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上・テゼー(荒牧大道)、下・イポリット(石川湖太朗) 撮影者=都築淳

 色彩鮮やかな日本画に囲まれた現代的な空間でラシーヌを見た。うずめ劇場の『フェードル』(ラシーヌ作、伊吹武彦訳、ペーター・ゲスナー演出)である。会場は、京王線仙川駅近くにある東京アートミュージアム内の打放しコンクリートに囲まれた細長い展示室だった(2018年11月初旬から2019年2月末までのほぼ隔週週末公演)。月と草木をアレンジした日本画に囲まれた華やかな公演会場である[i]。天井は高く、階上への吹き抜けに沿って上方への開放感がある。その反面、展示室の幅は狭い。奥の壁際に窮屈そうに並べられた椅子の一つに座り、開演を待った。
 当日パンフレットにしたがって、『フェードル』のあらすじを思い返した。登場するアテネ、トロイゼン、クレタ王家の人々は、神話と地続きの世界に生きている。そもそもフェードルは、怪物ミノタウロスを生んだクレタ島ミノアの王妃の娘だ。この怪物を退治した現在の夫テゼーは、その後も魔物や強盗を退治する旅を続けて行方不明である。彼の留守中、トロイゼンである出来事が起きた。帰還したテゼーは、留守中息子イポリットが後妻フェードルを凌辱したと訴える侍女エノーヌの讒言を信じ、激昂のあまり息子の殺害をネプチューンに祈ってしまう。この祈りは聞き届けられ、イポリットの命が失われる。そして悲劇の全容が明らかになるという物語である。

左・フェードル(後藤まなみ)、右・イポリット(石川湖太朗) 撮影者=都築淳

 今、私たちの社会でも、超自然的な存在をめぐる物語は数多く作られている。メディア環境と親和性があるこうした物語は、多くの人々の共感を得ている。私もその一人だ。現代の感覚では、『フェードル』に言及される古代ギリシャの神々の世界も、アニメやゲームの世界観(作家による個々の作品の世界設定)のひとつに過ぎない。こうした中で、あえてフランス古典主義の戯曲を取り上げたうずめ劇場の意図は、いったいどこにあるのだろう。
 公演が始まった。そして2時間後、舞台を見終えた私は、うずめ劇場はメディア社会での演劇の存在意義を正面から問い直そうとしたに違いないと思った。
 と言っても、会場にプロジェクターやモニターなどのマルチメディア環境が設えられたわけではない。彼らは日本画や和服が飾られた美術館の狭い展示室に俳優を登場させ、その集中度の高い演技を少人数の観客に見せただけである。しかし、簡素とさえ言える今回の舞台に登場した俳優たちの演技は、その存在意義を観客に納得させるに十分なものだった。
 数々の場面が忘れ難く心に残った。とくに、運命に翻弄されるフェードルを演じた後藤まなみの演技は印象深かった。夫であるテゼー(荒牧大道)の死という虚報を聞いたフェードルは、禁忌を犯して義理の息子イポリット(石川湖太朗)に愛を告白する。上着を脱ぎ、胸をはだけて自らの心臓を指し、ここを剣で突け、殺せ!とイポリットに迫るフェードルの演技は、死を賭してなされた愛の告白を余すところなく伝えていた。
 今回の上演は、人文書院刊『ラシーヌ戯曲全集II』所収の伊吹武彦訳に依拠しているとのことだが、実際には台詞はかなり書き直されていた。いくつかの場面では、俳優の感情が一気に発露できるように、言葉を慎重に選んだのだろう。舞台上の俳優たちは驚くほど激しい感情の振幅を操りながら、演劇特有の虚構性を生き抜いているという印象があった。メディア社会で制作される多くの物語と一線を画すのは、俳優たちの生きる力であるという演劇観が実践されたに違いなかった。

左・エノーヌ(松尾容子)、右・フェードル(後藤まなみ)、右上・パノープ(小黒沙
耶) 撮影者=都築淳

 ユーモアにも事欠かない。フェードルと侍女エノーヌ(松尾容子)の会話には、ほとんど地のタメ口に聞こえる個所もあった。しかし、ボケとツッコミにも思える王妃と侍女の会話も、内容が禁忌の領域に近づくと峻厳さを帯び、情欲という運命にもてあそばれる人間の憐みと人倫の懼れというラシーヌの中心テーマに肉薄した。全身を躍動させ、声の高低・強弱・リズムを自在、かつ的確に整え、台詞の感情を高い集中度で表現する二人の女優の繊細で大胆な演技は、翻訳による台詞劇の範疇を越え、瞬間ごとに言葉と身体をまるごと生き抜く虚構としての俳優の可能性を十全に示したと思う。
 後藤、松尾、荒牧という中堅世代の俳優たちと石川、西村優子(アリシー役)、小黒沙耶(パノープ役)、遠藤広太(テラメーヌ役)という若手の俳優たちの世代差も作品に合っていた。観客の視線を正面から受けて堂々と演技する後藤、松尾、荒牧には、世慣れた余裕がある。一方、石川と遠藤が演ずる迷彩柄の衣装を着た王子と侍従は、感情の揺れがそのまま演技に出るような、現代的な若者の素の姿を意図的に出していたように思えたが、これは内に秘めた情熱をやや抑え気味に演ずる西村と小黒の演技と好対照をなしていた。フェードルがピアノの弾き語りで女神に語りかける場面には好感を持ったが、イポリットの母アマゾネスの素性に中国やフィリピンが言及されたのには唐突感が否めなかったことも付け加えたい。
 実は、これまで見て来たうずめ劇場の舞台には、どこかしっくりこない感覚が個人的にはあった。今回、美術館の細長く狭い展示室の片隅に座り、ラシーヌ作『フェードル』の現代化作業の成果を間近に見たことで、演出とドラマトゥルクの優れた構想力もさることながら、やはりこの劇団は俳優の集団であることを再認識した。
 1995年に北九州に誕生して以来、東京と九州を往復し続けるメンバーもいるなかでの、長い期間にわたる劇団の維持を可能にした集団の力が、演技への集中力に込められていた。観客の目の前に人間としての俳優が立つことで拡がる可能性を追求することこそが、うずめ劇場のめざす演劇であろう。

[i] 観劇した12月22日は、日本画作家椎橋和子の『「琳派」今様 椎橋和子の世界』展が開催されていた(2018年10月6日から12月23日まで)。2019年1月12日から3月31日は写真展『光陰矢の如し』に展示替え。