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深津篤史氏 2011年6月 撮影=劇団
深津篤史氏 2011年6月 撮影=劇団
 7月31日、劇作家深津篤史さんが亡くなった。享年46歳だった。

 5年前に肺小細胞がんの告知を受けていた。以来、演出もふくめ、20本もの作品を手がけた。今年に入り、痩身がさらに細くなった。車イスで最後まで仕事を続けたが、痛み止めのモルヒネのせいか、時折がくりと首をうな垂れた。壮絶で崇高な最期だった。

 劇作家としてさらに高い評価を受けるはずだった。手塩にかけた桃園会の俳優が力をつけ、深津戯曲を十全に舞台化できる環境が整いつつあった。そこに病が立ちはだかった。残酷としか言いようがない。

 同志社大学で新聞学を専攻。都市人類学を援用し、修士論文「都市言語学的見地から見たコミュニケーション」を書いた。在学中、学内の劇団、第三劇場に俳優として入団。25歳で劇団「桃園会」を旗揚げした。

 終末感が漂う作品が多い。処女作からして、本人曰く「『寿歌』のパクリ、核戦争後の終末」だった。95年の阪神淡路大震災が、終末への意識を決定的にした。家族は無事だったが、芦屋市の実家は全壊。自分がそのとき大阪にいたことに、後ろめたさを抱き続けた。四か月後、京都で上演した短篇『カラカラ』は、避難所で暮らす少女のおののきを描いて、尋常でないリアリティがあった。

 戯曲を書くときは、まず場所を想定した。次にタイトルと人物名を決め、ペンを執った。或る日、大阪市北部で、マンションが立ち並ぶ荒涼たる光景に出くわした。衝撃を受け、団地の空き地を舞台にしようと思いつく。その空き地には、住民コミュニケーションを図るべく集会所が建つはずだったが、中止になった──そう設定することで、コミュニケーションの不可能性を示唆した。98年、第42回岸田國士戯曲賞を受賞した『うちやまつり』である。

 団地では連続殺人が起きている。容疑者の青年は、子どもの頃、雄のカマキリが交尾しながら雌に食われるのを見たことがあった。真犯人の女が言う。「セックスと殺人って、同じもんやと思うの。」それは正反対にみえて、どちらも他者との究極的な関わりである。コミュニケーションへの絶望と、それと裏腹に、他者との関係をもとめる強い思いが、終末論的な色合いで描きこまれた。

 断片的な対話、文脈から逸脱する発話、真偽の疑わしい発言。一見、齟齬や破綻と見えるものが伏線になり、徐々に状況が浮かび上がってくる。すぐれて現代演劇的な手法であるがゆえに、難解だと言われた。

 岸田戯曲賞を受賞しても、観客数はさほど伸びなかった。それでいて、受賞作家がどんな仕事をするか、厳しい視線が注がれた。自らのスタイルを洗練しつつ、観客を魅きつけなければならない。重圧のなか、模索が始まった。

 まもなく、努力が実を結んだ。桃園会と遊劇体との合同野外公演『のにさくはな』(01年)が、千人以上の観客を集めた。翌年の『blue film』も好評を得た。故郷の駅に佇む女性が自らの小学生時代に迷い込み、そこで幼なじみたちに出会う。じつは彼らは皆、震災で亡くなっている。喪った友への思いが、透き通った叙情となって、胸を打った。『よぶには、とおい』(03年)『中野金属荘、PK戦』(04年)と、次々と傑作が生まれた。

桃園会 第44回公演 20周年・二作同時上演『blue film』『よぶには、とおい』2013年1月/3月、伊丹AI・HALL/下北沢ザ・スズナリ 撮影=白澤英司
桃園会 第44回公演 20周年・二作同時上演『blue film』『よぶには、とおい』2013年1月/3月、伊丹AI・HALL/下北沢ザ・スズナリ 撮影=白澤英司

 劇の核心に鮮やかに切り込む演出家として、評価が高かった。なるべく場所を変えず、モノローグを使わず、照明や音響にも頼らない。その分、空間にこだわった。池田ともゆき氏のシンプルな美術を活かし、せりふや俳優の動きで舞台の空気を染めて、濃密な空間を生みだした。

 05年には、大阪現代演劇祭・クラシックルネサンスで菊池寛『父帰る』、久保田万太郎『釣堀にて』を、新国立劇場で岸田國士『動員挿話』を演出。読売演劇大賞優秀演出家賞を受けた。その後、新国立劇場では、三島由紀夫『弱法師』、別役実『象』、ハロルド・ピンター『温室』を演出。桃園会でも近代戯曲に挑み、ことに三好十郎『浮標』(10年)は一瞬の緩みもない舞台になった。

 高校時代は応援団だけあって、男気があり、目下の面倒をよくみた。伊丹・アイホールで北村想氏のもと、戯曲塾の師範代を務め、新人賞受賞者を輩出した。大阪現代舞台芸術協会の会長を務め、難波の精華小劇場の設立・運営にあたった。

 亡くなる一カ月前に上演した、桃園会『覚めてる間は夢を見ない』が遺作になった。炬燵があった実家の居間、早くに亡くなった叔母、父が家を出た後の少年期の思い出。入院中の主人公「私」が見る夢を介して、生涯をふりかえる私戯曲でもあった。終幕、病室で臥せる「私」の傍らに、編み物をする妻がいる。演じたのは中村京子さん、他でもない深津夫人だった。

 告別式での夫人の挨拶が痛切だった──私たち夫婦は、演劇の世界で知り合いましたので、今日がいわば千秋楽と思っております。支えてくださった関係者、そして多くのすばらしい作品を生みだした主人に、どうか拍手を、拍手を、いただけませんか。

 大きな拍手が湧きおこった。いつまでも鳴りやまなかった。

桃園会 第31回公演[精華演劇祭vol,4]『もういいよ』2006年6月、大阪・精華小劇場 撮影=白澤英司
桃園会 第31回公演[精華演劇祭vol,4]『もういいよ』2006年6月、大阪・精華小劇場 撮影=白澤英司