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——新劇戯曲賞を創設しました

 銀座の菅原電機の社長でもある民芸の演出家菅原卓さんと劇作家内村直也兄弟が雑誌の経済面の責任者で、お二人から新劇演技賞と新劇戯曲賞の両賞創設の提案があり、54年11月号に戯曲賞規定要旨の発表をして、翌55年3月号に先ず第1回新劇演技賞が発表され、文学座の文野朋子さんが受賞しました。
 しかし9月号発表の新劇戯曲賞の第1回は受賞作ナシで、矢代静一作『壁画』が佳作でした。後々、矢代さんは「俺は受賞ではなく、佳作だよ」と、受賞者リストに名前のないことをぼやいていました。選考委員は岡倉士朗・小山祐士・杉山誠・久板栄二郎・山田肇。同委員の飯沢匡さんは電話連絡、木下順二は外国旅行中のため欠席でした。佳作のほかの奨励賞は八木柊一郞作『三人の盗賊』ら4氏です。
 56年度の第2回は最終候補作9作の内、大橋喜一作『楠三吉の青春』と小幡欣治作『畸型児』の2作入賞。第3回も受賞作なし。劇団三期会の広渡常敏が執筆責任者の集団創作『明日を紡ぐ娘たち』が佳作。受賞作の選考は本当に厳しかったですね。第4回=1958年度に、福田善之作『長い墓標の列』と争って日本最初の原爆劇とされた堀田清美作『島』が受賞作となりました。そして名称変更の時期がきました。

——戯曲賞の名称をなぜ変えたのですか?

 1961年度から「新劇」岸田戯曲賞と改称しました。実は50年代半ばから、新潮社主催の戯曲を対象とした岸田演劇賞があり、岩田豊雄さんが選考委員長でした。その岸田演劇賞が1960年度の第7回で終了となった後、突然、『新劇』編集部に岩田豊雄さんから直接、電話があり、聞けば、「岸田」の名が無くなるのはどうしても惜しい、是非とも岸田の名を残したい。そこでお宅の戯曲賞に岸田の名を残して欲しいとの強い要望でした。勿論、私の一存で返事のできることではなく、千禾夫先生にお願いして編集委員会を開いて戴き、「新劇」と「岸田」両者の名を残し、初回からの通し番号は残すことに決まり、1961年度から「新劇」岸田戯曲賞と改称することになったのですが、改称当時の61年度は残念ながら受賞作なしでした。候補作には山崎正和作『呉王夫差』・広末保作『悪七兵衛景清』・福田善之作『遠くまで行くんだ』ほかがありました。選考委員は初代と交代して茨木憲・木下順二・小山祐士・菅原卓・関口次郎・久板栄二郎・田中千禾夫の6名で、久板さんが選考委員長として選考経過を毎回、担当しました。
 で、第10回の64年度に福田君の受賞拒否問題が起こったのです。福田戯曲は第4回で最終候補作に『長い墓標の列』が残り、堀田清美『島』と争って、受賞を逸し、翌第5回『長い墓標の列』が佳作3作の1作。そして第8回で『真田風雲録』が最終候補作でした。翌第9回『世阿弥』受賞の翌64年度の第10回受賞3作の1作が福田君の『袴垂れはどこだ』でした。この年は福田戯曲『オッペケペ』も候補作でしたが、福田君『『袴垂れ』の受賞拒否を強く申し出て、これには私も弱っていろいろ説得した結果、「拒否」ではなく「辞退」で納得してもらいました。正確には覚えていませんが、ある選考委員の発言に前々から強く反発したようでした。
 68年度の第13回には別役実『マッチ売りの少女『赤い鳥の居る風景』が受賞。別役年譜によれば『どん底~』稽古中の「1968年8月」に早稲田小劇場退団とあります。つまり68年の岸田戯曲賞受賞は別役君が鈴木君と決別し、劇作家として自立する契機になった重要な出来事でした。で白水社3階の、普段は昼食提供の食堂兼会議室で受賞式が行われ、副賞10万円の金一封が手渡され、私は悪気無く「別役君、確認しますか」と言ったら、「はい」と彼は素直に応えて札を数え始めたのです。これには私も列席の選考委員諸氏も驚きました。実は銀行振り込みも小切手も別役君にはなじまず、現金を特別に用意したのですが、私は現金を確認していなかったので、前述の仕儀になった次第です。当時の別役君は31歳の若さで、選考委員の宮本研さんや福田善之君が銀行口座開設の利点や劇作は収入にならないから、アルバイトの必要性など、先輩らしい忠告が和気あいあいの中でざっくばらんに語られ、楽しい受賞式だったと覚えています。
 実はこの13回から選考委員を一新して福田善之・宮本研・八木柊一郎・矢代静一・山崎正和(渡米中で欠席)の劇作家第二世代に変えたのです。第二世代というのは初回の選考委員が戦前からの劇作家第一世代と考えたからです。選考委員の交代は三回目に当たるわけですが、受賞辞退の福田君も選考委員就任を承諾してくれました。これは嬉しかったですね。更に選考経過の公表を決意しました。68年3月号に選考委員4氏の座談会形式で選考合評を行いました。これも画期的なことで、選考委員の若返りには決断を要しました。

