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【内野】批評家というのは、やっぱり反国家だったわけじゃないですか。だから、その行政と何か話をすること自体が、芸術家としてよくないという感じだったですよね。もう過去の話かもしれませんが、鈴木さんが一部の批評家から批判されるのも、そういうことじゃないですか。何でお前は行政と話しているんだ、みたいな。そういう批判は私には訳が分からない。つまり、その二項対立がですよね。ヨーロッパについて私は話しましたが、ドイツの劇場のアーティストというのは、政府を批判することが仕事なんですよね。だって、批判しなければ何も変わらないじゃないですか。何が問題かを、ちゃんと市民と共有する。だから、そういう意味ではヨーロッパの劇場というのは保守的なんですよ。要するに、国家を何とかしようとしているだけなんだから。

 だけど、当然批判はするわけですよ。よかったねとは言わない。エンターテインメントではないわけですよね。何度も繰り返しになるんだけど、そこをもうちょっときちっとやっていかないと。ただまあ、新しい世代のマインドセットは変わっていると思いたいんですけどね。つまり、演劇をやるからには反社会的でなきゃいけないみたいな世代が、どんどん退場していってくれているので。それで、行政ときちっと話をしてやっていくと。これまでは、どっちかだったわけですよ。行政と話ができる人は、鈴木さん以外は芸術的にだめ。しかしながら、鈴木さんみたいに芸術的に天才的な人で、しかも行政と話ができる人というのがもっといるはず。あるいは、しっかりした役割分担でも本来は別にいいと思うんですよね。

 天才的な芸術家を支える文化制作者が、行政ときちっと話ができるということでもいいと思うんですが、これまではそこはうまくいかなかった。ただ、そこが変わらないと何も変わらないというか、むしろ既存の公共劇場については、事情は悪化していると私は思います。

【菅】いくつか思いつくままに言わせて頂きます。今とても気になるのは、緊急事態舞台芸術ネットワークです。秋に社団法人化されたんですよね。会員には、巨大芸能事務所や松竹とか東宝とか劇団四季とかと、公共劇場と、お金なんか全然儲からないし宿命的赤字の小さな劇団とが、一見平等なように並んでいる。そしてこの団体の陳情先は経産産業省なわけですよ。戦前の演劇界は国から脅かされて翼賛運動のための運動体をつくりましたけど、今度は演劇人の側から作っちゃったんですよね。

 一見参加は平等、みたいなものをつくって、誰が得するのか。惨事便乗資本主義(ショックドクトリン)の手法ですから、演劇を興行として意味づけている大資本です。もちろん、経営が惨事に遭ったわけだから、何とかしろと企業が国に要求することは悪いことでも何でもありません。問題は、そういう要求を政府にするための圧力団体・陳情団体として、こういう呉越同舟集団を作ったことです。

 群小劇団にとって必要なのは、無料の稽古場や上演空間の保証とか、そういうことですね。それだったら公共劇場の芸術監督は四季や松竹や東宝や巨大芸能事務所の社長と連名するのではなくて、自分の権限で劇場と稽古場を無料で開放するとか、権限がなければ首長に劇場や稽古場の無料開放を要求するとか、そういうことをすべきでしょう。コロナで疲弊した文化芸術を守るという目的なら、文化庁にそのための政策を要求したり陳情したりする団体を、それを必要とする人々でつくるべきです。経済的貧困一般が問題なら、演劇団体がやるのではなくて、業種・業界を横断した組織を作って厚生労働省に要求すべきです。やるべきことが全く別々の人たちが集まっているのはとてもおかしいです。

 その上、規約に、除名条項まであります。有力な団体が理事になっている理事会決定に従え、ということです。異論の禁止ですよね。翼賛団体になるように作られているわけです。ショックドクトリンというのは権力とか資本とかがやるものなんだけど、ショックドクトリンをしてくださいという大衆団体を演劇人が呉越同舟して作っちゃった。

 次に、先ほど、公共劇場に関して演出家の力量の欠如ということを言いましたけど、すぐに鈴木忠志さんのような力を持つということは困難です。それでも、学習して何とか悪戦苦闘しようという人が、3人や4人出てきてもよさそうなものだという想いは変わりません。誰も何も考えていないとは思えないんですよね。

 最後に、演劇界全体への危惧として、かつては権力に逆らうことが芸術家の使命だと思っていたはずの演劇人が、時代の推移とともに、行政はお願いの対象と考え、助成金が出なければ舞台は作らないみたいな、倒錯的な乞食根性にさせられてしまっている構造に知らない間にはめこまれている、個人の根性ではなくて構造的に牙を抜かれているのは怖いなと思います。演劇界全体は知らない間に、凄く酷いところに来ているのではないか、私は悲観的です。

 だから、底をついたらあとはよくなる、墜ちろ、墜ちろ、という考え方を僕はしちゃいけないと思っています。いま、底をついたらついたままだと思う。だから、少しでも底をつかないように踏ん張って、情況の変化を待つしかない。鈴木忠志論から離れちゃいましたけど、折角鈴木忠志が芸術的な成果だけじゃなくて、芸術政策、公共助成、公共劇場に関するモデルをいろいろ作ったのに、あまり学ばれたり利用されたりしていないのがもどかしい限りです。舞台表現でも、政策の構想でも、別に鈴木を模倣しろと言っているのではないんです。反面教師としてでも、対等なレベルで対峙することが問われているのではないですか、ということです。締めになったかどうか分かりませんけど、そんなところです。

【本橋】この菅さんのご著書は、鈴木忠志氏の演劇を考えるだけじゃなくて、演劇というか芸術一般に関して、あるいは人間が人間として生きていくために、何を大事なこととして考えなきゃいけないかということのヒントが、たくさん詰まっている赤い本です。本日は長時間ありがとうございました。