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「国際演劇評論家協会(AICT)タリア賞受賞記念シンポジウム」

対談:菅孝行×内野儀「鈴木忠志と世界水準の演劇」
司会:本橋哲也】

【日時】2021年12月18日(土)
【会場】吉祥寺シアター


 UNESCO(ユネスコ)の下部組織で、フランス・パリに本部を置く国際的な舞台芸術の評論家のための協会である国際演劇評論家協会(Association Internationale des Critiques de Theatre; International Association of Theatre Critics)から2年に1回授与されるタリア賞(Thalia Prize)の2020年の受賞者に、鈴木忠志氏が選ばれました。タリア賞は、舞台芸術の芸術家ないしは著作家で、その作品、実践、あるいは著作において、演劇評論家の仕事に発見と新しい視点を与えた者を顕彰するために2006年に創設されました。過去の受賞者には、エリック・ベントリー(イギリス)、ジャン=ピエール・サラザック(フランス)、リチャード・シェクナー(アメリカ合州国)、カピラ・ヴァツヤヤン(インド)、ユージェニオ・バルバ(デンマーク)、フェミ・オソフィサン(ナイジェリア)、ハンス=ティース・レーマン(ドイツ)といった方々がおられ、鈴木氏は第8回目の受賞者ということになります。

 国際演劇評論家協会の理事会によれば、鈴木氏の授賞の理由は、以下の3点において現代世界演劇に多大な功績を果たしたこと、とされています。

  1. 俳優のために言葉と深く結びついた身体感覚の鋭敏さを持続的に養う独自の訓練方法であるスズキ・トレーニング・メソッドを考案・紹介し、世界中の教育機関で実施されている訓練プログラムを通じて、俳優や演劇関係者に広めたこと。
  1. 演劇理論家としての彼の著書である『Culture is the Body』、『THE WAY OF ACTING』が高く評価されること。
  1. 舞台芸術において常に前衛的な芸術家や個性を取り入れてきた「シアター・オリンピックス」を、世界の前衛芸術家や舞台芸術の重鎮たちとの協力によって創設したこと。

 国際演劇評論家協会(AICT)日本センターでは、鈴木氏のタリア賞受賞を記念して、2021年12月の吉祥寺シアターにおけるSCOT(Suzuki Company of Toga)の『世界の果てからこんにちはII』公演に合わせて、SCOTのご協力のもとに、「鈴木忠志と〈利賀〉の思想」と題して計4回の連続シンポジウムを実施いたしました。以下に掲載するのは、その第1回目のシンポジウムの記録です。

 この場をお借りして、あらためて鈴木忠志氏にタリア賞受賞のお祝いを申し上げますとともに、シンポジウムの記録編集にご協力いただいたSCOTの重政良恵氏に感謝申し上げます。

2022年3月30日

本橋哲也(国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会長)


【司会=本橋】このシンポジウムはタリア賞受賞記念連続シンポジウム、「鈴木忠志と〈利賀〉の思想」というタイトルを付けて、今日、それから明日、それから来週の土曜、日曜、4回連続シンポジウムでやる予定にしております。国際演劇評論家協会(AICT)とタリア賞について少しだけ紹介させていただいてから、シンポジウムに入りたいと思います。

 国際演劇評論家協会(AICT)は全世界に50ぐらいの支部がありまして、さまざまな国の演劇批評家の集団で、タリア賞という賞を二年に一度出しています。タリアというのはタレイアというギリシャの女神で、喜劇をつかさどる女神です。鈴木さんは昨年度の受賞で、8回目の受賞者ということになりますが、これまでにもリチャード・シェクナーとか、エリック・ベントレーとか、ユージェニオ・バルバとか、あるいはハンス=ティース・レ-マンとか、そういう人たちが受賞してきました。タリア賞には特徴がありまして、単に素晴らしい舞台をつくるということだけではなくて、演劇というものがどのような背景や思想や、あるいは創造的な主体によって成り立っているかということを理論的に深めて、そしてそれを全世界に広めてきたという功績を認める賞なのです。鈴木さんの受賞の理由としては、少なくとも3つ挙げられると思います。一つはもちろん舞台芸術の質の高さ。二番目は芸術的な理論。鈴木さんの場合はスズキ・トレーニング・メソッドというものがあり、かつそれが身体哲学として、普遍的な思想として世界に受け入れられている。例えば英語版の本である『Culture is the Body』のような形で世界に自分の理論を広めていく。ですからスズキ・トレーニング・メソッドが、世界中のさまざまな演劇教育機関で実践されているというだけじゃなくて、書かれた本がないとタリア賞はもらえません。三番目の特徴としては、そのような舞台と演劇理論を生かす場を形成するということですね。場所。これは今回の4回のシンポジウムの一番中核のテーマになるわけですけど、それが利賀村です。そこでは演劇が行われているだけじゃなくて、SCOTの劇団員たちが常にそこで生活して、同志の集団をつくっている。この三つの要素、舞台と理論と場ですね。この三つが鈴木さんの場合は圧倒的に、独創的なのではないでしょうか。

 そこで、今日は第1回目のシンポジウムですが、菅孝行さんの『演劇で〈世界〉を変える――鈴木忠志論』(航思社)という2021年9月に出た鈴木忠志論を中核にして「鈴木忠志と〈利賀〉の思想」の第一回目として話し合っていきたいと思います。菅さんのお相手として内野儀さんをお招きして、日本を代表する演劇評論家であるお二人に話し合っていただきます。

