Print Friendly, PDF & Email

——石澤さんには名著『祈りの懸け橋 評伝田中千禾夫』(白水社、2004年、第10回AICT演劇評論賞)があります。『マリアの首』は田中千禾夫が最も愛した作品ですね。その内実と思い出は?そして田中千禾夫は『8段』など過激な演劇実験をした前衛演劇人でもあった。いわばアングラの先行者でしたね。

 『マリアの首』の特徴は先ず文体の使い分けと統合にありますね。長崎ことばと標準語。内心を語るメタフジックな詩的ことばと観念的なことば。これらが融合して雪の降る夜の聖人立像やマリアの首の語りになる。前作の『肥前風土記』では長崎を見下ろす山々が口を利いたと評判になりましたが、ここではマリアの首が口を利くのです。更に忘れられない場面は印刷所のシーンです。人物名では第二の男と表記された半白の老人。彼は息子を原爆で死なせた植字工で、原稿を持ちながら「せ、か、い、へ、い、わ、は、な、が、さ、き、か、ら」と一字一字呟きながら活字を拾うシーンで、その一語、一語の発音に重みと格調があって見事でした。背景には「お願い、お願い」の美しい女たちの声が何処からともなく聞こえて来て場面を盛り上げ、窓の外に雪がしんしんと降るのです。植字工を演じた宮部昭夫さんの名演技は今でも忘れられません。もちろん美佐子さんや楠さんの演技も眼前に浮かびます。新国立劇場で『マリアの首』が上演されたとき、このシーンがないのですね。電柱に寄りかかって、ただせりふを言うだけの演出にうんざりしました。『マリアの首』誕生の前提に千禾夫先生にしては珍しい取材として、被爆された方々との懇談会が開かれています。新国立劇場はもっと、日本のリアリズム劇と演技を再考すべきですね。また『マリアの首』が日本の原爆文学に採用されていないのは、おかしいと木村光一君が言っていましたが、私も同感です。
 更に60年安保を代表する象徴的作品は田中千禾夫作『8段』だと思います。『8段』の登場人物名の最初に「青年座全員」とあるように、青年座の稽古場で『8段』という芝居の稽古を舞台化した、いわゆる「メタシアター」様式の先駆け的作品が『8段』です。更に初演は60年6月の俳優座劇場ですから、公演中に六本木を通るデモ隊のシュプレヒコールが客席に響いて来るわけで、芝居と現実が一体化するわけですよ。芝居には、デモ参加に疲れ果てた役者群像も活写され、初めの上演台本にはなかった「安保反対」が劇中に追加されて叫ばれ、その意味で『8段』は正に「安保」に取材した戦後最初のメタシアター的な重要作品ですね。

——60年の安保騒動から演劇界の政治の季節が始まりますね

 はい。60年5月17日に安保阻止新劇人会議が結成され、千田さん以下木下順二さんや福田善之君等がトラックに乗ってアジる新劇人のデモが活発に行われ、6月15日には右翼の暴力でデモ中の新劇団関係者48名の重軽傷者が出た事件も記憶に新しいところです。
 そして本来は4月に予定された第1回訪中新劇団が9月12日に香港経由で出発しました。演目は『女の一生』『夕鶴』『石の語る日』『死んだ海』及びシュプレヒコール『沖縄』『安保阻止の闘いの記録』『三池炭鉱』。この政治色の強い訪中公演がぶどうの会や文学座の分裂問題を引き起こす下地になったのです。
 まず山本安英さんと彼女を慕う木下順二さんを中心とするぶどうの会、劇団名の「ぶどう」はもちろん築地小劇場のシンボルマークです。で、木下さんの『夕鶴』で一躍有名になったぶどうの会は訪中公演帰国後の61年1月、安保闘争の挫折感も漂う中で「演劇の政治的効用を第一義と考える劇団」との体質批判を理由に先ず天野二郎ら6名の脱退者を出し、翌2月には創立メンバーの山田肇ら9名が「政治性より芸術性を保持せよ」との主張で脱退。因みに山田肇さんはスタニスラフスキー著『俳優修業』1部・2部の翻訳者としても有名な明治大学の演劇学者です。
 そして特筆すべきは演出家の竹内敏晴・和泉二郎に俳優の坂本長利らも脱退して劇団変身を64年11月に結成し、その拠点劇場を代々木の住宅街に定員60名の代々木小劇場を建設したことです。和泉演出『僕達はベトナム戦争のことを話しているんだ』の12月初演後、竹内演出で秋浜悟史の名作『冬眠まんざい』も初演され、宮本研作品も含めた活動は、後の66年以降に台頭する早稲田小劇場・アンダーグランド自由劇場・天井桟敷・紅テントに黒テントなど、現代演劇の前衛的小劇場運動の口火になったことを高く評価したいと思います。

