劇カフェ「石澤秀二氏に聞く演劇人生70年」
——俳優座養成所が廃止され、桐朋学園短期大学部に演劇専攻が設置されました。
67年3月に16期生卒業で、18年間の活動を終えた俳優座養成所の後身として桐朋学園短期大学部に演劇専攻が設置された経緯を先ず考えたいと思います。
私は観世寿夫さんがフランス政府招聘芸術留学生としてジャン=ルイ・バローさん主宰のテアトル・ド・フランスの拠点劇場オデオン座に1962年に留学した後を受けて、64年11月に同じく芸術留学生としてバローさんの許でオデオン座に入り浸りました。オデオン座二階席を隠して小劇場に改造した舞台の客席最前列でマドレーヌ・ルノーさんのベケット作『しあわせな日々』を観ました。ルノーさんの下着の肩紐が外れ、老いても可愛い乳房丸出しの舞台を観ました。バローさんのやんちゃぶりも舞台袖で観ました。そして翌65年の春に珍しく千禾夫先生から桐朋学園大学に演劇科が出来るから来ないかとのお誘いの手紙を戴きました。勿論大賛成で帰国後、永曽信夫さんを紹介され、文科や音楽科のある桐朋学園短期大学部に俳優座養成所の3年制コースを移す計画と知りました。この計画は仙川在住の安部公房さんのお嬢さんが通う桐朋学園女子高の生江義男校長との話し合いの現実化と知りました。つまり安部先生が中心になって、俳優座と桐朋との橋渡し役を担ったのです。その当時、私は当然、白水社を辞めて、桐朋演劇科の専任になるつもりでしたが、安部さんから白水社に電話があり、白水社を辞めないで欲しいと言われて驚き、理由を尋ねると、専任教員並みの給料が払えないからとの返事でした。後で知ったのですが専任教員並みの給料支払は永曽さん独りで、千田・田中・安部三教授も殆ど無給に近いと知りました。
つまり私は非常勤講師並みの給料を承知で準専任助教授として参加したのです。そして1966年4月に1期生の入学式があり、桐朋音楽大学学長の井口基成教授が学長挨拶をしました。従って私は桐朋音楽大学付属短期大学部演劇専攻という理解でした。しかし給料の支払先が桐朋学園大学ではなく、桐朋学園女子部とあったのも驚きでした。つまり桐朋学園は音楽部・男子部・女子部の三部門の統合体でした。私が私学共済組合に加入できる専任教員並みの給料を戴けたのは随分後からでした。で『新劇』の編集といい、桐朋演劇科の創立教員といい、千禾夫先生のお話の当初は経済的に恵まれない、不安定な就職先でした。
千田先生も千禾夫先生も大学の実務や経済には疎く、もっぱら安部先生が実際面で大分苦労されたと思います。そして創設当初は男子用トイレがないのも驚きでした。加えて演劇科の学生は、経済的に恵まれた子弟の多い音楽科の学生や女子校の生徒たちから、ちょっと白眼視された存在でした。なにしろ自習室がないため、日舞の時間には冬でも浴衣姿でロビーや校舎外の通路など、場所にお構いなく闊歩し、踊りの稽古をする姿は、女の園の女子校には物珍しい異様な風景でした。
私は演劇史・演劇論にフランス語ともっぱら座学担当の上に学生部担当でした。設立当初は小劇場もなく、もっぱら桐朋女子部の講堂を使用していましたから、講堂の屋根裏に食物の残り滓があれば、演劇科学生の不始末と私が叱られ、女子校の机に反戦ビラやデモ参加のチラシが撒かれると、実際は女子校生の仕業なのに演劇科の学生のせいだと、非難されることが多かったのです。
デモといえば、学生運動華やかし頃、黒ヘル姿の佐藤信君がよく短大ロビーに現れて、アジ演説をぶち上げていました。そしてデモに参加する学生たちは短大ロビーで黒ヘルにゲバ棒に手拭いマスクで完全武装を整えて、仙川駅に行進し、新宿に向かうのです。しかし生江学長から、幼稚園児や小学生もいる校内でデモ出陣の気勢を上げるのだけは是非止めて欲しいとの強い要望があり、学生たちに仙川駅前までは隊列を組まずに自由行動にして、駅前で武装を整えて出発するように説得しました。学生たちも素直に承知してくれて、学内でのデモ行進は止めてくれました。当時のデモ学生で現在演劇人として活躍するだけでなく、阪神・淡路大震災後に「がんばろう!神戸」を提唱して被災者支援活動をし、現在も福祉活動を続ける人が堀内正美君です。
また私の数少ない演出ではない演技指導作品で、青年座では出来ない貴重な実験的作品を挙げると、能の動きの授業を担当した親友観世静夫(前銕之亟)と共働して作った現代能『隅田川』です。地謡を村人のコロスとして扱い、照明も活用した舞台を安部先生も褒めてくださいました。またカミュ唯一の喜劇『精霊たち』、これはモリエール作『守銭奴』の先駆的中世喜劇をカミュが脚色した作品で、客席の講堂一杯を駆け巡り、トランポリンを使ったり、紅白の玉入れを客席に持ち込んで、守銭奴をやっつけたりする舞台造りなど、ザ・ニュースペーパーの 渡部又兵衛君の学生時代のヒット作でした。さらにギリシア古代悲劇のアイスキュロス作『オレスティア』三部作『アガメムノン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』にエウリピデス作で、トロイア敗戦の女王『ヘカベー』を加えた4作を1作に纏めた脚色劇『復讐する女神たちーエリニュウス』を作って上演しました。クリュタイメストラを千田先生の孫娘故中川安奈君が演じたことも覚えています。そして客席に滝沢修さんが観に来ていました。更に宮本研・清水邦夫・別役実の作品も良く手がけました。
