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▼東日本大震災と現代演劇――福島三部作を通して

嶋田:最後に、この作品全体(第一部、第二部、第三部)を通して、考えてみたいと思います。それと同時に、今の演劇と、それから、この東日本大震災および原発の問題を、現在の2019年時点で振り返りたいと思います。

野田:『シアターアーツ』誌は59号(2015年)で2014年の演劇を振り返りましたが、その時の特集題が「境界の不安」というものでした。2011年の黙示論的状況が、決定的変化の転機になるように思えたのに、結局それはほとんど変化をもたらすことなく、「絆」というキーワードだけなんとなく響かせながら、経済をめぐる見慣れた議論へと回収されてしまったように見えた。それに対する危機感が2014年の演劇に反映されていたんじゃないかっていう意識を、この特集題に込めたつもりでした。忘却がもたらした、「日常」へ回帰に対する不安と危機感みたいなことです。
 福島三部作を観て、あのときの気持ちがよみがえりました。第一部が《夢=幻想》であったとすれば、第二部は精神的《固着》がもたらす思考停止、そして第三部は破局がもたらした人格《解離》であると、私は思います。震災が福島にもたらした終わりのなさ、境界を越えてもなお、境界が境界としての自らを忘却していく姿というものを、見て取ったわけです。
 第一部が示している《想像》は、起こったことがないことを起こそうとするわけですから、世界の果てという境界を越えるということです。それに対して第二部の《想定》とは限定がその主眼です。起きないと定めることですから。例えば、チェルノブイリで起こったことは日本では起きないという1986年での思考停止が、想定に当たります。第一部から二部っていうのは、この《想像》から《想定》への動きですね。すると第三部は《想定外》のことが起きたあとの話になります。福島三部作が、人間に火を与えたかどでゼウスにより罰せられるプロメテウス神話にもなぞらえるべき、人間の傲慢の軌跡であることが、ここからもよくわかります。精神分析用語でいえば《幻想》が《固着》、そして人格的《解離》へと進んでいくわけです。実際、第三部では、病床にいる忠は上演台本によれば19歳、44歳、そして69歳との間を行き来している3人の幻の声を聞くのですが、これは紛れもなく統合失調がもたらす人格解離です。忘却をこいねがった果ての解離が、現時点でのわれわれの姿だということですね。

藤原:佐伯がアインシュタインの言葉として「想像力は知識よりも重要だ。知識には限界がある。想像力は世界よりも常に広い」と述べます。科学の力を使うことで現実化した想像が、原発事故によって破綻した。科学万能の神話が崩れ去った今、想像することで世界を徐々に未知なるものへと広げていくという夢は、もはや描けないのでしょうか。

野田:第三部で、真が兄の忠を見舞うとき、家にあった音楽のテープを持ってきます。第一部の冒頭0景で、防護服を来た男、つまり三男の真が回収していたレコードをテープに落としたものです。第一部で流れていた曲が入っているんだろうなということまで、ここで察せられる。しかし忠の妻である美弥は、忠の記憶が刺激されて病状が悪化することを恐れて、テープを受け取りません。そして「生きてくっつうのは、忘れてくことだ」と言うんです。「みんな勘違いしてんだ。人生に物語はねえの」と言うんですね。忠の言葉を録音しようとしていた真は、ジャーナリストとして途方に暮れます。
 そんな真は、第三部の最後の方で部下の小田真理(柴田美波)に「ロウソクを並べるようにして(エピソードを)並べたら、それだけで見ている人には、震災の一っの姿が見えて来ないかな」と言うんですね。そして、最終的には報道局長を辞職し、飯舘町の職員になります。
 被災者たちの間でも、お互いに想像できないことがあまりにたくさんありすぎて、彼らの言葉は一つの像を結ばない。それでも語られたがっている言葉がある。それに対して耳を真摯に傾けるのは、特に福島から電気を送ってもらっていた東京の観客の義務でしょうね。おそらく演劇っていうのは、この傾聴に必要な、自然科学的なだけではない、人文学的想像力を刺激するためにあるのかなとも思いました。