 さて先ほど皆さんもご覧になられた『世界の果てからこんにちはⅡ』ですが、『世界の果てからこんにちはI』は、ご承知のように利賀の野外劇場で花火を盛大に打ち上げてやられる劇ですね。昨年今回の『Ⅱ』が利賀で初演されて、この最初の版ではやはり花火が上がりました。その後室内版になって冬と夏とやって、それから今年もう一回黒部の前沢ガーデンの野外劇場に戻って、このときは花火はないんですが。それで今回の吉祥寺版はまた室内ですが、空間としてはずいぶん狭い。例えばここでは車一台ですけど、前沢ガーデンでやったときは三台並んでいましたから、そうした空間の編成というものもあるし、当然演出にも微妙な変更がもたらされていますね。そこで、菅さんのご本の話に入る前に、菅さんも内野さんも『世界の果てからこんにちはⅡ』の違うヴァージョンを全部見ていらっしゃいますから、その感想をうかがってから本論に入っていきたいと思います。

【内野】これはまだ分からないことが多すぎる作品で、まだ文章には書けないです。つまり、ちゃんと分析はできないんですけど、印象は語れるので。最初が去年の9月ですよね。東京から出掛けていくわけですけど、北陸新幹線の私が乗った車両には私ひとりしか乗っていないという、コロナでそういう状況だったわけです。自分がそういうぴりぴり状態で出掛けていった中で、この作品だけをぱっと見て帰ったみたいな印象があります。そのときは野外劇場版で花火もあったので、何となくそれで私の中では落ち着いたという感じですが、それから1年たって今年の9月に今度は利賀での室内版でしたが、またコロナの状況が悪くなって、2週末のうちの1週末の公演は取りやめになりました。そういう状況の中で、鈴木さんも『I』 だけでは言えないこと、今言うべきことのためにも『Ⅱ』をつくったということだったと思います。「日本人」というのがもうこれだけ連呼されると、身体的にだんだん受け付けなくなってくるということがあって。だけど、それはそれで、それぞれの場面場面で考えざるを得ないような、さまざまなイメージが提出されてくる。

 中国の渡世人が出てくるところにしたって、そう簡単にベタに、例えば今の日本の状況、つまり、アメリカが日本の親分でといったような、誰でもが知っているような構図を、ただ単に反復しているのではないわけなんです。要するにそういう誰でも知っている構図があることを前提にして、さまざまな形象が重なってくる。それは何重もの層を形作るので、今はまだ、私はその一番上の層にしか反応できない感じですね。

 『果てこんI』で、日本はお亡くなりになったわけですけど、お亡くなりになったといっても、実はまだ続いてしまっている。続いてしまっている日本というものについて、じゃあ、いったい何ができるのかということに関して、何もできないとは言っていないだろうとは思います。この作品では、相当絶望的な、いっさいのノスタルジアを受け付けないようなかっこうで、さまざまな歴史的な時間や権力関係や資本主義の問題といったすべてがわーっと、フラットに噴き出している。コロナ禍を機に、ということが大きいわけですが、そういうものに対して鈴木さんが、批評的かつ具体的また構造的に、いろいろなことを明らかにしていく。かつそこに日本的な情緒といわれるものすらも導入しながらも、二重にも三重にも脱構築されていくわけです。上演で構築的なものはといえば身体だけ。身体だけは残っている。だから、結局「演劇の希望」と「日本の絶望」ということになるのかなあ。今日はそんなことを思い浮かべながら見ていました。

【菅】私も初演からずっと見ているんですけど、初演でも、人の名前や別の名詞を全部日本と日本人に置き換えるという試みが執拗になされていて、それが、もうくどいな、しつこいなと思うほど、ヴァージョンが変わるごとにどんどんエスカレートしています。勿論“わざと”でしょう。これについては、昨年の9月に鈴木さんと対談した記録が『利賀から世界へNo.12』に出ていますが、そこで、私は鈴木さんに、どうしてここまでやるの? と聞いています。そういう訳で、初見ではないのでびっくりはしませんでしたが、逆に、そろそろこの執拗な問いかけに自分なりの答えを出さないといけないなと考えています。劇場にいらっしゃる方の大半がきっと日本国籍で、日本で生まれ育った、母語が日本語の方が多いと思うんですけど。そうすると、この執拗な問いかけは、結局大半の観客に対して、お前のことを考えろ、というつきつけだと考えるしかないのではないかと思います。

 舞台上の日本・日本人のイメージはポジティブなのかネガティブなのか、そこがなかなか微妙です。ラストの場面の歌は「大した国じゃなかったけれど」といいながらも、パラドキシカルな日本賛歌みたいになっています。ただ、そこまではどう見ても否定的にイメージさせるように誘導されている。その中間で観客は宙づりにされる。とにかくお前考えろ、というメッセージなのでしょう。われらはみなだめな日本、だめな日本人でしかないけど、それ以外に自分の拠って立つ基盤はない、そこへ差し戻されてさあどうする、ということなのでしょう。

 今日の舞台の印象ですが、劇場が変わると、やっぱり変わりますね。利賀の野外劇場、利賀大山房、吉祥寺シアター、それぞれの劇場にそれぞれの見せ方、見方、見られ方があると思いますが、今日が一番コンパクトな空間です。客席のスロープが急なこともあって、非常に全体がよく見わたせます。俳優さんの声もいちばんきちっと通るし姿形もよく見える。キャストが少し変わっていますけど、稽古を積み重ねていますから、徐々に緻密になっているし、非常にクリアな舞台を見られたというのが、4度目のヴァージョンを見た感想です。