さて自分のことはともかく桐朋時代にもっとも困ったことは千田・安部両先生の対立でした。その原因は専攻科の三ゼミ制です。つまり学生たちの希望に応じて千田ゼミ・田中ゼミ・安部ゼミを学生たちが自由に選択する3ゼミ制を作ったことです。学生の評判も良かったのですが、そのうち千田ゼミと安部ゼミの学生間に鋭い対立や論争が生まれてしまい、両教授の対立が表面化し、これには私や教務担当の永曽さんも困り果てて生江学長と面談して解決策を探ったものです。結果は演劇科創設の功労者の安部先生が辞職することで決着がつきました。そして3ゼミ制も解消しました。これは残念なことでした。
そして演劇への傾斜を深めた安部さんは73年に安部公房スタジオを創設します。
これには安部ゼミ卒業後に俳優座に進んだ山口果林・佐藤正文ら8名の桐朋出身者のほか仲代達矢・井川比佐志・田中邦衛・新克利の俳優座メンバーも俳優座を退団して参加しました。つまり安部公房スタジオは桐朋演劇科内の千田・安部の対立の所産ともいえます。
そのほか桐朋には思い出も多いのですが、在任中に4年制大学に移行できなかったことが残念です。私は短大卒と4年制大学卒とでは社会的格差が大きいことを痛感していましたので桐朋短大演劇科3年次卒業を後1年伸ばした4年制大学に移行したかったのです。これには教務の永曽さんとは対立したものです。千田先生も後で4年制大学にすべきだったと悔やんでおられましたが後の祭りです。青年座から桐朋に移った越光学長のお陰で、現在は4年制大学卒の資格と同等の扱いが出来るようになったそうです。
——ここ座・高円寺が誕生するに際しても石澤さんがかかわったそうですね。
私は杉並在住時に区の外郭団体すぎなみ文化協会設立当初から解散までの永い期間、演劇関係委員として、及ばずながら区民の演劇理解と普及のお手伝いをして来ました。そして私の夢は杉並に公立劇場を創設することでした。ちょうど三軒茶屋に世田谷区立の世田谷パプリックシアターとシアタートラムが佐藤信芸術監督で1997年に開場した頃から杉並区でも劇場創設の気運が拡がりました。
杉並区側は、劇場に加えて従来の区民サービス機能も残したいと強く要望し、また高円寺地域活動の名物である「東京高円寺阿波おどり」専用のスペースを持ちたいとのことでした。それならいっそ3つの機能を持つ空間を造れば良いとの結論になり、斎藤憐・別役実の故人と私の3人が創設に大いに注力しました。
先ず自由に客席を組み替えられる座・高円寺1と額縁舞台の固定客席を持つ座・高円寺2の2劇場を持つ上に、阿波おどり専用の舞台空間を持つことです。この3機能を持つ劇空間を主体に、カフェや劇場付帯の演劇図書館、稽古場・作業場の関連施設を持つ座・高円寺(行政上の名称は杉並区立芸術会館)構想が確立したのです。劇作家協会とパートナーシップを結び、座・高円寺1に日本劇作家協会提供の上演作品が多いこと、またカフェや図書館を含め劇場創造アカデミーという演劇人教育の場があることなど、他の公共劇場とは違った特徴が備わり、今日の活動に結び付きました。
——締めではないですが、70年間身を置いた演劇界に対して今、想うことは何ですか。
お求めに応じて最後に想うことは、最近の演劇界は、コロナ禍も加わって、とりわけスピーチドラマ分野の地盤降下が残念ながら甚だしいと思います。特に民間劇場・劇団の苦境の凄まじさを痛感じます。同時に若い俳優諸君の演技力、舞台から観客に言葉を届ける基礎的演技力の不充分さをも痛感します。恐ら く劇団にとって苦境脱出の特効薬はなく、苦境に耐えながら地道な努力を重ねるしか方法はないのかも知れません。同時に力を蓄えつつある公共劇場の在り方にも注目すべきと思います。その代表的存在として、特に新国立劇場の在り方を再吟味すべき時期になったと思います。近代リアリズム様式に基づく戦前傑作戯曲の数々をリアルに再現する企画が欲しいと思うのです。新国立劇場上演の田中千禾夫作『マリアの首』の中途半端さに失望したことは前述の通りですが、1997年12月上演の木村光一演出『夜明け前』のような、しっかりとしたリアリズム様式に基づく、今や近代古典とも言うべき傑作の数々を、奇をてらわずリアルに上演して欲しいのです。そのためにもリアリズム演技の再構築を俳優諸氏に望みたいのです。以上、蛇足ながら申し上げました。
石澤秀二(いしざわ・しゅうじ)
1930年生まれ。早稲田大学大学院演劇専攻修士課程修了。雑誌『新劇』編集長を経て、桐朋学園短大演劇科創設に参加。同大教授退職後、青年座文芸部長を経て、日本演出者協会副理事長、国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会長を歴任。
山本健一(やまもと・けんいち)
1944年東京都生まれ。演劇評論家。朝日新聞社入社後、学芸部(現・文化くらし報道部)で文化、演劇を担当。東京本社編集委員を経て退職。朝日新聞夕刊他で劇評を執筆している。著書に『劇作家 秋元松代――荒地にひとり火を燃やす』(岩波書店、2016年、第22回AICT演劇評論賞受賞)。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター前会長。