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【本橋】この菅さんの本は単に鈴木忠志演劇の軌跡、SCOTの歴史をたどるだけじゃなくて、それが日本の演劇界の制度がどういう形で変遷したかということを、非常に詳細に跡付けています。鈴木さんが利賀に行かれた時代、1976年から1980年代に移る時代は、これは今回の四回のシンポジウムで何度も立ち返っていく話題ですが、「公共劇場」というものがつくられようとした時代ですね。東京で24時間稽古できる場所なんてないわけですね。劇場を借りるにも稽古するにもお金が掛かる。その中で、同志であるとか集団性というのを維持するのは非常に困難なわけですから、そういう場所をどのようにつくっていくのかというときの一つの答えは、公共劇場ということになるわけですね。つまり時間やお金を気にしないで、これは公立ですから国や地方公共団体が場所をつくって、その費用も出してくれるということですね。引用しますと、143ページで菅さんはこう述べておられます。「〈方法としての病院〉の発見と、鈴木が演劇活動を載せている場の意味および機能を社会的に位置づける活動を自覚的に開始する時期はほぼ重なっている。公共劇場のシステムの確立と普及はその一環である。納税者の権利としての公共劇場という概念は、日本社会に馴染まなかった」。納税者の権利、つまり我々は税金を納めているから公共劇場で演劇を見られるというのは、我々市民の権利だという発想です。だから、これは公共の財産としての演劇ということになります。引用を続けます――「近代演劇誕生以来、長らく国家の弾圧に晒されてきた演劇人には、劇場が、観客と演劇人のあいだ、観客相互のあいだの対話や学習の場であり、政治は市民にそのための充実した環境を提供する義務があるという西欧的な「伝統」を思い浮かべる素地がなかった。だから芸術を人間諸関係の必需の糧とする観念が社会に存在しなかった。政府にとって芸術は、それが単に芸術であって産業でない限り、放置か取り締まりの対象であった」。この日本の演劇を囲む歴史や偏見に対して、鈴木さんが戦って公共劇場を何とかつくろうとした。そのいくつかの成果が水戸芸術館や静岡県舞台芸術センターだった。ところが、東京の初台に新国立劇場ができて、これは国立劇場ですから、公共劇場で日本でトップの劇場ということになるのですが。果たしてそれはどういう場所であろうかということを、いろいろな意味で我々も考えなきゃいけない。菅さんによる日本演劇史の整理によれば、日本において初めて公共劇場というシステムの確立が目指されて、鈴木忠志さんがそれに尽力されたということが特筆されている一方で、日本における公共劇場というのは理念としても現実としても、その後混迷と低迷の一途をたどっている。それからもうすでに何十年とたっているんですが、このあたりをやはりきちっと整理して考えない限り、鈴木演劇というものの特質は考えられないと思います。まず、内野さんからこの公共劇場の問題についてお願いします。

【内野】その公共劇場というのは、突然できたわけじゃないということがまずあるわけですけど。まず、演劇といえば歌舞伎が江戸時代に確立して、基本的に明治もずっときて、そこでいろいろなことがあったとは思うんです。そういう反社会的、反体制的というような身ぶりの中で、ずっときていたということはある。それで、西洋に追いつけ追い越せのときに東京美術学校、今の東京藝術大学になぜ演劇学部がないのかという話ですが。東京音楽学校と東京美術学校というのがあって、この二つが戦後東京藝術大学の新制大学になっていくという流れの中で、演劇学部はできなかったわけです。平田オリザさんは東京藝術大学に何とか演劇学部をつくろうと奮闘されて、なかなかうまくいかずに、それなら大学院の研究科か専攻ならと思ったけどそれにも厚い既得権の壁があった。その結果、ある意味では開き直って豊岡に兵庫県立の大学をつくった。そのように推移してきた演劇の日本社会での位置というのがまずあったと思います。公共劇場という話は、日本語圏では、ほとんど政治的なイシューとして出てくると思っていて、つまり、ゼネコンに造らせるものがほかになくなったということですよね。要するに公共事業として何をやるかといったときに、もう、全部の県に美術館や県民会館とかあるので、目的がはっきりしたものをつくろう、となるわけですよね。田んぼの真ん中にすばらしい音響効果のあるコンサートホールができたりする時期ですよね、このバブルの後半というのは。

