な扱いであった。しかし観客へのジェンダー的な挑発を弱めることで、あるいは難しく気取って言えば、生身の身体の現前の効果を肉襦袢で隠して、あえて記号化することによって、作品のメッセージがより明確に焦点化されると共に、むしろ俳優の表現の幅が著しく広げられたのではないか。

 裸という身体の現前を記号化することは、実はその他の舞台上のすべてで一貫していたと、後になってから気づいた。最初に現れる車は、張りぼてとも言えないほどに著しく簡略化されていた。「そこらじゅうゴミだらけよ!」と言いながら、周りにはゴミも「何もない」。実にシンプルで、無機的なミニマリズムの空間造形であった。身体や空間の扱いは、その後に繰り返される捨てる行為の羅列においても徹底されていて、例えばポケットや財布から取り出されるひとつひとつの「モノ」が、すべてコピー写真である。ねずみ狩りに用いる銃も、いかにも安物のオモチャにしか見えない。

 記号化されるとは、つまりは言語に依拠するということである。「臭い!」と言えば、その空間は臭くなるし、「ネズミだ!」と言って観客を見れば、観客はネズミになる。それが演劇における虚構のリアルである。実はすべてが嘘くさい!のだ。ちなみにリアリズムとは「本当であるかのように見える/思える」表現上の工夫のひとつにすぎない。

 肉襦袢によって強調された身体の記号化は、従って、そこで使用される言語の作用によって、逆に果てしなく自由に浮遊することのできる身体となる。それを生き生きと示すのが、特に裸になっての乱痴気騒ぎの場面である。「デブ、ブス一番!」と歌いながら、メダルの表彰を表象する動作のついでに「感動した!」、あるいは裸で抱き合いながらの輪舞では、「ユニクロは進化する!」と遊ぶ。戯画化された乱痴気騒ぎが最高潮に達した直後に、突然真っ暗になる。

 やがて薄暗がりの中、やや高い位置に座る女は、周りを睥睨するように両足を広げ、ムシャムシャと何かを食べている。そして時折、猛獣の唸り声のような意味不明の叫びで、足元に近づく男を威嚇する。男も同様の唸り声で対応するが、いずれも言語以前の獣の吠え声の交換にすぎない。つまり文明という虚飾のゴミを捨てきって裸になった人間が、互いに威嚇し合う獣として戯れているわけであり、おそらくはゴリラか、それとも猿人なのだろうか? やがて二人は四つん這いになって遠吠えを始めるので、どうやら犬か狼に変わったらしい。さらに続いて猫の仕草に変わり、最後にネズミのようにゴソゴソと動き回る。

 この種の動物変身譚は、ハリウッド映画やアニメという映像の得意とする表現であるが、ネズミのような二人が、ふっと見つめ合うと、そのまま視線を動かさずに両側から近づき、そして静かにキスを交わす。舞台写真で提示した場面である。しかしながら写真や映像では、この瞬間の多義的な繊細さは、おそらく十分には伝わらないであろう。二人の男女の裸は、いわば記号化された裸によって、人間であると共に、獣であり、猿であり、狼であり、猫であり、ネズミである。もしかしたら人間の進化を逆に遡及しているのかもしれない。あれでもあり、これでもあるという幾つもの可能性が、俳優のリアルな現前によって溶け合うので、いささかならず混乱した思いに駆られると共に、演劇に固有の表現力が得心されてくるのである。

  トゥリーニの劇作家としての力量は、実に単純な設定を、リアルで巧みな対話と、時にセンチメンタルとも思えるような雰囲気を醸し出しつつ、最終的には虚構の枠を意識させながら、ラディカルな問題提起を観客の意識に立ち上げる手際にある。「ネズミみたいな人間だとか・・・人間みたいなネズミだとか・・・」という結末で語られる際に現れる、索漠とした認識の余韻である。

 上記の引用は20年近くも前に翻訳した際に書いた解説の自己引用なのだが、仲田演出の舞台の評としても十分と思える次第なのである。