——安保闘争後の63年に文学座の分裂問題が起きます

 はい。訪中公演用の『女の一生』改訂問題と、中村伸郎・賀原夏子・松浦竹夫らの訪中辞退者問題が明るみに出たことがキッカケですね。また政治性より芸術性優位の劇団内で、杉村春子さんの左傾的行動を疑問視する声も高まり、現状批判を訴える若手の不満の無署名ビラの張り出しもあったようです。そして遂に正月を迎えた1月14日付けの毎日新聞朝刊に文学座脱退者問題がスクープされ、その日の1月14日に、福田恆存・芥川比呂志ら座内の中堅・若手29名の退団届が文学座に提出され、現代演劇協会設立と付属劇団雲の結成発表に向かったわけです。この造反劇は杉村さんや中村伸郎さんなど劇団幹部には全く察知できない隠密裡の行動でした。
 しかし幹部連中は知らなくとも座内の若手を巡る退団か残留かの暗黙の駆け引きは62年冬あたりから顕在化して、私も多少は見聞きするようになりました。謀議の場所は原宿の荒川哲生君のお宅と知っていました。当時の文学座には荒川君を始め木村光一・関堂一・中西由美と言った優秀な若手演出家が育ってアトリエ活動を華やかに展開していました。なかでも荒川・木村の両君とは仲良しだったから当然、彼らから情報が入って来るわけです。そして1月初旬の或る日の夜、突然、新潮社の向坂隆一郎さんから長電話がかかり、内容は退団者メンバーについてのさぐりの電話でした。私は正直に知っていることを話したと思います。後から聞けば、石澤がこれほど察知しているならマスコミに漏れるのも時間の問題だと思ったそうです。また毎日のスクープには石澤が関係しているという噂もありましたが、私が情報源ではありません。なお向坂さんは福田さん主宰の現代演劇協会の専務理事となり、付属劇団雲の製作部長にもなった方です。
 で、福田さん主宰の雲は華々しく旗揚げをし、病気療養中の芥川さんも65年に復帰して雲の指導的立場に立ちました。両雄並び立たずで、福田さんはもっぱら大衆性ある演目を選ぶ劇団欅に集中しますが、74年の三百人劇場開場の頃には、両者の対立は激化して「雲」=芥川派、「欅」=福田派の構図が鮮明となって、1975年7月末に芥川以下、仲谷・岸田夫妻、神山繁さんら多くの「雲」の俳優が現代演劇協会に退会届を提出し、翌8月1日、49名で演劇集団 円と所属俳優のマネージメント会社「円企画・代表渥美国泰」を結成。76年に西武劇場で別役実作・高橋昌也演出『壊れた風景』で旗揚げします。
 一方、福田さんは雲の残留組と欅を統合して劇団昴を結成した訳です。現在は三百人劇場も無く、円と昴のみが活動を続けていますが、私には荒川君の行動が気がかりでした。劇団雲設立の蔭の功労者である彼は結局、福田・芥川両氏から離れ、現代演劇協会理事長と三百人劇場が福田恆存さんから息子の福田逸氏に渡ったことも知って、金沢を拠点に地域演劇の振興に力を尽くし、2003年に亡くなりました。退団者の続く中、北村和夫さんが文学座の事務室で号泣する姿も見ました。彼も退団を誘われたに違いありませんが、同期の仲谷昇・小池朝雄らと決別したのです。木村光一君も居残り組です。文学座はさらに退団者を出します。1964年の三島作『喜びの琴』事件です。文学座はその反共的政治性の濃厚さに上演保留を作者に申し入れたのですが、作者は上演を拒否して退団します。これを契機に賀原夏子・丹阿弥谷津子・南美江・中村伸郎に加えて三島由紀夫・松浦竹夫らがグル-プNLTを結成し、三島作品を上演します。グループ名は「新文学座」を意味するイタリア 語 Neo Litterature Theatreno の頭文字で、顧問の岩田豊雄さん命名です。三島さんたちが去った後、劇団は賀原さん主宰のフランスブールール劇路線を展開していきます。
 今思うと、福田・三島の退団による一連の造反劇は結局、戦前からの旧文学座の体質が戦中・戦後の有力俳優の脱退により、反って俳優陣が若返り、皮肉にも新文学座に生まれ変わったと言えます。木村光一は1981年に杉村批判を展開して退団、地人会を結成したことは皆さんもご存知の通りです。私は何度か杉村さん筆頭の訪中団に同行したことがありますが、北京から済南行きの飛行機でたまたま杉村さんの隣に坐り、木村擁護論を展開したことがありました。後日それが理由で杉村さんを囲む会から外された記憶もあります。

——俳優座の千田・小沢対立の原因は日本共産党問題ですか。

 背景には共産党問題があると思いますが、俳優座でも千田・小沢の対立は68年頃から激化する一方、反代々木系の新左翼系中堅・若手の俳優たち、中村敦夫、市原悦子・塩見哲夫妻、原田芳雄らに楠田薫さんも加わった11名が千田批判を展開して退団します。俳優座の俳優養成所も佐藤信ら14期生卒業の65年生徒募集を止め、16期生卒業の67年3月に18年間の活動を終え、桐朋演劇科創設に向かいます。

