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嶋田直哉(司会)/今村修/藤原央登/柴田隆子=シアターアーツ編集部座談会出席者(発言順)

iaku公演『あつい胸さわぎ』
作・演出=横山拓也
東京公演:2019年9月13~23日@こまばアゴラ劇場
大阪公演:2019年9月26~29日@インディペンデントシアター1st

 

▼手触りのある会話劇

iaku公演『あつい胸さわぎ』 作・演出=横山拓也 撮影=木村洋一

嶋田(司会):9月の対象作品は、iaku公演『あつい胸さわぎ』です。登場人物は昭子(枝元萌)と千夏(橋爪未萠里)の母娘、千夏の幼なじみでこの4月から同じ芸術大学に通うことになった光輝(田中亨)、昭子のパート仲間の透子(辻凪子)、昭子と透子のパート先の主任木村(瓜生和成)の5人。千夏は小説家を、光輝は役者を目指すべく芸術大学に通っています。作品は千夏が大学に入学する4月から始まります。千夏は幼い頃から光輝のことが好きで、また昭子は木村に何となく気持を寄せています。舞台は大阪で、木村は千葉県から訳ありで大阪に赴任してきたことが次第にわかってきます。また透子は読書家で千夏に文学作品を教えたりしています。が、それと並行して、透子は光輝から告白されたりと、なかなか複雑な関係が展開します。そのようななか、大学の健康診断で千夏に乳がんが見つかるところから話が急展開していきます。
 人間関係がとてもよく整理されており、うまく発展していかない恋愛関係が緻密に描かれるなど、話の展開も上手にまとまっています。

今村:本当によくできたお話で、逆に言いますと、少し、既視感もないわけではないです。ただ、作家の登場人物への寄り添い方が非常に丁寧で、一つ、一つの感情のようなものが、すごく手触りがあって、伝わってくる。全体が概ね千夏の目線で物語が描かれていて、それをうまく活かすために、大学の創作実習の課題朗読をモノローグとして使うアイデアも、非常に面白く見ました。
 何と言っても、この作品では大阪弁といいますか、関西語といいますか、その無敵さに感嘆しました。特に、母親の昭子の発言、親子の会話にも出ているのですけれども、相当、きつい内容でも、大阪弁だと言えてしまう、言い過ぎたと思うと、笑いでごまかせる、この大阪語の特性を、とてもうまく使っています。さらに、木村の東京弁、ともすれば人間関係に角を立ててしまう標準語を混ぜることで、その威力を倍化させる、そのあたりの言葉に対するセンスにも、感心しました。

藤原: iakuの作品を約3年振りに観ましたが、やりたいことがすごくはっきりしている作品でした。これは以前には感じなかった大きな点です。その最大の要因はタイトルの「胸さわぎ」にあります。さまざまな片思い(昭子から木村へ、千夏から光輝へ、光輝から透子へ)がもたらす胸の高鳴りと高揚感。そして千夏に訪れる胸のしこり=がんによる不安。高揚と不安という、対極にある要素が「胸さわぎ」に投射されており、それをどう消化するかが作品の軸になっているからです。その極まりは、「胸さわぎ」に対する昭子と千夏の対立と、胸襟を開いた末の和解でしょう。
 当人の胸に存在する高揚 ないしは不安の「しこり」が、演劇的な比喩(ひゆ)に上手く使われています。乳がんと聞くと特殊な病気のように聞こえます。しかし、それをしがらみや後悔にまで広げれば、誰かしら何らかの「しこり」を抱えて生きています。千夏の悩みが観る者にも思い当たる。そう思わせるからこそ、乳がんというショッキングな事象が物語を劇的にするフックとして効くわけです。
 舞台美術は抽象的というかシンプルで簡素でしたが、それだけに作品の核が浮き立ち、強調されていました。戯曲も舞台表象も、いらないものをほとんどそぎ落として、必要なものだけを残したという印象です。

柴田:私もプロセニアム型ではない「のぞき箱舞台」を見るようで新鮮でした。「のぞき箱舞台」と言うと古い演劇のように聞こえますが、彼ら親子の生活の本当に細かい機微までが表現されていて、その中に没入するかたちで、普通なら見られないものをのぞき見てしまった気がしました。今村さんのおっしゃったように、大阪弁の持つ言葉の柔らかさときつさ、そのやり取りが非常に面白かった。でも、これらは私の周りには絶対ないだろう人間関係です。少なくとも私にこうした姿を見せてくれる人は思い当たらない。普段の生活ではまず見ることのできない人間関係を、舞台を通して盗み見ている感じがとても面白かったです。
 今、世界情勢など、大きな文字でメディアの上に踊るような、不安や問題などはたくさんありますが、個々人が一番気になることは、この舞台で起きているような、自分の体のことや身近な人間関係に関する一喜一憂などだと、改めて思い出させてくれるウェルメイドな舞台だと思います。