 だいたい国の財政というのは、私も昔国立大学法人にいたからよく分かるんですけど、現実的な経済動向から数年遅れるんですね。税金を使う公共事業というのは、バブルが弾けてからバブルが来ます。そんな中で公共劇場もできてきたということです。鈴木さんが特異だったと思うのは、同志をつくっていったということだと思います。当時の水戸市長さんもそうだし、静岡県知事もそうだし、同志として活動に巻き込んでいく。つまり、菅さんも書いていましたけど、何か演劇人が寄り集まって陳情団体をつくって、何かやらせてくれみたいな話ではなかったということが重要ですね。だから、さっきから公共劇場と言っているのは、芸術監督がいて芸術監督が予算編成権と人事権を持っているということなんですね。芸術監督がフルタイムで、税金で雇用されている。

 そして、予算編成ができるということは、つまり人事権があるということになりますが、これは水戸や静岡の鈴木さんだけでした。そのときの鈴木さんと、静岡でその後を継いだ宮城聰さんだけが、今現在、予算編成権と人事権を持っている芸術監督だと思います。それ以外は雇われですよね。新国立劇場の芸術監督というのは、指定管理をする財団の嘱託とか何かそういうことになっているんじゃないでしょうか。つまり劇場というのが、そういう公共財としての、プロフェッショナルな芸術としての演劇を見る場というふうには、日本の伝統の中ではならなかった。劇場というのは公民館的に、素人が何かをやる場という考え方が強くあって。それにあらがった動きが1990年代から2000年代にかけて、ある程度は出てきたけど、すぐにしぼんでいったというように思います。先ほどから言っているように、やっぱり国家に対して陳情するという立場になると、なかなか厳しいと思います。

 ですから、やっぱりその同志をつくるという運動意識みたいなものを持ったアーティストが、今、観客席に「鳥の劇場」の中島諒人さんもいるので、世代的にはゼロではないわけですけど、なかなか鈴木さんの後に続かなかったということが、大きいのではないでしょうか。それで、実社会から遅れる格好でバブルの崩壊が来たわけですよね。新自由主義というと格差を広げるとか、何かよからぬことをするみたいなことを言われますけど、新自由主義というのは言い換えるとプライヴェーティズム、つまりあらゆるところに資本主義が入っていく、商業化するということ、私物化ですね。それで、どうなっていったかというと、経済がしぼむので、さまざまな巨大な商業資本が劇場に入っていくという状況が、起きてくるわけですね。それ自体は悪くないですよ。国交省の役人が現場で現場監督をできないですから、官僚なんだから。それはどこかにちゃんと仕事を委嘱しなければならない。しかしながら、公共性というものが担保されているということが重要なんです。だから、劇場の場合は例えばホリプロのような巨大な商業資本が入っていく。実際劇場としてはその方が効率的なんですね、何しろビジネスとしてやっているので、何でも仕事が速いんです。

 そうすると何が起きるかというと、いわゆる公共劇場でやっている演目と商業劇場、つまり純粋に利潤、さっきの菅さんの区分で言うと純粋芸術と大衆芸術の境界がなくなってしまうんですね。いま何が起きているかというと、たとえば東京芸術劇場の芸術監督は野田秀樹さんですよね。ところが、野田さんの公演って大規模な予算が必要なので、芸術監督の公演はNODA・MAPという外部団体がやっていて、芸術劇場主催じゃないんですよ。こうした事態を特にヨーロッパの人に説明するのは大変困難で、何で東京芸術劇場、あるいは、その大元の東京都歴史文化財団がやらないわけ? と。もちろん助成金とかは出しているかもしれないですけど、NODA・MAPの公演なんですよね。何かそういう日本特有の捻れをつくってしまった。

