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 この菅さんの本の中で、「六〇年代演劇を遠く離れて」という、かなり重要な章がありますね。鈴木さんが利賀村に、そうした同志の集団をつくって離陸を果たしたけれど、誰もほかの人は可能になっていない。利賀村におけるSCOTの活動が何で評価されるかというと、もともと鈴木さん自体も、60年代アングラ演劇の中から出てこられたわけですよね。寺山修司とか唐十郎とか佐藤信とか。そうした人たちのつくってきた60年代アングラ演劇からの離脱、これがやっぱり一番大きな契機だったんじゃないかと菅さんは述べておられます。

 ここも引用させてください。138ページあたりですけど。「一九八四年、早稲田小劇場はSCOTすなわちSuzuki Company of Toga(スズキ・カンパニー・オブ・トガ)に改称した。これには二つの意味がある。第一に利賀が拠点だということ、第二に団結の核は鈴木だということである。改名は鈴木が六〇年代演劇から別れて、新たな地平をめざす意志表示でもあった。六〇年代演劇の共軛性とは、新劇の通念であった戯曲の優位から訣別して、①演劇は俳優の身体が生み出す言葉である、②この時間芸術は現実の時間に拘束されない、③近代劇場の規範にも拘束されない、という前提を共にしたことだった」。

 つまり、60年代演劇というのは身体と非現実と、それから劇場の構造に拘束されない。その三つを押し出した、ということです。引用を続けます。「だが、とりわけ紅テントや天井桟敷とそのエピゴーネンには、〈時の利〉を背負った〈無方法の方法〉、無手勝流の積極的アマチュアリズムの作風が濃厚だった。それは敗北覚悟の決意主義とも繋がる。初心において、それはパセティックで美しい。だが時の経過とともにそれだけでは光を失う。あえて敗北の美学で生き残りを図れば、ヒロイックなポーズだけの自己保全に転化する。鈴木が訣別したかったのは、この種の自己保全志向だったのではあるまいか。」

 これに関してはそれなりに我々も60年代演劇に対する評価を、菅さんがこれだけ明確に述べられているわけですから、応答を迫られていると思います。菅さん、「自己保全志向から訣別するために鈴木はアングラから離脱して利賀に行った」ということですが、その辺はいかがでしょうか。

【菅】いや、鈴木さんが東京の演劇と訣別して利賀に行った時期と、私がアングラとの訣別といったSCOTと改称する時期は8年以上隔たっているんです。だから、それはひとつのことではないと思います。1976年の東京の「アングラ」は、かなり苦しくなってはいますが、状況劇場も黒テントも天井桟敷も、まだそれなりに意気軒昂です。「弱小」グループを含めて、私が批判した敗北の美学やアマチュアリズムの退廃も顕著にはなっていません。自己保全とか自己模倣とか停滞とかいう風には括れません。たしかにこのまま東京にいてもだめだなという鈴木忠志の直感が、利賀へ動かしたのでしょうが、それは私の鈴木忠志論の115ページに引用しておきましたが、早稲田小劇場固有の事情による面が強い。別役実と訣別し、小野碩が亡くなり、その中で、世界的な評価を得、74年からは岩波ホールが自由に使え、資金も提供される。だから一旦外そうと思ったと鈴木さんは語っています。それから、利賀の固有の劇場空間の確保、スズキ・トレーニング・メソッドのひとまずの完成、国際舞台芸術研究所の設立、利賀フェスティバルの開始という8年の蓄積を経て、過去との切断を決意できたのが1984年、ということなんじゃないですか。

 さっき本橋さんもおっしゃっていましたが、東京のど真ん中に自分たちの劇場があって稽古場があって、自由に稽古ができて、ということが可能なら、それは劇団と言うことの意味がありますが、稽古場はないわ、公共スペースは借りなきゃいけないわ、自分たちの集団の表現の間尺に合った劇場があるわけでもないわ、ということだと、劇団と名乗っても実態が有名無実なので、鈴木さんは、そうじゃないところへ行ってそうじゃないものをつくろうということを、実践した人ということでしょう。その実践のひとまずの完成形ができるのには7、8年掛かっているので、初めからそこまで見通した、というのとは違うと思います。

 本橋さんが翻訳されたランカスター大学のアリソン・フィンドレーさんの文章(『利賀から世界へNo.8』)のなかで、ジャック・コポーがパリから離れたところに拠点を構えて、そこで独自の集団性を築くような訓練をやって、そこでは生活まで共にして、掃除から何から全部一緒にやったという話が出てきていたじゃないですか。別に日本に固有とか鈴木忠志に固有ということじゃなくて、どの文化圏であろうと、演劇で同志的な関係を取り結ぶには、日常的に緊密な関係を結んでいかないと、阿吽の呼吸で動ける集団はつくれない。そういうことを日本で長年かけて実現したのが鈴木忠志という人だった、ということです。ひとまずの到達点が自認できてからでないと、過去との訣別宣言は難しいのではないでしょうか