8月の歌舞伎は、歌舞伎座(5〜27日)と市川海老蔵の自主公演ABKAIの第2弾(5〜10日・新橋演舞場)が中心。

 古来8月は夏枯れの季節とされ、1989年まで歌舞伎座でもSKDのレビューなどの公演が多く、歌舞伎の興行は久しくなかった。それが1990年以来、故中村勘三郎を筆頭にした昭和30年代以降に生まれた世代を中心とした興行が定着、野田版歌舞伎を始めとした実験や新機軸を含めて、歌舞伎の新生面を開拓する橋頭堡となった。勘三郎没後初めての8月である去年は、恒例の3部制に勘三郎の当たり役6本を並べて実質的な追善興行としたが、今の観客には通じないのか、必ずしも入りは良くなかった。勘三郎という核を失って、この8月をどうすればよいかという課題を背負っての今年である。

 興業的に安定しているのはニューヨーク凱旋と銘打つ第3部の「怪談乳房榎」で、1部から3部の中で最も入りがいい。1990年に勘三郎が初役で3役早替りを勤め、8月歌舞伎を象徴する演目ではあるが、2013年赤坂ACTシアター、2011年に新橋演舞場で、ほぼ同じメンバーで出たばかり。2009年には歌舞伎座で勘三郎が演じており、いかに中村勘九郎が早替りを巧みに継承していようとも、食傷気味は否めない。晩年まで青さの残った父と異なり、絵師菱川重信が早くから大人びているところに父とは異なる資質が見えるが、本水の大滝と早替りが売りの納涼芝居、珍しさが花と知るべきであろう。

 しかし、実のところ、珍しさだけでは今の観客を集めるのは難しく、また、稽古日数の少ない歌舞伎では、よほどの準備と心がけがなければ、見聞や経験の不足する作品を練り上げるのは難しい。今年はかなり珍しい演目が並んだが、結局最も充実しているのが「たぬき」であるのは、主演の坂東三津五郎が10年前に経験済みであることによる。焼き場で蘇生した男が別の人生を生きようとする物語は、「江戸の夕映」や小説『帰郷』にも通じる、一身で二つの世界を見る大佛次郎好みの設定。癌との闘病から復帰した三津五郎に、再び元の人生に戻ろうとする切実さを客席が見てしまう効果も重なっている。

 1部の谷崎潤一郎作「恐怖時代」は本興行では38年ぶり。伊織之介を当たり役とした坂田藤十郎の舞台を見覚えていた次男の中村扇雀が担ぎ出した、その意欲はいい。愛妾お銀の方に予定していた中村福助が療養中のため、伊織之介を演じるつもりだった扇雀がお銀の方にまわった。医者の玄沢、家老の靱負、太守の采女正、そして小姓の伊織之介まで、お銀の方が関係した男すべてが彼女の周囲に死体を重ねる。それにはお家横領を企むお銀の方が、芸者上がりという翳を持ちながら、美と権勢のすべてを握っている至高至尊の存在であることを舞台上で実感させなければ説得力はない。今回は演技演出ともにそこが弱い。お銀の方が産んだ世継ぎ照千代を、不義の子と知った太守が斬首するという加筆があるが、これは望みを失ったお銀の方が伊織之介との死を選ぶという、動機を分かりやすく落とすだけだった。何を考えているか分からないような無表情のまま、敵味方なく殺戮を重ねる七之助が、最も戯曲の魅力に近い。ついで、市村萬次郎の梅野と中村芝のぶのお由良に、死に魅入られた魔的なものが多少なりともある。

 萬次郎は、三谷幸喜の「決闘!高田馬場」あたりから、殻を破ったように性格俳優に化けた異色の存在である。今や、近代以降の新作では縦横無尽の活躍、世話物でも役どころによっては要をなすに至っているが、その萬次郎にして、「輝虎配膳」の山本勘助母越路という義太夫物の難役では、ワザとコクがない。花道でドンと刀を突いたところで、これは大変な婆さんだと思わせねばならない。「恐怖時代」の感覚がつかめないことよりも、義太夫物の心覚えがないことの方が、歌舞伎にとっては深刻な悩みどころである。

 さらに深刻なのはABKAIである。「義経千本桜」四の切と創作舞踊「SOU」の二本立て。前者はすでに何度も海老蔵が手がけており、なぜ自主公演に?と思ったら、台本から見直した新演出とのこと。しかし、結果は70分のものを60分に無方針に切り詰めただけで、初心者向けという留保を越えてしまった。何より、台詞を削ったり直したりした結果、自分たちが何をしゃべっているか理解していないことが暴露された。義経が川連法眼の「御恩」を謝し(当然、義経が目上)、「これへと通せ」と命じ(「これへと申せ」か「これへ通せ」)、「その方と同道したる忠信ならずや」で否定のつもり(「や」が不要)、「尋ね問うべき子細もあらば」と未然已然の別がわからず(正しくは「あれば」)、忠信が破傷風になったことをカットしたのに「本復(全快)」したという。ケレンの手法等もいろいろと変えているが、変えて良くなったのは、忠信が二役替わる間、時間をつなぐ腰元の長台詞が削られたことのみ。一番の問題は、これらを止めてあげる大人が海老蔵の周囲にいないことであろう。7月の「天守物語」を見れば明らかなように、海老蔵は、自我を抑える大きな存在(「天守」においては玉三郎)を頭上に戴く時に最も輝く。その美質を失わせてはいけない。