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▼原発の安全神話――第二部『1986年:メビウスの輪』

Dull Colored Pop, 福島三部作第二部『1986年:メビウスの輪』 撮影=白土亮次

嶋田:皆さま、ありがとうございました。それでは次に第二部『1986年:メビウスの輪』について話し合いましょう。第二部で中心的な人物となるのは第一部の忠(岸田研二)です。孝の弟です。第一部では町の青年団の青年部長になっています。この忠が、第一部に登場した双葉町長田中の失脚に伴って、町長選に立候補する。そもそも、この忠は反原発派のリーダーだったのですが、町長に当選し、その後に、原発推進派へと変わっていってしまう。その過程が描かれたのが、この第二部の中心的なお話です。
 第一部に登場した孝のガールフレンドの美弥(木下祐子)は、ここでは弟の忠の妻となっています。話としては連続性が持たせてあります。そして、忠と美弥の間には娘2人と息子が1人います。最初はこの家で飼われている犬のモモ(百花亜希)の場面から始まります。そのモモが死んで、モモが死の世界から家族を俯瞰していくような場面もあります。
 やはりメインのプロットは、先ほど言ったように反原発派のリーダーだったこの忠が推進派に変わっていくという点でしょう。まさしくこのタイトルである「メビウスの輪」という比喩が示すような展開を見せます。このあたりについて皆様、ご意見をお願いします。

野田:死んだ犬の視線から、不在であるはずの者の視線から語っているという構成が非常に効いている作品でした。1986年というのは、チェルノブイリ原発の事故が起きた年。もともと原発に反対していた社会党系の忠は、本業の酒屋の仕事を奥さんの美弥――兄・孝の元カノです――にほとんど任せて、「運動」に奔走している。すると第一部にも出てきた田中町長が、汚職疑惑で辞職するというので、社会党だけではなく自民党側からも次期町長候補として忠に白羽の矢が立つ。なんだか複雑な構図なのですが、最終的に忠がこの出馬要請を飲んでしまう。どっかおかしくなってきたぞと警鐘を鳴らすのが、冒頭で死ぬ愛犬モモなんです。一部であんなに出ばっていた長男の孝がいなくなってしまうという構図も不在を指し示していますが、死んだ犬のモモがコロス役を担うというのも、やはり不在を中心に第二部がまわっていることを示しています。その上、第二部の事実上の主人公である忠は、町民大会で演説を頼まれてしまったせいでモモの死に目に会えなかったというので「鬼!悪魔!畜生以下だ、おめは!」と妻に責められる。冒頭から《不在》の音が何度も鳴らされるんですね。さらには、第一部では決めなきゃいけないはずだった長男の孝が、第二部ではいなくなってしまう。そして第一部で原発設置に反対していた次男の忠が、第二部では新町長として変節を迫られる。『貴婦人故郷に帰る』(1958年)などを書いたスイスのデュレンマット風の政治戯画構造と非常に似ています。

鳩羽:第二部の山場は、やっぱりこの忠の変節するシーンですね。チェルノブイリ原発事故を受け、町長として日本の原発についての見解を問われる記者会見で、いきなりロック調というか『三文オペラ』のように、顔にぺぺっと化粧をされて、ギンギンの感じで「日本の原発は安全です」というせりふを連呼しましたね。その言葉に意味はなくて、何かの一つ覚えのように、合いの手のようにひたすら繰り返します。それまでの場面が緊迫していたのに、空気がガラッと変わる。すごく面白かったし、インパクトがありました。

嶋田:「日本の原発は安全です」の場面は舞台でもそうでしたが、台本を読むと、やはりブレヒト『三文オペラ』(1928年)を意識しながら谷さんが書いていることがわかります。『三文オペラ』の最後に悪を尽したメッキ・メッサーに恩赦が下るオチの部分を、効果的にどういうふうなかたちでもっていくかを考えて、「日本の原発は安全です」の場面は音楽劇の手法がとられたような気がします。

