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▼登場人物の描き方

iaku公演『あつい胸さわぎ』 作・演出=横山拓也 撮影=木村洋一

藤原:見たいものをうまく見せてくれる。だから観る者も感動し感心させられる。それは裏を返せば、作家の術中に嵌っているということにもなりますか?

柴田:リアルな人間には、多様な面あるのが普通です。同じ人間関係でも良い面と悪い面とがあるのが普通なのですけれども、舞台でそれが見たいかというと、どうでしょう。あまり見たくないといいますか、それだとキャラクターの統一感がないように感じるのです。
 それと、悲惨な重いテーマばかりを見るのは、やはりくたびれるときがあるので、心がざわざわする演劇が我々にとって必要なものだと考える一方で、たまには没入して舞台を見たいという欲望もあります。ブレヒト以降の批判的リアリズム演劇では「没入」の言葉は、あまり良い意味にとられていませんが、こういう観劇体験も必要です。
 人間にはこういう良い面もあると思い出させてくれる力が、この劇には強くあります。嘘ではなく、こうした人や関係を私たちは知っている、記憶のどこかにあると思い出させてくれる。人の善意を信じる気持ちを呼び覚まして、上手なかたちで取り出して、見せてくれていると思います。

藤原:そこをあえて強調して表現していることですか?

柴田:あえてしているのではないかと、私は思ったのです。「人は強い。強いと信じたい」と横山さんはサイトにも書いていらっしゃいます。人の強さは人とのつながりによって支えられます。例えば、自分が乳がんになったときに、乳がんには標準治療があり10年生存率はなどというデータを私たちは聞きたいわけではないのです。こういう優しい人たちが周りにいたら、きっと勇気づけられるでしょう。明日ももう少しだけ頑張れると思うことが、強さにつながるのではないかと思うのです。

藤原:大阪の桃園会(主宰・故深津篤史)を思い出させます。壮大な宇宙空間の中に、ぽつんと日常的の具体を俎せるような劇世界です。そういった劇空間をしつらえることで、日常の不気味さが強調されます。ぽっかりと日常空間が浮かび上がる様は、桃園会の劇空間に似ていますね。桃園会は決して優しい劇世界ではないのですが。
 宇宙規模の停滞した壮大な空間、それに類する抽象を背景にすることで、具体である人間の存在が強調される。それが先ほどから言っている舞台空間と俳優の演技の関係にあるわけですが、横山さんはそのことを良く知って演出している気がしますね。だからこそ、作品が伝えることも倍加される。そういったことや、柴田さんが今おっしゃったような要素なども、いろいろなそういった要素が合わさって良い作品になっているのかと思いました。

嶋田:その要素の中に今村さんが最初でご指摘してくれた感情の手触りを浮き彫りにするような言葉のリアルさがあると思います。千夏が中2のときに身体的成長で胸が出始めて、それを男子に指摘されたあたりから、自分の体に対する違和感のようなものを感じていく、という場面は非常にリアルですね。

今村:あのあたりの感覚は自分のことを考えると、男性はなかなか分からないと思うのです。けいこ場で、俳優さんたちとディスカッションして作り上げたのではないでしょうか。

嶋田:あのあたりの言葉は、男性からは出てきませんよね。

今村:出てこないです。

嶋田:出てこないと思いますよね。

今村:と、思います。それも含めて、うそをつかないで済む場所で勝負をしているように見えました。横山さん自身が大阪芸大出身で、多分、自分の周りにも、ああいう話はあったのだろうし、そんな中で、あの言葉が出てくるので、またそれがリアルなのです。

嶋田:このリアルさを柴田さんはどう思いますか。

柴田:私は、実はiakuはこの舞台が初見です。横山さんが、どういう来歴でこれをお書きになったかも、何も知らずに、ただただ、アゴラに行きました。
 初見の印象ではありますが、目の前に映るリアルなものを、単に原稿化するだけでああいう舞台ができたとは思えなくて。関西弁も、私はあまりなじみがなく、大阪のコミュニケーション文化もよく知りません。舞台のような関係が現実にあるかを判断する基準が自分の中にはないのです。にもかかわらず、舞台での出来事に現実味を感じました。
 理想的とされがちな温かい人間関係があることをリアルに提示できる、言葉として書けるのは、才能というよりも、大変な努力と思考の賜物のような気がするのは、考え過ぎでしょうか。