柴田:第一部で次男の忠が言いますよね「桜を植えていきたい。例えばなんだけど」みたいな言い方で。そのときの彼が、町を良くするために〈想像〉したのは桜だったんです。そして私はその時、舞台美術の電飾が桜に見えていました。
忠にとって根っこにあった町を良くしたいという気持ちは同じでも、かつて想像した桜並木が既成事実となった原発になってしまい、第二部では、既成事実はもう変えられないと思うことで、根っこにあった思いや、それを抱いた人間そのものが変節して様が描かれていました。第三部は、ばらばらに見える人々が何を語ろうとしているのか、どんなものを想像しているのかということを、もう少し深いところまで掘り下げてみませんかと言っているように感じました。
 「日本の原発は安心です」という安全神話は私たちが聞きたかったものだというのは、オリンピック誘致の際の安倍首相の言葉にも通じます。「アンダーコントロール」という言葉を当時私はカッコよく感じ、無邪気に信じようとしました。あれは、私が、私たちが、まさに聞きたかったセリフだったのです。
 自分を顧みても、人間は聞きたい言葉の方を信じたくなってしまうのだと思います。この第三部で語られていた言葉たちは、一度は聞いたことがある言葉で、でもとても残念なことに、すっかり忘れていたことをこの舞台を見て気づかされました。本当に心から気にしていたつもりだったくせに、いつの間にか忘れていた言葉たち。この忘却力と聞きたい言葉への信仰との間で宙づりになって、簡単に割り切れるような立場を決められる人はそれほど多くはないと思います。
 もちろんちゃんと自分の立ち位置を決める人もいるとは思いますが、一つの立場で生きることができない大勢の人たちはどちらか一方の立場は選択できないし、そもそも考えることさえしていない。でもそういう中で、何かをその時々に選んでいかなきゃならないことを考えさせるような舞台だったのかな、というふうに感じています。

鳩羽:私は大きな物語がもう終わったんだなと、三部作を見終わった後につくづく感じました。戦争に負けた日本は、戦後、大きな物語を生きてきた。焼け跡から立ち上がり、経済復興を遂げて。第一部が科学、第二部が政治、そして第三部が報道と、穂積三兄弟がそれぞれの分野を背負うかたちで、戦後のニッポン物語を描いたとも読めると思います。
 でも、そういう大きな物語は終焉を迎え、今の日本は「その後」を歩んでいる。第三部の終盤、被災者のバラバラのエピソードを、ロウソクのように並べたら震災の一つの形が見えてくると語る真の言葉に、私はかすかな希望を見いだしました。
日本はどうあるべきかとか、大上段に構えるよりも、まずは大きな物語の中で埋もれがちだった一人一人の幸せや思いというものを、もっと大切にしていきたいと思いました。

小田:先ほどのご発言にもありましたが、2011年は日本が変わるはずだったんじゃないのかって。それなのにどうしたんだって。チェルフィッチュ公演『部屋に流れる時間の旅』(作・演出=岡田利規、2016)には震災の年に妻が死んで、妻の亡霊がその後のことを知らないから出てきて、震災があって本当に良かったって、すごいせりふを言いますよね。
 以降のわれわれは、芝居にしろ生き方にしろ、それから近代日本の軌跡にしろ、そういうものに対する実態を感じ取ったのだと思うんです。理論としてこうだとか、本で読んでこうだったじゃなくて、現実の問題として突き付けられたはずだったのにっていうのを、もう一度、この作品が観客に突きつけてきたのではないかと思います。

藤原:だから、やはり「関係ない」で済ませちゃいけないってことなんですかね。無視するとか切り離す態度だけは、かろうじて取ることは止めよう。そのことを、三部作から切実なものとして受け取りました。そこで初めて、では自分には何ができるのかという次の行動が考えられるわけで。

小田:私、この間、「演劇カフェ」(2019年7月2日@座・高円寺)で話をするために、戦争中の能楽について調べました。それが能だけの問題じゃなくて、芸能全体がお国のためにという方向に向かっていきます。自分たちは普段、芸能みたいなくだらない、わけの分からないことをやっているのだが、今こそこういうかたちでお国の役に立つことができるのだ、とそれなりに真剣に考えて動いていることがわかりました。だから今だからこそ、このような動きが分かるということがあると思います。そのへんまで、この福島三部作を観ながら考えることができました。

