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【内野】まずは、81年にはじめて利賀に行ったときにはただの通訳という存在だったと思いますけど、通訳から広報に少しだけアップグレードしていただいたのが、翌82年の第1回世界演劇祭「利賀フェスティバル’82」というやつで、その後、地方の大学に就職したり留学したりがあって、ちょっと離れる時代があります。当初は、知らない人からは劇団員になったと思われていたんですけど、それはありません。威張るようなことじゃないですけど、スズキ・トレーニング・メソッドを通訳の人でも、実際にやってみるのがだいたい慣例なんですが、私だけ、たぶんやったことがない。だから何? という話なんですけど、当時でさえ、やったら倒れていただろうという、それだけのことで。もう今や、なかなか厳しいかもしれない。今面白いなと思ったのは、ちょうどその1990年代の初めに、私は西堂行人さんと佐伯隆幸さん、そしてここにいらっしゃる菅孝行さんと、同人誌をやっていました。この本にも出てきますが、それが『MUNKS』という同人の頭文字をとった雑誌でした。Mは松井憲太郎さんのMですね。松井憲太郎さんというのは、2022年春まで埼玉のキラリふじみ(富士見市民文化会館)の館長をされていました。彼らと雑誌をやっていたんですよね。そこでやっぱり、鈴木忠志さんに対する評価をどういうふうにするかというのは、結構実は暗黙の闘争があったような気がします。菅さんの本の中でも、同じようにかつては鈴木さんの論敵であった佐伯隆幸さんが評価を変えるというような記述も、出てきているということがあって。当事者としては、やっぱり時間とともにいろいろなことが分かってくることもあるわけです。私は鈴木さんや菅さんのほとんど20歳年下ですから、親ではないですけどそれぐらい距離があるわけですよね。そうするとやっぱり、最初は世代的に抵抗しますよね。やっぱり野田秀樹だろう、鈴木忠志じゃねえよ、とかって、最初は思うわけです。それで、自分で理論化しようとしたり自分が演劇を学ぶ中で、どんどん敗北していくわけですよね。やっぱりそれは無理だ、みたいなことがあって。

 そういう経歴が一方であるので、包括的な鈴木忠志論というのは本当にたぶん、まだ怖くて書いてないというのが正直なところですね。怖くてというのは菅さんとか渡辺保さんとか、先達があまりにも凄すぎるので書きにくいということも含めて、なかなか今までちゃんとしたものが書けていません。その『MUNKS』にはいくつか書いたと思いますけど。それで、さっきの利賀村の集団性の話ですよね。そこがやっぱりさっきちょっと言った、ヨーロッパは制度だということと。それからもう一つ、アジアのある地域においては、制度というよりも伝統的な共同性。身体共同体的なものが、まだ残っている可能性がある。それがうまく近代化の中で、すくい上げられているんじゃないかと思うんですが。今回、『エレクトラ』に出演したインドネシアの人たちを見る機会があって、そんな感じがしたんですね。タイもそういう傾向が多少なりともある。その欧州対アジアの対比があって、じゃあ、日本はどうなるのか、というのが私の思考的課題としてずっとあります。

 ヨーロッパはそういうある特権的な、鈴木さんのような天才的な芸術家をコアとして、共同体をつくる。劇団をつくって共同生活をするという発想は、戦前少しあったような気もするんですけど、戦後は、アメリカ合衆国に飛び火することはありますが、西ヨーロッパではなくなりますよね。それはよくも悪くも、西洋的な意味での近代市民社会的なものに演劇や劇団、劇場が実装されていく過程でもある。つまり、演劇の集団性をどのように近代化していくかと考えたときに、職業化するんですよね。先ほどドイツのアンサンブルの話を出しましたが、そういうふうに、プロフェッショナルとして、そこで集団性というものを獲得しようとしていくわけです。ですから、繰り返しになりますが、私は本当にドイツのことしか知らないので、ほかのところは違うかもしれないんですけど。例えばベルリンのある公立劇場の芸術監督がいると、その芸術監督の美学的なあるいは政治的な意図を実現できる俳優たちが、アンサンブルとして契約してアンサンブルをつくっていく。あくまで契約を媒介とした集団性なんですね。