野田:デュレンマットもブレヒトの影響を強く受けた作家でしたし、そういう意味で第二部は最もブレヒト的な作品でしたね。だから、「日本の原発は安全です」って歌う……。

嶋田:RCサクセション『サマータイム・ブルース』(1988年)ですね。

野田:そう、チェルノブイリ原発事故の二年後に出て「それでもTVは言っている/「日本の原発は安全です/さっぱりわかんねぇ 根拠がねぇ」という原発批判の歌なんだけれども、この曲を冒頭で振っておきながら、最後のほうでは町長になった忠が原発維持派として「日本の原発は安全です」って、忌野清志郎風メイクまでして歌う。他にも眼鏡を外すと豹変する自民党議員の秘書とか、ここらへんの戯画タッチの部分が、忠が泣き笑いをするエンディングを際立たせていく。完全にブレヒト的な感動でした。第一部ではつかこうへい風のことをやっておきながら、第二部では見事にブレヒト風のスタイルっていうものを踏襲して見せる。多才な作家ですよね。

嶋田:あと、死者の視点が気になりました。台本を後から読んで、まったくそのとおりだなと思ったのは、ソーントン・ワイルダー『わが町』(1938年)が参考文献に挙がっていたことです。死者、特にこの犬の視点とか死者の視点から眺めて、日常を語っていく点はソーントン・ワイルダー『わが町』を感じさせます。

柴田:「日本の原発は安全です」という場面、あれは一種の科学信仰という神話がいかに作られたか、もしくはその神話がいかに無意味なものであったかというのが、面白おかしく、かつ上手に映しだされている場面でしたね。そしてこの神話に〈家族〉がからんでくる。
 福島三部作の一部から続いているテーマとして、人間関係が都会よりもずっと密なことが挙げられると思います。ここで本音が言えたら楽になるのに、夫婦の間だけでも俺はやっぱりやらねえと言えたら楽になる、ここぞという場面で、いつも娘婿の徳田秀一(椎名一浩)が出てくる。彼自身はなんの他意もなく、赤ん坊ができたとか家族にとって嬉しい話を持って来るのですが、こうした小さな身近な幸せや人間関係を持ち込む家族の介入によって、日本の未来とかの視点をとりにくくしてしまう。身近な目の前にある家族の幸せや人間関係を大事にせざるを得ない〈田舎〉の選択を迫られてしまう。第二部のタイトル「メビウスの輪」は、そういう小さな人間関係の中に生きる人間の選択の変節の様を見事に言い表しているように思います。

野田:幕切れ近くになって、忠が奥さんの美弥に対して「おめにだけ、ホントのこと言っていいか」って言うところですよね。美弥には「うっつぁし」(うるさい)と返されても、あの世から――もしくは忠の中に内在化した――モモが叫ぶ。「言うんです! 本来の生を、取り戻すのです!」 その声に意を決した忠が「日本の原発も……」と言いかけたところで、東電に勤めている娘婿の徳田が入ってくる。いつものように間の悪い徳田は、例によってオーバージェスチャーで何度も「スミマセン!」とあやまりながら、子どもができたと報告する。それで、話が見事にずれていってしまう……。肝心なところでノイズが入って、大事な話が雲散霧消してしまう。第二部に頻出するパターンです。裏と表がわからないまま、結局元の地点に戻ってしまうんですね。まさにメビウスの輪ですよ。

