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——「アンチ新劇的新劇」とは

 従来の「新劇」の呼称は明治末から移植され、築地小劇場時代に開花して以降の我が国の近代写実劇を指しています。つまり西欧近代演劇を移植した文字通りの「ニューシアター」ですね。その上、翻訳劇と創作劇という、今から思えば二項対立のような奇妙な用語が一般化しましたね。日本の作家が書いた新作も含めて、日本の近代劇が「創作劇」と言われ、ギリシア古典以来のすべての欧米演劇が「翻訳劇」と一括され、しかも翻訳劇優先の風潮がいわゆる「新劇」でしょ。その「新劇」つまり我が国の近代演劇にアンチを唱えた新しい演劇運動がアングラと言われた、現代的な前衛劇運動です。外国人に「新劇」を「ニューシアター」と直訳すると誤解がうまれます。彼らにとっての「ニューシアター」は文字通り「新しい演劇」で、現在で言えばアングラ系の前衛劇を指すわけです。ですから「反新劇的新劇」「アンチ新劇的新劇」の用語を、旧来の「新劇」に皮肉を込めて使ったわけです。で彼ら新新劇の仮想敵は千田是也であり滝沢修であり杉村春子であったわけですね。またアングラ系のチラシには勘亭流もどきの歌舞伎的書体が多く使われ、近代以前の再検討・再摂取が始まったと思います。つまり旧来の新劇が無視してきた前近代の能・歌舞伎の再検討と受け入れが新しく始まったのです。

——1954年は新劇ブームと言われました

 「新劇ブーム」と言われた1954年は、千田・小沢・東野ら幹部俳優のマスコミ出演による資金稼ぎの成果の俳優座劇場の開場があり、文学座も市ヶ谷あたりに小劇場建設の話がありましたが立ち消えになりました。文学座はアトリエ活動を護ったことに特徴があります。民芸は『セールスマンの死』の成功があり、新劇御三家合同の、チェーホフ50年祭及び築地小劇場30周年記念合同公演『かもめ』(10月)も大入りでした。何しろ文学座が渋谷・東横ホールで長期公演を持ち、俳優座が国立大劇場に進出したり、民芸がサンケイホールを満員にするなど、落ち目の今の新劇界には想像も付かない繁栄振りでした。で俳優座と民芸にはお互いにライバル意識があり、文学座は俳優座寄りで、俳優座劇場でも公演を持ちましたが、民芸はありません。
 そして1954年で特筆すべきは加藤道夫を慕う浅利ら慶応高校演劇部と水島ら東大系学生劇団「方舟」の若者達が合同して芥川比呂志命名の劇団四季を1月に旗揚げし(53年7月14日結成)、その後続々俳優座スタジオ劇団が産声をあげました。また旧新協劇団系の青俳の旗揚げも10月でした。つまり戦中は文学座以外、地下水のように命脈を伝えて来た戦前新劇が戦後に復活した新劇御三家と、その後を継ぐ新世代台頭の新旧新劇ブームが到来したことです。彼ら新世代を助けたのがマスコミ出演でした。マスコミ出演による資金稼ぎが演劇活動を支えたとも言えます。更に大阪労演を始めとする観客組織の全国的普及も大きいですね。なお劇団民藝の水品演劇研究所に入所し、俳優教室3期生だった米倉斉加年らが結成した新劇団が劇団青年芸術劇場(青芸)ですね。

——青年座など俳優座の衛星劇団も輩出しましたね。

 俳優座養成所の1期生は森塚敏ら劇団補の9名で、公募による実質1期生の51名が2期生で、3年の養成期間を経て53年春に巣立ちます。しかし俳優座としては1期生のように全員を劇団に入れられない。そこで千田さんが「俳優座衛星劇団構想」を発表して3期生の卒業する54年春に新しい劇団作りを2期生に勧めたそうです。高橋昌也君によると、千田さんは自宅に高橋昌也・小沢昭一・早野壽郞の3人を呼び、僕も応援するから新しい劇団を作れと言ったそうです。これは俳優座にとって好都合の制度で、必要に応じて彼らを選んで親劇団に出演させることが出来るわけでしょ。事実、俳優座劇場第1回公演の『女の平和』にはスタジオ劇団員が数多く出演しています。
 そしてスタジオ劇団のなかでも話題を呼んだのは新人会です。旗揚げは千田演出のサルトル作『墓場なき死者』、2回目も千田演出のブレヒト作『家庭教師』。しかし千田さんが一番目を掛けた高橋昌也はブレヒト劇は馴染めないと言って退団しますが、3期生の小山田宗徳・渡辺美佐子・楠侑子も新人会に参加して一躍注目を浴び、その成果が田中千禾夫の名作『マリアの首』の初演に現れました。
 しかしその頃、早野壽郞の独走ぶりが批判されると彼は退団します。しかし『マリアの首』横浜公演(3月2~3日)終了後に、早野を慕う小沢昭一・小山田宗徳・楠祐子らも退団して新人会は分裂します。従って『マリアの首』の関西公演は退団者に代役が起用され、作者不満の舞台でした。その一方で新人会から独立した俳優小劇場は早野壽郞・小沢昭一・宮崎恭子(後の仲代達矢夫人)らで、61年3月、サルトル作『アルトナの監禁された人たち』で華々しく再出発を遂げます。
 この新人会分裂は私の知る劇団分裂事件の最初で、田中千禾夫の名作『マリアの首』が分裂騒動に巻き込まれたわけです。しかし66年12月に『マリアの首』3度目上演のチャンスが訪れた時、千禾夫先生は初演配役の復帰を上演の条件として譲らなかった。そのため新人会はやむなく「俳優小劇場参加」のクレジットつきで上演したわけです。その後、渡辺美佐子らも新人会を去りますが、新人会分裂の背景には。島村抱月以来の古くて新しい「二元の道」の悩みがあったようです。つまり居残り幹部は劇団プロダクション化による劇団再建案を提案するのですが、若手に否決されて幹部連中も退団して「新劇場」を結成します。こうして四集団に分裂した今の新人会は、名前だけで昔の面影はありません。