 もう一つは、日本の官僚システムを踏襲しているということもあって、さっきから言っている芸術監督というのは、佐藤信さんや宮城聰さんを除いて、予算権も人事権もないわけです。じゃあ、どうなっているかというと、スタッフは辞めないから、いわゆる事務方がすごく強くなるわけです。演劇の場合、それは照明なんかの技術者だったり制作者だったりするわけですけど、そういう人たちはフルタイムで財団に雇用される可能性が高いわけです。芸術監督はどうせ4~5年でいなくなるんだから、適当に言うことを聞いていればいいや、というふうにもなりかねない。つまりそれは日本の政府と同じで、官僚は基本、代わらないですが、大臣はころころ代わりますよね。だから、適当に言うことを聞いてりゃいいやという位置に、芸術監督は置かれているわけですよ。それは、役所のことは知りませんけど、やっぱり劇場というからには、芸術監督がアーティストでなければならないとは思わないけど、予算権と人事権を持って、フルタイムでいくということがヨーロッパをまねるならばそうなるべきだったんですけど、もうだめですね。全部崩れてしまって、というか、そもそも最初からそういう想定にないから、なかなか戻れないというところに、今はいるんじゃないでしょうかね。

【本橋】菅さん、いかがですか。

【菅】すごく挑発的な言い方をしちゃうと、政治家が悪いのでも官僚が悪いのでもなくて、まずは公共劇場運営という課題と関わった演劇人の責任だと、言うべきだと思います。公共劇場の建設・運営というのは、芸術家や観客である市民がして貰う行政サービスではなくて、都道府県なり市なりの首長に芸術家が提案し執行させる文化政策の領域ですから、この違いが踏まえられていないといけない。そこがほとんどの演出家に実感として把握できていなかったのではないですか。                         

 地方自治法に公共劇場という文言も概念も存在しなかった状況から、水戸芸術館とか静岡県舞台芸術センターとか、どういう理念とノウハウがあれば政治家を動かしたり官僚を動かしたりできるのかという、先行する指標はできていた訳ですよね。しかし、それを担える演劇芸術家がいなかった。これが最大の問題です。

 これと対応して、芸術家にへたに威張られるよりは、自分たちがコントロールした方が都合がよいという制作者が、かなり力を持っていたことが挙げられます。この人たちは、マネジメントの能力はありますが、理念はない。黒字にすることと、それを通じて行政とうまくやることが一義になる。そうしておいて、仲間内の演劇人や劇団に利益を配分するとか、自分たちの都合がいいように劇場運営をする。だから、公共劇場がいくらできても芸術家主権にはなりません。

 三つ目は、行政の付随的責任です。行政官が、例外的な人は何人もいたとは思いますし、かなり賢い人が自治省にも文化庁にもいたには違いないですが、現場の担当の大概の人は、制作者や制作者と誼を通じている芸術家のなかから、手懐けやすい人物を選んで、劇場運営や助成システムの運営を委ねた、ということです。鈴木さんみたいな人と交渉するのは面倒ですからね。しかも、行政は決して直接の差配はしません。制作者や従順な芸術家にやらせます。それを支えるのが、政策やサービスを決める委員会です。ここに「識者」を集めて、決定の方向を誘導しておいて、「先生方のご意向に基づいて」こういう制度を決めました、とかやるわけです。ですから、行政にも責任はあるとは思います。またそもそも長い間作らせなかったのは政治の責任です。しかし、やればできるようになってからの失敗の根本は芸術家の側の責任がとても大きいと思っています。

【本橋】今回のシンポジウムは4回にわたって、もちろん鈴木忠志さんの演劇を評価し、それが利賀という場所でどのような思想を育んできたのかということを主題としていますが、それだけではなくて、我々が演劇にかかわるものとして、現在の日本の演劇というのをどのように考えたらいいんだろうかという問いを、事実や歴史を共有しながら考えていくことも大きな目的です。最後に内野さんと菅さんからお願いします。