藤原:第二部に出てくる社会党の県議会議員・丸富貞二(藤川修二)と自民党町議会議員秘書・吉岡要(古河耕史)が、非常に老獪で狡猾な人間です。彼らが、反原発を掲げて県議会選挙に3回連続で落選した忠をうまく担ぎ上げて、双葉町町長に押し上げます。チェルノブイリ原子力発電所事故を受けてもなお、日本の原発を擁護するために採った彼らの論理はこうです。原発反対は唱えないが、その危険性はどんどん訴える。そのことによって国と東電から原発の補助金を引き出し、原発関連産業を維持する。それは結果的に、原発に賛成することと同義である。
 純粋に原発反対派だった忠が、彼らの悪魔の論理に懐柔されて、原発賛成と反対を同時に抱え込まざるを得ない立場に追い込まれます。地震が多い日本に対応するために、耐震性に優れたアメリカ製の技術を使っているなどと刷り込まれて。そうして彼は破滅へと至る。

小田:イギリス製をやめてね。

野田:耐震性バッチリのアメリカ製を使っているし。

小田:日本人は勤勉であることも安全性の要素に挙げていました。

野田:二重、三重の安全装置を備えているから安全だというせりふは、第一部における佐伯の言葉とまったく同じです。第一部で、あんなに原発建設に反対していた忠が、原子力の平和利用を推進していた東電の佐伯の言葉を自分が言わないといけなくなる状況に追い込まされていく。そもそも立候補を要請された時は、「原発に賛成しながら、原発の危険を、訴え続け」るだけでよいというはずだった。そうやって政府や東電を突っつくことで、「より安全な双葉町のために」補助金を引き出していく。それは、元原発反対派リーダーの忠に一番ふさわしい役だという理屈です。賛成とも反対とも違って、懸念と危険性を訴えるだけ。ここでも、また宙づり状況が出来する。また違った意味で、忠は兄と同じ立場で思考停止するんですね。このように忠の心情はぐちゃぐちゃ、賛成と反対、裏と表を両方背負されてしまう。

小田:今、皆さんがおっしゃったことと重なることが多いのですが、第一部と第二部は互いに密接につながっているようなところがあります。さっき私が言った距離感っていうのは、死んでしまった犬、人間とは違う犬の目線によって人間の行動、特に忠の行動が、違う場所から見つめられ相対化されということです。飼犬のモモがいなくなってしまうということは、自分が大切にしていた家族、あるいは他者、あるいは弱いものとのつながりを忠が失っていっていることの象徴のようにも思われます。悲劇の出発点のようにも思います。
 あと、「日本の原発は安全です」っていう言葉の両義性、先ほど嶋田さんがご指摘なさった「ふるさとは、遠くにありて思ふもの」の両義性と同じように、「日本の原発は安全です」という言葉の持っている両義性を踏まえながら忠が叫ぶところが、私もたいへん興奮しました。
 今、皆さんの話を聞いていて、この言葉って、もしかしたらこの時代に、私たちが誰かに言ってほしいことだったのかもしれないな、と思いました。原発に対する懸念っていうのは、いろんなところで、私も目にしたことがありました。しかし、そういうのに目をつぶって、でも大丈夫なんだ、日本は安全、日本人は丁寧だからとか細やかだからという、この言葉を誰かに言ってほしかったのかもしれないな、という気がしてならなくて。それは2011年に東日本震災が起こったときに、政府がうそばっかりついている、と思いながら、「大丈夫」ってどっかで言ってほしい気持ちと重なってくるような気がしていました。

藤原:チェルノブイリ原子力発電所事故以後、作家の広瀬隆が『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』(1987年、八月書館)を出版します。メディアにも多く出演して、精力的に反原発運動を行っていたと思います。皆さんはあの頃に盛り上がった反原発運動をどのように受け取られていましたか?

