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かもめマシーン『俺が代』 演出=萩原雄太、出演=清水穂奈美  撮影=前谷開

 

 かもめマシーン『俺が代』(演出=萩原雄太、出演=清水穂奈美)は一人の俳優が日本国憲法の条文を発語する異色のパフォーマンスである。初演は2016年、おそらく翌17年が日本国憲法施行70年になるのを見据えてのことだったのだろう。改憲勢力による憲法改正の発議が現実になろうかという今日、憲法を演劇の題材として取り上げることは、この問題を看過できないとの危機感に基づくものと思われるが、公演の案内には、「改憲か護憲かの立場に囚われることなく、憲法や社会についての問いを共有する」と記されている。パフォーマーは憲法を原文どおりに発していくが、その発声、口調は条文ごとに異なる調子を帯びる。憲法前文の冒頭の語句の厳かな発声は、能楽の謡いを彷彿とさせる。論争の中心である「第9条 戦力の放棄」のくだりでは、デリケートな問題に触れることを示すかのように、声量を押さえ、囁くように発語する。

生きた身体の発語

 憲法をテキストとした舞台作品は既に存在し、ダンスでは舞踊家・振付家の笠井叡が『日本国憲法を踊る』を2013年に初演、その後数度にわたり再演している。現在「250km圏内」を主宰する小嶋一郎による『日本国憲法』(京都芸術センター舞台芸術賞2009大賞受賞、筆者未見)では、俳優が条文を「単なる音として発話」し、「『憲法』と私たちの物理的な/意味的な距離感を可視化」したという1)渋革まろん「〈公共空間〉を仮設する」、渋革マロン(編)『小嶋一郎コンセプトブック:コミュニケーション原論--あるいは剥き出しの劇場へ』所収、Marron Books.。この記述から推測されるのは、憲法をテキストとして敢えてフラットに扱い、その文言を物質的、記号的に捉える方向性である。これに対し『俺が代』のアプローチは正反対の方法をとっている。憲法条文の厳粛で論理的な文言は、そのような言語でなければ表し得ない崇高かつ極めて公的な理念をうたうものであり、その文言に深く分け入り、本質を捉え直すことで、意味の充填された、質量のある言葉が、劇性をもって発せられる。
 日本国憲法前文を初めて読んだ日、「われらとわれらの子孫」、「名誉ある地位を占めたいと思う」といった一人称の語りに、私自身、強い印象を受けたことを思い出すが、主語である「われら」とは誰か、「日本国民」とは何者であるかを、本作は、たとえば「国民」と発するごとに一拍の空白を置く批評的な発話によって問い質す。誰の意思が誰を治め、その統治の権力は誰に由来し、どのように信託されるのか、憲法が説く主権在民の本質と、「われら」とこの私自身との政治上の関係が問い直されるのである。
 本作のユニークさは、このような憲法の本質に対する問いが、生きた身体が発語するという演劇の最小の形式をもって行われ、それが演劇、ならびに政治の発生についての原理的な思考を誘発する点にある。

かもめマシーン『俺が代』 演出=萩原雄太、出演=清水穂奈美  撮影=前谷開

 演劇の発生原理を端的に示すのは、背後の壁に投影される憲法の英訳の存在だ。冒頭の “We, the Japanese people” の文字、続いて「日本国民は」と俳優の最初の声が発せられる。はじめに言葉があり、わずかな時間差で発語されることで、言葉が声を得て発現するプロセスが、形式の始原としてイメージされる。英語のニュートラルな語感、アルファベットのデジタル感、それらのかりそめの投影が、俳優の生きた声によって身体化され、意味と歴史性を得て発現する。発語は厳かさや崇高さ、あるいは緊張感や迫力を帯び、これら今作に特有の劇性の発露が、演劇という行為の原初の形を想像させるのである2)ただし英訳は海外公演のために用意されたものとも考えられ、そうであればここで述べる演出上の効果はあらかじめ意図されたものではないかもしれない。。政治の発生原理については後述する。

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1. 渋革まろん「〈公共空間〉を仮設する」、渋革マロン(編)『小嶋一郎コンセプトブック:コミュニケーション原論--あるいは剥き出しの劇場へ』所収、Marron Books.
2. ただし英訳は海外公演のために用意されたものとも考えられ、そうであればここで述べる演出上の効果はあらかじめ意図されたものではないかもしれない。