生きられた憲法

 前文を終え、舞台に鳴り渡る「東京ブギウギ」が終戦直後の喧騒を再現したのに続いて、当時の文部省が発行した「あたらしい憲法のはなし」が読み上げられる。「みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人もおおいでしょう。ご無事におかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。」日本国憲法を分かり易く説く教科書の文章は、戦争で疲弊しきった人々の悲痛に向けて二人称で呼び掛けており、終戦時にすべての日本人が抱いたであろう「もう二度と戦争はいやだ」との痛切な思いを、不戦への決意と「戦力の放棄」の条文によって憲法が掬い上げていることが理解される。今日の目を以ていかに「押しつけ」と見做そうと、憲法の言葉は当時の「国民」の間に染み入るように受け入れられていったのではないか――そう想像されるくだりである。
 パフォーマンスは「第一章 天皇」以下、「第二章 戦力の放棄」「第三章 国民の権利及び義務」と順を追って条文を辿るが、例えば第15条-2「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」を聞く時、文書改竄や官邸の意向への忖度など昨今の公務員の実態を思わない人はいないだろうし、第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」には、上演日の二日前に強行採決された働き方改革関連法案やブラック労働、過労死の問題が頭をよぎる。「表現の自由」「家族関係における個人の尊厳と両性の平等」「生存権(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する)」等にまつわる条文を聞きながら、これらの規定や原則が現実に脅かされている戦後73年目の現在の日本の状況が目の前に突きつけられる気がする。その危機感が逆説的に、70年を超える戦後史の中で、憲法が社会のあらゆる場面で生きられてきた事実を物語っている。

かもめマシーン『俺が代』 演出=萩原雄太、出演=清水穂奈美  撮影=前谷開

 ソロ・パフォーマンスを行う清水穂奈美は、これらのテキストの言説を士気高く演じている。昂然たる条文の発語から一転、腰の曲がった老政治家の弱弱しい声による演説までを丹念に演じ分ける。技巧に依拠するのではなく、言説、文言に込められた意味とその歴史性を根本から捉えるが如く、一言ずつを腹の底に落とした、身体の深い場所からの発語である。また憲法発布を告げる身体が歓喜と困惑により七転八倒する様子や、様々な性格をもつテキストとの体当たりの格闘があり、これらすべての言葉と理念を一身に引き受けて舞台に立つ姿は、英雄的ですらある。老人の演説は次第に熱を帯び、加速してラップ調のノリを生む。尾崎行雄の演説、或いは芦田均の演説は、明治憲法下を生きた戦前世代のアイロニーを滲ませつつも、新しい憲法に来るべき時代を託そうとする老人の切なる意思を語っている。テキストは総じて、憲法の理念・思想の日本社会における受容のプロセスを、発布当時の人々の戸惑いや格闘も含めた様々な角度から立証し、今日まで憲法がいかに生きられ、現在と将来にわたって生きられ得るかを明らかにしていく。

個と集団:演劇と政治の重なり

 前述した演劇、ならびに政治発生の原理について、これを示唆するもう一つの要素は舞台に設置されたオブジェである。アクティングエリアの中央には2メートル四方ほどの枠の中に足首が浸かる程度の浅い水を張ったプールがあり、その中心に金属の破片を寄せ集めた造形物が立てられている。細長く歪な造形は焦土に残った一本の樹木のようであり、絡まり合いながら上方へ伸びていく複数の木の根にも見える。「ヒロシマ、ナガサキ、トーホク、ニューヨーク・・・」と、原爆や災害、テロに見舞われた世界の都市の名が呼び上げられる。オブジェは犠牲者のための記念碑であり、戦禍やテロリズム、ホロコースト、ジェノサイド、地上のあらゆる不正義の犠牲となった人々の無念と、残された者たちの悲痛、悔恨、誓い、祈りの表象である。これらの思いを抱く個人と、その集合たる集団との関係性に生じる「共通の意思」は、「われら」を治める権力の信託を裏付ける「根拠」となる。