小田:このチェルノブイリの後は、反原発が結構高まりました。日本よりもヨーロッパで。私も別に、反原発運動に深くタッチしたわけでもないのに、耳にずいぶん入ってきました。特に核廃棄物の問題というのが非常にクローズアップされた時代が、80年代の終わりぐらいだったかなと思います。

柴田: 80年代の初め、大学生を対象にした未来を考えるといったフォーラムに行ったことがあります。たくさんのテーマの中に原子力発電もあって、当然、地震に対する安全対策も話題になりましたが、人的ミスやシステムが働かない場合はといった質問をすると、そうしたエラーは排除されるよう設計されていると流された記憶があります。単なる印象ではありますが、当時、明るい未来を描けるのがエリートで、設計されたシステム外のエラーを想定して心配するのは二流扱いというか。エリートを目指すならば、たとえ問題があったとしても自分たちで考えてそれを解決するのだというのが、80年代の、科学を志望する学生の気分だったように思います。
 もちろん、チェルノブイリの事故あたりからは変化しますけれども、チェルノブイリのときも、「ヨーロッパではそうかもしれないけれども日本は」っていう日本特殊論がやはり語られていましたね。この物語では、孝は知的階級に属する人間としてそうした推進派に知的に反論する立場になっているのが興味深いです。

野田:チェルノブイリの事故を受けて、忠と自民党の政治家秘書の吉岡との間で、記者会見のリハーサルをしますね。眼鏡を取って鬼の吉岡に豹変した吉岡がそこで忠を追い詰めていく。最初は「万に一つも、億に一つも、事故のねえように点検する……」と表明するつもりだった忠町長ですが、吉岡に「日本の原発でも、今後、同様に事故が起こることは、考えられないのでしょうか」と問われ、「考えてもいいですか」って言ってしまう。しかしそれでは、事故の可能性を日本でも認めてしまうことになると吉岡に突き詰められますね。ここで吉岡「んじゃ、考えんな」、忠「あぁ、かんがえねえ」、というやりとりが生まれます。チェルノブイリ原発事故が起きた1986年の時点において完全に思考停止を余儀なくされる瞬間です。観客の我々は、2011年に起きたことを知ってます。そういう観客の視点と、当時起きていたことをつなぎ合わせるのが、亡くなった愛犬モモの語りなんですね。この「死者」の視点っていうのが、実に生きてます。「犬はハイデガーを読みませんし、軽自動車を運転しません」と言っていたモモが、第九景では「ダス・マン」というハイデガー用語を使って、まわりの世界により規定される人間性を論じますが、これはまさしく忠の変節のことを言っている。しかしその声は、生きているものたちには届かない。「死者たちの声は、いつもあまりにも小さく、ささやかで、生者たちの放つ騒がしい声にかき消されてしまうのです」というモモの最終景でのせりふは、思考停止と忘却のテーマを確認するものです。

嶋田:私は、この忠が町長選に立候補することになった論理、説得させられた理屈が非常に興味深いと思いました。反原発の立場で、原発の「危険」を知っているからこそ「安全」を訴えることができる、という論理はまったく正反対のものが強引に結び付けられて、まさしくメビウスの輪のような構造をもっています。「危険」をたどっていくと「安全」にたどり着いてしまうような理論ですね。
 あるいは、億分の一の危険性があるからこそ、「安全」と言わなければならない、といった理屈ですね。今話題に挙がった思考停止と関係あるかも知れませんが、「危険」をたどっていくと、実は「安全」にたどり着いてしまうとか、単に反原発派の人間が推進派へ変わっていくっていう以上に、「危険」と「安全」というものが、どこかで理論的に強引に結び付けられている、つまり「メビウスの輪」になっている理論的な回路の描き方が、この作品はとても上手です。

鳩羽:私は駆け出しの記者の頃、原発が集中している北陸地方で勤務していました。この劇を見ていて、原発関連で潤っている経済的な背景、ひとたび原発を誘致して建てたら後戻りはできない現実を思い出しました。原発を建てた時に支給される国の電源三法交付金で下水道や道路、ハコモノを次々と整備しても、交付金には期限付きで、その上、維持費は自前で負担しないといけないので、財政難に陥る自治体が多いです。依存体質になってしまうんでしょうね。この劇の舞台となった双葉町も、震災前は財政破綻寸前まで追い込まれていたようですね。疲弊している地方の現実をみるのは痛々しかったです。