嶋田:この2019年になってからも、震災のことや福島のことを振り返る演劇作品は上演されています。ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、例えば、3月に青春五月党公演『静物画』(作・演出=柳美里)を上演しました。青春五月党再結成ということで話題を呼びました。男子版、女子版の2つのバージョンでした。これも死者の世界とリンクしていく幻想的な物語でした。また6月に上演されたKAKUTA公演『らぶゆ』(作・演出=桑原裕子)は、福島を舞台に東日本大震災をある一つの物語の中に落とし込んで作っていった作品です。
 この演劇と東日本大震災と、それから福島という問題が、中途半端な時期であれ、先ほど野田さんは忘却装置だとご指摘した東京オリンピックを前に、今一度、問い直されている時期に来ていると思います。
その中において、この福島三部作は、やはりすごく直球で骨太で、今現在のわれわれに突き刺さるようなかたちで谷さんが投げつけてきた剛速球のような気がします。それをわれわれは、やっぱり捉えて、そして考えていかなければいけない、と思いました。

野田: KAKUTAの『らぶゆ』、これも夢が破綻していく話ですね。それと罪悪感。《許されざる者》を描いたら、KAKUTAの桑原裕子の右に出る者は今いないんじゃないかとさえ思います。元服役者達が地方で自分たちの居場所をともに築こうとする中で、生きづらさを感じていく。しかし、それを克服しようとする努力も結果も、最後の地震ですべて流されてしまう。あの舞台は、私も非常に印象に残っています。

藤原:それゆえに、かなり際どい作品だなとも思いました。『らぶゆ』は『痕跡』(作・演出=桑原裕子、2014年)や『愚図』(作・演出=桑原裕子、2016年)と同じく、ギリシャ悲劇のように世界を俯瞰した眼差しから人間を描くという点では、桑原裕子らしい筆致が発揮されています。犯罪者たちが福島県でコミューンを形成して、再スタートを切ろうとする。しかし、そこに震災が起こって結局は皆がバラバラになる。
 この展開で、東日本大震災は日本人への「天罰」だと発言した石原慎太郎を思い出しました。犯罪者はどこまで行っても許されず、再チャレンジもできないのか。犯罪者が被災することで罰せられ、とことん追い込まれていく様は、石原発言のような不謹慎さと背中合わせのようにも思えて、ちょっと気になりました。極限の状況下でも、人が人の幸せを祈るというプリミティブな美しさが最後に描かれていて、それはかすかな救いではありましたが。

柴田:小田さんも挙げられていた『部屋に流れる時間の旅』は、震災後すぐに亡くなり幽霊となった妻と、震災後5年の歳月を生きてきた夫と新しい彼女がそれぞれ今の心境をひとつの部屋で語り、同じ場に異なる時間が流れているのを示す約75分の作品で、通しで約7時間の本作とは語られ方も全然違うのですが、観劇後に自分に突き付けられた問題系として同じものを感じました。
 幽霊になった妻は、震災直後の助け合いの中、これで日本は変われると幸せのうちに亡くなっていて、人間の善の側面を記憶に刻んだままなのに対し、その後の時間を生きている夫や新しい彼女は、そうした記憶をすっかりとは言わないまでも、忘れている。<現実>を生きることと忘れることはイコールではないのだけれど、幽霊でない私たちはそこにとどまり続けることもできなくて、どこかに罪悪感を感じつつも、忘却という選択肢を意識せずに選んでしまっていることを突き付けてくるような作品でした。本作も、「あなたは、あのとき何を考えていましたか」と終始問われているようで、考えたいとその時には思いつつ意識下に追いやっていたものを、改めて考えさせられました。

野田:ミナモザ公演『Ten Commandments』(作・演出=瀬戸山美咲、2018年)も思い出されますね。3月11日のあと、紡ぐべき言葉を失って口がきけなくなってしまう女性の姿は、瀬戸山自身の姿でしょう。「Ten Commandments」=十戒というのはこの場合、核物理学者として中性子による核連鎖反応の可能性を思いつくに至ったレオ・シラードが1940年に自らに課した10の戒めのことですが、そこには「自らが持てあますものを欲しがってはならない」など、やはり核利用と人間の傲慢さを思わせる一項が入っています。

嶋田:いろいろと話題が出て参りました。今後も東日本大震災と演劇の関係を考えていきたいと思います。皆様、本日は、どうもお疲れさまでした。

全員:ありがとうございました。

(2019年9月4日@明治大学和泉キャンパス研究棟共同研究室1)