 そういう形で演劇の集団性というものを獲得していくということが、ドイツの演劇の強さということで言えば、しっかりできているわけです。英語圏というのは、アングロサクソン性というのか、商業化はしたけれども、職業化はしなかったと言いましょうか、一部の例外、たとえば、リヴィング・シアターのような例外をのぞいて、劇団制自体が緩いものになる傾向が強かった。これはまさしく、公共性の問題です。いっぽう日本は、白人崇拝とか言っているけど、してないじゃんと。結局あらゆる西洋的なものを取り込む中で全部実質的には無化して、旧態依然とした体制が継続していくということを、鈴木忠志さんは批判的に表現し続けていると菅さんが書いていたんだと思うんですけど。この作品なんかもそうだと思います。まさに、そういう中で、結局公共劇場の話になるのかもしれませんが、まったく西洋的な意味での演劇及びそれを実現するための劇場の制度が広くは実現できなかった。

 だから、それで鈴木さんはそういうところから離れて、やっぱり劇団制を維持する。1990年代の後半ぐらいから、劇団制というものが難しくなってくるんですよね。バブル崩壊ということが直接的な要因だと思いますが、いわゆるネオリベ化する。演劇の創造にとってそれは、例えば稽古場が確保できないとか、拠点がなくなるということに繋がります。劇団が自身の稽古場があるというのは、それからずいぶん時間がたちましたが、たとえば、老舗の東京乾電池とかはまだあるんですかね。そういう例外はあるし、俳優座なんかの新劇系は多少はあると思います。ただ、主要な部分では、結局みんなプロデュース制という、よく言えば要するに勝手にそれぞれ俳優がいて、それぞれで作品をやるときにオーディションをして何かするみたいな感じで、劇団制というのは事実上崩壊するんですね。

 それは、演劇の本質的な集団性というものを放棄したと一方では言えるけど、しかしながら、そういう寄せ集めの俳優による演劇を見て育った人はそれが演劇だと思いこんでいるという矛盾が、生じてくる。だから、やっぱり利賀村のすごさは、たとえば鈴木さんが静岡の芸術総監督のときは静岡が拠点で、静岡にSPACという所属劇団があったけれども、それでも、夏の期間を中心に利賀村に来るということが、静岡県との間できちっと話ができていた。それで利賀村に来ることがやっぱりできていた、というところですね。継続性ということです。

 そして、2000年代の後半以降の、この15年近くの時間が、それ以前よりもさらに、利賀村の中でいろいろなものが培われてくる時期になって、そこで培われた共同性というのは極めて興味深い実験なんだと思います。利賀村は東京から遠い遠いと言っていますけど、別に劇団が嫌になったら辞められるわけで、別に何の強制もないので、誤解をしている人はたぶんいないと思いますけど。そういう自由なんだけどある種の反時代的な肯定すべき共同性の中で、演劇のためにみんなが、作品をつくるためだけにみんなが一緒に住んでいるという状況を、この十何年でものすごく純化していったという。そして、ついにカボチャまで作った(笑)。

 カボチャを作ったというのは一つの象徴ですけど、そういう農産物を作りながら、生きることと演劇をすること、そういう集団で生活をすることというのが、今がおそらくもっとも理想的な形で結び付いているので、今日、観客の皆さんがごらんになった水準の舞台になっているんじゃないかと思うんですね。

【本橋】今年の夏に演劇祭に行ったらば、今SCOTには農園がたくさんあるので、新鮮な野菜が食べられる。カボチャは作付面積を間違えたとかで、600個ぐらいできちゃったらしい。あの白いカボチャは、利賀の名産、ハクシャクカボチャ。普通の黄色いカボチャもできたんですけど、そのハクシャクカボチャというのは、私も大きいのを持って帰って料理をしました、実が崩れない。だから、もちろんスープにもなるしソテーにもなるしで、本当においしい。とにかくそういうカボチャがたくさんできたので、演劇祭に行った人に渡した。とにかくそういう日常的な、食べる、飲む、暮らすということを基にして、集団性が成り立っているわけですね。自分たちの同志というものをどうやってつくるのかということが、演劇の一つの妙味だと思うんですが。