——60年代のアングラ演劇の台頭をどのように評価されますか。

 既成新劇団が内部から若手の反既成、造反有理の嵐を受けて風にそよぐ葦のように揺れ動く時代の一方で、66年1月の代々木小劇場を拠点とする変身の活動を皮切りにいわゆるアングラ系小劇場運動が60年代後半に台頭しますね。その経緯は扇田昭彦君の著書に詳しいので、ここでは印象的なことだけを記します。
 先ず近代額縁舞台の既成劇空間の拒否ですね。端的には唐十郎の紅テントと佐藤信の黒テント。加えて寺山修司の街頭劇。若きジャック・ラングが主宰したナンシー演劇祭に青年座の一員として参加したとき、寺山君の天井桟敷も参加しました。そして彼らは突然、教会の内陣に躍り込むのです。これは敬虔なカトリック信者にとっては許されないことで、彼らは大ショックで驚きの目を見張るばかりですが、信仰と無関係の日本の若者たちにとって、内陣突入はなんらの抵抗もないことですね。文化の違いを痛感したワンシーンでした。寺山の天井桟敷は日本よりも西欧での活動が多く、有名になりました。それに唐の『二都物語』ですか、上野不忍池から役者たちが這い上がり、最後はテントが巻き上がってイルミネーション輝く現実の上野のビル群が立ち現れるシーンは強烈な印象でした。それに鈴木忠志の早稲田小劇場初演の白石加代子の『劇的なるものをめぐってⅡ』ですね。満員の狭い客席には演劇関係者以外の多くの文化人がいました。鈴木の創案した足腰を鍛え、呼吸法も含めた独特な演技訓練法「スズキメソッド」はモスクワ芸術座をはじめ欧米各国や中国・台湾・韓国・インドネシアのアジア諸国・地域で盛んに受容されていますね。加えてドイツ・アメリカ・日本の俳優たちによる『オイディプス王』など、多国籍俳優による多国籍言語の同時上演などの成果もありますね。更に太田省吾作・演出で初演した沈黙劇『小町風伝』。加えて土方巽の暗黒舞踏。また前衛絵画に前衛音楽。これら一連の新興芸術表現の現れは、脱近代の日本の転換期を示す社会的、文化的現象だと思います。その先鋭化が脱近代のアングラ演劇だと思います。その他、67年の渋谷の喫茶店ジローでのカフェシアターで、山崎正和脚色・早野演出『オイディプス王』が上演され、観世寿夫が観劇しました。これが直接的原因となって、前々から観世三兄弟や野村兄弟と話し合っていた能・狂言役者と青年座が結束した前衛的集団創りに向かったのです。青年座は寿夫夫人の関弘子さんと文芸部長だった私とで森塚敏・山岡久乃夫妻の了承をえたのです。で寿夫命名の「冥の会」の初期メンバーには早野・山崎両君も入っています。渡辺守章君は本人の希望を友人のよしみで私が取り次ぎ、入会を認めたのです。
 新宿文化の映画終演後のヨル10時からのアートシアター新宿公演が開始されたことも現代的前衛劇運動に寄与しましたね。開演前に多くの人が新宿文化を取り巻き、行列は喫茶店街の奥まで延びて立ち並ぶ若者たちの姿は当時、新宿の風物詩としても有名でしたね。因みに68年9月にモスクワ芸術座が『どん底』『三人姉妹』『検察官』の演目で、来日再公演があった時、その10年前の初来日時の熱狂的歓迎ブームがウソのような冷遇ぶりで、時代の変化を痛感させました。
 正に反既成・反近代の前衛的小劇場運動の展開は、近代既成劇場の幕による第四の壁の完全な破壊です。舞台と客席とを一体化し、装置も簡略化した反近代的傾向は現在に続いています。
 ここで野田秀樹君のエピソードをご披露したい。夢の遊眠社の野田の出現は驚異的でした。彼の身体の躍動、イメージのきらびやかな劇展開、加えて野田の女役は正に反近代の代表的舞台でした。その彼が1992年に文化庁の在外研修制度の試験を受けた時、たまたま選考委員長が私でした。そして多くの受験者の中で、面接の最初の人が野田君でした。彼が入室して顔を見合わせた瞬間、予想外の再会に二人とも何故か笑ってしまった。他の面接委員や文化庁の関係者はビックリしたでしょうね。面接を受ける最初の人が彼だったとは予想外でした。彼も私が選考委員長とは知らずに入室したわけです。で私はもしロンドン留学が決まったら夢の遊民社はどうすると尋ねると、彼は即座に解散しますと明言しました。これには驚くと共に、いの一番に願書を出して面接を受ける彼の覚悟が良く解った気がしました。帰国後の彼は新しくNODA・MAPを創り、ロンドンでの研究の成果を実験していくわけですね。