——別役実さんは終生、千禾夫先生と言って尊敬していた。尊敬した理由は何だと思いますか

 別役さんの尊敬する人は先ず、俳小の演出家早野壽郞さんです。僕らは「カンペイさん」との愛称で呼んでました。そのカンペイさんや楠侑子さんの恩師が田中千禾夫先生でした。人間的には勿論、劇作家としても尊敬していたようです。脱近代リアリズムの格闘に共感したのかも知れません。別役夫妻と千禾夫先生宅で出会うことも何度かありました。両者の関係は正月、論創社刊の単行本『別役実の風景』(編=野田映史、イラスト=べつやくれい、2022年)に詳しく書きました。
 で話を戻しますと、次に記憶に残るのが、唐十郎受賞反対の抗議活動です。1970年度の第15回受賞作は早稲田小劇場初演の唐十郎『少女仮面』でした。選考委員は前述13回のままで、選考経過も座談会形式です。おそらく芥川比呂志さんや福田恆存さんにとって唐戯曲は、伝統的な「岸田」の名を汚すと思われたのでしょう。それほど当時は、唐十郎の演劇活動は衝撃的で画期的な事件でした。恐らく矢代さんあたりが抗議の対象になったと思います。もちろん私の許に抗議があれば、受けて立つ覚悟でしたが、幸い編集部には直接の抗議はなく、ホットしました。このあとは唐受賞に続く佐藤信・井上ひさし・清水邦夫・つかこうへい・太田省吾・野田秀樹に至る、いわゆるアングラ系以降の受賞者が数多く選ばれるようになり、彼らも選考委員を引き受けてくれるようになり、時代の趨勢に伴って戯曲賞の受賞者も選考委員も変化していったのだと思います。

——賞の名前は現在の岸田國士戯曲賞と改称しました

 通称岸田戯曲賞の名が定着して、雑誌名かんむり「新劇」をつける必要もなくなったからだと思います。で第23回=1979年度から雑誌名「新劇」が外れ、岸田國士戯曲賞と改称したのです。受賞作は岡部耕大『肥前松浦兄妹心中』。選考委員にも井上ひさしさんが初参加。そして第26回からは唐十郎・佐藤信・清水邦夫も選考委員に参加しました。唐君の選考委員参加は画期的だと思います。こうして名実共に岸田國士に代表される日本近代演劇から脱皮した脱近代の選考委員が、いわゆるアングラ系以降の現代的前衛戯曲を受賞対象にしたわけです。私も『新劇』と白水社を離れた後、雑誌名の『新劇』も変わり、遂には廃刊になったとき、毎日新聞に『新劇』の葬式を出せと、と寄稿しました。真意は日本独自の近代演劇である『新劇』の名称が曖昧になり、廃語にすべきと思っていたからです。そしていわゆるアングラ演劇は私にとって「アンチ新劇的新劇」でした。そこで旧い「新劇」は死んだ、と公言していました。