かもめマシーン『俺が代』 演出=萩原雄太、出演=清水穂奈美  撮影=前谷開

 この政治性の発生のメカニズムが演劇にパラフレーズされるのは興味深いことである。起源は祭祀であったともされる演劇の最初の形は、死者へ向けた祈りや悼みを、声や身振りで表するものだったろうか。無数の個々の意思――祈りや悼みの集合が、演者の身体に附託され、発語という形式を得て表されること。演劇発生の原理とはおそらくこのようなものであっただろう。『俺が代』のパフォーマンスは終始この記念碑であるオブジェの周囲で進行する。というよりむしろ、オブジェに向かって語り、宣言し、祈ると言ってもいいだろう。後半のある時点で清水はオブジェを囲むプールの水に、決然とした様子で足を踏み入れる。地上のあらゆる人々、死者たち、未来に生まれ来る者たちの被った/被りつつある/被ることになる困難と悲痛、誓いと祈りに自らの身体を浸し、舞台はひとつの頂点を迎える。

「俺」という主語

 終盤、再び日本国憲法前文が読み上げられるが、ここで清水は主語を「俺」に置き換え、いっそうの厳かさと情熱をもって発語する。主語にあたる「日本国民」を、最も私的、かつ不遜な一人称である「俺」に置き換え、「われら」の内実を現在の己が身体に引き寄せることで、自ら主権の「当事者」であろうとする意志を示す終盤の場面である。社会、国家、諸国にまつわることは、私的、かつ身体的な「俺」にまつわることであるとし、当事者性を宿した主権の新たなあり方を宣言する。この「俺」という新たな人称は、集合的な意思の記念性が自ずと帯びる全体主義への傾倒を退け、意思があくまで私的な個に依拠することを明示するものでもある。発話はさらにここから憲法前文を外れ、「俺」を主語とした自作による文言を発するに至る。先の大戦の死者のみならず、現在の、また未来の犠牲者へ向け、自らの言葉で憲法の理想と目的の達成を誓うのである。

かもめマシーン『俺が代』 演出=萩原雄太、出演=清水穂奈美  撮影=前谷開

 東日本大震災と原発事故以来、非当事者が出来事を表象することの困難が語られている。「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である」として語られてきた極限的な苦難の体験を表象することの不可能性の問題を、現在においてあらたに引き継いでいるともいえるだろう。映画監督のクロード・ランズマンはフィクションによる表象を批判し、証言のみによるホロコーストのドキュメンタリー『ショアー』を撮った。強制収容所の生存者であるプリモ・レーヴィは、体験をもとに多くの著作を残しながら、自死を選んだ。言葉を尽くしても尽くせるものではない体験、従来の表象の形式をもっては表すことのできない未曽有の出来事があり、その証言の困難があり、語ることが犠牲者や被災者を二重に傷つけることの困難がある。表現者の倫理を問う問題でもあり、沈黙するという選択も思考の後の帰結として存在し得る。3.11の体験を聞くことから生まれた砂連尾理の演出・振付作品『猿とモルターレ』は、言葉を失い呼気のみを発する身体により、表象の不可能性そのものを表象するという方途を試みている。
 こうした視点から『俺が代』を見るとき、本作はその敢えての不遜な「俺」をもちいることで、出来事に対する固有の態度を示し得ているように思われる。謙虚さと思慮深さが選択させる沈黙という表象の不可能性に根差したアプローチから一歩踏み出し、出来事へ向けての働きかけを行う方向性である。これはもっぱら「俺」の名において主権を引き受け、出来事にまつわる権力関係の当事者たろうとする能動性による。この働きかけ、呼びかけが憲法の文言を借りて、演劇に固有の発語の形をもって表されることが、本作のもつ最大のユニークさであり、同時代性と言っていいだろう。体験の共有や当事者への共感ではなく、憲法の理念のもとに「われら」と当事者を共通させること。憲法の言葉が犠牲者や困難の経験に根差している限り、その表象の力に疑いはないだろう。

(2018年6月30日、京都芸術センター フリースペース)